大伴氏、佐伯氏、和気氏、天平時代

大伴家持:族を諭す歌
孝謙天皇の世に変わると、藤原武智麻呂の子仲麻呂が女帝に接近して権力を握り、政敵の追い落としをするようになる。最大の標的は橘諸兄だった。政治的に諸兄に近かった大伴家持は、橘諸兄がさる事件をきっかけに失脚し、ついで聖武上皇が死すると、家持にとっては更に耐え難い事件が起こった。一族の大伴古慈斐が淡海三船(弘文天皇の孫)とともに、朝廷を誹謗したという理由でとらえられたのである。

そこで、家持は一篇の長歌を作り、一族に訴えた。それは同時に、現政権に対して二心ないことを訴える目的も持っていたと考えられる。

―族(やがら)を喩す歌一首、また短歌

久かたの 天の門(と)開き 高千穂の 岳(たけ)に天降(あも)りし
天孫(すめろき)の 神の御代より 梔弓(はじゆみ)を 手握り持たし
真鹿児矢(まかこや)を 手挟み添へて 大久米の ますら健男(たけを)を
先に立て 靫(ゆき)取り負ほせ 山川を 岩根さくみて
踏み通り 国覓(ま)ぎしつつ ちはやぶる 神を言向け
まつろはぬ 人をも和(やは)し 掃き清め 仕へまつりて
蜻蛉島(あきづしま) 大和の国の 橿原の 畝傍の宮に
宮柱 太知り立てて 天の下 知らしめしける
天皇の 天の日嗣(ひつぎ)と 次第(つぎて)来る 君の御代御代
隠さはぬ 赤き心を 皇辺(すめらへ)に 極め尽して
 仕へくる 祖(おや)の職業(つかさ)と 事立(ことた)てて 授け賜へる
 子孫(うみのこ)の いや継ぎ継ぎに 見る人の 語り継ぎてて
聞く人の 鑑にせむを 惜(あたら)しき 清きその名そ
疎(おほ)ろかに 心思ひて 虚言(むなこと)も 遠祖(おや)の名絶つな
大伴の 氏と名に負へる 健男(ますらを)の伴(4465)

 反歌
磯城島(しきしま)の大和の国に明らけき名に負ふ伴の男心つとめよ(4466)
剣大刀いよよ磨ぐべし古ゆさやけく負ひて来にしその名そ(4467)
右、淡海真人三船(あふみのまひとみふね)が讒言(よこ)せしに縁りて、出雲守大伴古慈悲(こじひの)宿禰任(つかさ)解けぬ。是以(かれ)家持此の歌をよめり。


一篇は天孫降臨と神武東征から始まり、大伴氏の遠祖が「君の御代御代 隠さはぬ 赤き心を 皇辺に 極め尽して 仕へ」来たことを強調し、その「遠祖(おや)の名絶つな」とある。ここに、家持の強烈な伴造意識が伺われる。家持は俄かに弾圧されることはなかったが、因幡国守に左遷された。その直後、家持は万葉集の棹尾を飾るあの有名な歌を歌う。だがそれを節目にするかのように、家持はついに、歌うことをしなくなったのであった。

時代は移る。一時期権勢の限りを尽くした仲麻呂もやがて謀反の疑いで退く。

その後は重詐した称徳女帝(先の孝謙天皇)が僧道鏡を重んじるようになった。日本の歴史上でも稀な、隠微な時代の到来である。

その時代、家持は何故か政治的に復活した。そして征東将軍の要職にも着くことができた。歌人であることより、武門の名誉を重んじた家持にとっては、この上ない喜びであったに違いない。

家持がこれほど心を砕いた武の名門大伴氏は、家持の死後数奇な運命をたどる。

家持の死の直前、藤原種継暗殺事件というものがおきた。これに大伴氏の一員継人が関与していたというので、累は一族に及んだ。この事件は藤原氏による政敵追い落としのための陰謀だった可能性が高い。家持は事件の直後に病死し、事件には関与していなかったにもかかわらず、除名処分を受け、財産も没収されてしまった。その時の遺品の中に万葉集も含まれていたのである。家持の名誉は、死後数年にして回復され、大伴氏も滅亡を免れた。

平安時代に入り、淳和天皇が即位すると、天皇のもとの名が大伴親王であったことをはばかって、大伴氏は伴と改姓した。清和天皇の時代には、伴の大納言として知られる善男が出て、歴史的な活躍をする。大伴氏としては、久々の高官であった。

しかし、善男は886年に発生した応天門の変に連座して失脚した。これも、藤原氏の陰謀であったといわれている。そこから先は、大伴氏が歴史の舞台を飾ることはなくなるのである。

奈良時代の年表  大伴家持

養老2 718 12月、遣唐使帰国。平城京に薬師寺建立 3.10 父旅人、中納言となる。大伴家持、旅人の長男(庶子)として誕生 01
養老4 720 8.3 右大臣藤原不比等死亡(62) 3.4 父旅人、征隼人持節大将軍として隼人の氾濫を討伐 03
神亀元 724 2.4 聖武天皇即位、長屋王、左大臣 父旅人、正三位となる 07
神亀4 727 閏9.29 光明子に皇子基親王誕生 冬頃、父旅人、太宰帥に任ぜられ、赴任する。家持、都? 10
神亀5 728 夏、旅人の妻・大伴郎女、太宰府で没 11
天平元 729 2.12 左大臣長屋王、謀反の誣告により自刃
8.10 藤原光明子立后 12
天平2 730 6.1 父旅人、脚病で瀕死の重傷。
天平3 731 7.23 父旅人死す(67) 14
天平5 733 この頃、山上憶良没か(74) 春頃から、坂上大嬢や笠郎女と相聞を交わす 16
天平8 736 春より天然痘大流行。 9.1 「秋の歌四首」(08/1566~1569)を詠む。最初の歌である 19
天平9 737 7~8月、藤原四兄弟、病死。9.28 参議橘諸兄、大納言に昇進 20
天平10 738 1.13 阿倍内親王立太子、橘諸兄、右大臣 10.17 橘奈良麻呂の宴に、弟書持とともに連なる 21
天平11 739 6.1 愛妾没。亡妾悲傷の歌を7月まで詠みつづける(03/0462/0464~0674)
8.1 竹田庄に坂上郎女・大嬢母娘を訪ねる。まもなく大嬢を正妻に迎える。 12
天平12 740 9.3 藤原弘嗣の氾濫。 10.29 聖武天皇伊勢行幸。12.15 天皇、恭仁宮に入り、ここを都とする。 10.29 
3.24 国分寺・国分尼寺建立の詔勅 この春頃、蔭叙に前年の特授一階を加えて正六位となる? 24
天平14 742 8月、紫香楽離宮造営 25    天平15 743 5.3 右大臣橘諸兄、左大臣
10.15 聖武天皇、盧舎那仏造顕を発願 8月、
天平16 744 閏1.13 安積親王死す(17) 2.3~3.24 安積親王挽歌(03/0475~0480)を詠む
天平17 745 5.11 平城京に還都 1.7 従五位下に昇叙(無官) 28
天平18 746 9.29 恭仁京大極殿を山背国分寺に施入 1.1 大雪降る。橘諸兄に率いられ諸王諸臣とともに元正上皇の在所の掃雪
6.21 越中守任官、7月末近くに越中着任か9.1 弟書持没、書持の哀傷歌を詠む
この年以降、天平宝字2年1月の巻末歌まで、『万葉集』は家持の歌日記の体裁をとる。 29
天平19 747 9.29 東大寺大仏鋳造開始 2月から3月にかけて病臥し、これをきっかけに大伴池主とさかんに歌の贈答を行なう。病が癒えると「二上山の賦」、「布勢水海に遊覧の賦」、「立山の賦」など意欲的な長歌を制作する。
5月頃、税帳使として入京。 30
天平20 748 3.22 藤原仲麻呂、正三位
4.21 元正上皇崩御 春、出挙のため越中国内を巡行し、各地で歌を詠む
4.21 元正上皇が崩御すると、翌年春まで作歌が途絶える 31
天平21 749 2.22 陸奥国より黄金献上
7.2 孝謙天皇即位、藤原仲麻呂大納言任官、天平勝宝に改元
8.10 仲麻呂、紫微令を兼任 
5月、東大寺占耕地使として僧平栄が越中を訪れる
5.12 「陸奥国より黄金出せる詔書を賀す歌」(18/4094~4097)など力作を矢継ぎ早に作る 32
天平勝宝2 750 1.10 吉備真備、筑前守に左遷 「春苑桃李の歌」など越中時代のピークをなす秀歌を生み出す。 33
天平勝宝3 751 11.7 吉備真備、入唐副使。この月、「懐風藻」成る 7.17 少納言に選任。足かけ6年の越中生活に別れ
8.5 京へ旅立ち。旅中、橘諸兄を言祝ぐ歌を作る(19/4256)帰京後、翌年秋まで作歌を欠く。 34
天平勝宝4 752 4.9 東大寺大仏開眼 11.8 橘諸兄邸に聖武上皇の行幸あり、豊楽が催される。35
天平感宝元5 753 1.1 遣唐副使大伴古麻呂、唐朝において新羅使と席次を争う 2月下旬、「興に依りて作る歌」、雲雀の歌を詠む。以上三作は後世「春愁三首」と称され、家持の代表作とされる 36
天平勝宝6 754 1.16 鑑真和上、来朝。4.5 聖武上皇、鑑真より受戒 1.4 自宅に大伴氏族を招いて宴を催す 37
天平勝宝7 753 11月、橘諸兄が飲酒の席で不敬非礼の言辞があったとして誣告される 2月、防人閲兵のため難波に行き、 防人の歌を募集する。自ら「防人の非別の情を陳ぶる歌」(20/4408~4012)などを作る 38
天平勝宝8 756 2.2 左大臣橘諸兄致仕。
5.2 聖武上皇崩御。遺詔により道祖王立太子。
5.10 出雲守・大伴古慈斐(こじひ)、近江三船、朝廷を誹謗した罪で拘禁される 5月、大伴古慈斐の失脚に衝撃と危機感を覚え、「族を諭す歌」(20/4465~4467)を詠む 39
天平勝宝9 757 1.6 橘諸兄没(74)  3.29 皇太子道祖王を廃す、4.4 大炊王立太子。
5.20 大納言藤原仲麻呂、紫微内相。
6.28 橘奈良麻呂・大伴高麗路、謀反の罪で密告さる 7.4 奈良麻呂、古麻呂ら逮捕、処刑
8.18 天平宝字と改元 6.23 兵部大輔に昇進
7月、大伴、佐伯氏の多くが橘奈良麻呂に連座して逮捕されるが、家持にはなんらとがめがない。 40
天平宝字2 758 2.20 みだりに集会・飲酒することを禁ず
8.1 淳仁天皇即位
8.25 藤原仲麻呂、大保。恵美押勝の名を贈る。官名を唐風に改める 6.16 因幡守に選任される
7月、大原今城が自宅で餞の宴を催し、家持は別れの歌を詠む(20/4515)。 41
天平宝字3 759 1.1 因幡国庁にて新年の賀宴に臨み、賀歌(20/45616)を披露する。これが『万葉集』最後の歌となる。 42
天平宝字4 760 1.4 恵美押勝、大師(太政大臣)
6.7 光明皇太后崩御(60) 43
天平宝字6 762 2.2 恵美押勝、正一位。
5.23 淳仁天皇と孝謙天皇、不和 1.9 信部大輔(中務大輔)任官。まもなく因幡より帰京する
9.30 御史大夫石川年足が没し、佐伯今毛人とともに弔問に派遣される。 45
天平宝字7 763 5.6 鑑真和上入寂 4月頃、藤原宿奈麻呂(のちの良継)、佐伯今毛人、石上宅嗣らとともに、恵美押勝暗殺計画に連座するが、宿奈麻呂一人が罪を問われ、家持ほかは現職解任のうえ京外追放に処せられる。 46
天平宝字8 764 1.21 石上宅嗣は太宰少弐、佐伯今毛人は営城監
9.11 恵美押勝、上皇と衝突、反逆し近江に走る 9.18 恵美押勝、琵琶湖上で捕らえられ、斬殺
9.20 道鏡、大臣禅師
10.9 上皇が再祚し(称德天皇)、道鏡を重用 1.21 薩摩守に任じられる(前年の暗殺未遂事件による左遷と思われる)
10月、藤原宿奈麻呂は正四位上太宰帥に、石上宅嗣は正五位上常陸守に昇進し、押勝暗殺計画による除名・左降者の復権が見られるが、家持は叙位から漏れている 47
天平神護元 765 10.22 淳仁廃帝、淡路で崩御 2.5 太宰少弐紀広純が薩摩神に左遷され、これに伴い家持は薩摩守を解任されたと思われる。2年後の神護景雲元年まで任官記事はなく、この間の家持の消息は分からない。 48
天平神護2 766 1.8 藤原永手、右大臣。吉備真備、中納言 3.12 吉備真備、大納言 10.20 吉備真備、右大臣 49
神護景雲元 767 8.29 太宰少弐任官 50 神護景雲3 769 9.25 和気清麻呂を追放、除名 50
神護景雲4 770 8..4 称德天皇崩御(53) 白壁王立太子 8.21 道鏡を造下野薬師寺別当に左遷
10.1 光仁天皇即位、宝亀に改元 6.16 民部少輔任官 9.16 左中弁兼中務大輔任官
10.1 白壁王が即位し、同日家持は正五位下に昇叙される。天平21年以来、実に21年ぶりの叙位だった。以後、聖武朝以来の急進として重んじられる。 53
宝亀2 771 1.23 他部親王立太子 11.25 大嘗祭での奉仕により、従四位下へ二階級特進 54
宝亀3 772 3.2 皇后井上内親王、天皇を呪詛した罪により廃される。
5.27 他部親王、母井上内親王の罪により、皇太子を廃される。 2.16 式部員外大輔を兼任 55
宝亀4 773 1.2 山部親王立太子(後の桓武天皇) 56
宝亀5 774 7.23 大伴駿河麻呂を陸奥按察史使兼鎮守将軍として蝦夷を討伐させる 3.5 相模守任官57
宝亀6 775 10.2 前右大臣吉備真備没(83) 11.27 衛門督任官 58 宝亀7 776 3.5 伊勢守任官 59
宝亀8 777 6.1 遣唐使出発大和守大伴古慈斐没(83) 1.7 従四位上に昇叙 60
宝亀9 778 2.1 石上宅嗣、大納言 1.16 正四位下に昇叙 61
宝亀11 780 2.1 参議任官。議政官の一員に名を連ねる2.9 右大弁を兼任 63
天応元 781 4.3 光仁天皇、風病と老齢を理由に退位、桓武天皇、即位
4.4 皇弟早良親王立太子。 4.14 春宮大夫を兼任4.15 正四位上に昇叙
5.7 左大弁任官。春宮大夫は引き続き兼任。この後、母の喪により官職を解任されるが、8.8 左大弁兼春宮大夫に復任
11.15 従三位に昇叙12.23 光仁上皇の崩御により、山作司に任ぜられる 64
天応2 782 閏1.11 氷上川継の謀反露見 閏1.14 氷上川継捕らえられ伊豆に流される
8.19 延暦に改元 閏1.19 因幡守氷上川継の謀反に連座して解任、京外追放となる
5.17 参議従三位兼春宮大夫に復する 6.17 陸奥按察史鎮守将軍を兼任、陸奥多賀城に赴く。 65
延暦2 783 7.19 中納言兼任。春宮大夫兼任 66 延暦3 784 6.10 中納言藤原種継、左大弁佐伯今毛人、造長岡宮使
11.11長岡宮に遷都 12.2 長岡宮造営の功により中納言藤原種継、正三位 2月、持節征東将軍に任ぜられる 67
延暦4 785 9.23 藤原種継、賊に射られる。翌日、種継没す。暗殺犯として大伴継人、大伴竹良ら数十人が処刑。
9.28 早良親王が皇太子を廃され、乙訓寺に幽閉 4.7 陸奥按察史鎮守将軍として東北防衛について献策
8.28 多賀城にて没す。9.24 死せる家持、種継暗殺に連座したかどで除名、息永主とともに配流となる。 68
延暦13 794 10.28 平安京に遷都
延暦25 806 3.17 桓武天皇崩御