吉備の牛窓
瀬戸内海に南面した、岡山県瀬戸内市牛窓には、牛窓天神山古墳をはじめ、5基の大型前方後円墳が残る。
これらの古墳は、吉備海部直一族のものとする説が有力だ。
大伯国造 神祝命7世孫佐紀足尼
平安時代の書、「先代旧事本紀」の国造本紀には、「大伯国造 応神朝 神祝命7世孫佐紀足尼(さきのすくね)を任じた」とある。
国造本紀によれば、神祝命の後裔5人が西日本の国造に任じられている。
神祝命の国造
最初に任じられたのは、崇神朝吉備中県国造 神祝命10世孫の明石彦 。
大伯国造の任命は、5代後の応神朝に神祝命7世孫である
神祝命系の国造は、
- 「大伯国造:備前国邑久」
「吉備中縣国造:備中国後月」
「阿武国造:長門国阿武」
「久味国造: 伊予国久米」
「天草国造:肥後国天草」
瀬戸内海周辺地区(+天草)のみです。
国前国造 成務 吉備臣同祖吉備都彦命6世孫 牟佐自命 . 豊後国崎
菟佐国造家の伝承に
<古の菟佐国の神都は、筑前・筑後・肥後・肥前・大隅・薩摩の六カ国に在らず。筑豊・日向・肥後・備前・この四か所の所領のうち、最たるものは備前にして、古の菟佐国の神都は備前なり。備前・備中・備後・美作は古の菟佐国第一の神都にして、第二は九州、第三は蒲郡以西をもってこれに當つ>
と言われている
神祝系の国造
大伯 15応神 神祝命7世孫 佐紀足尼 . 備前邑久
阿武 12景行 神祝命10世孫 味波波命 . 長門阿武阿武
吉備中縣 10崇神 神祝命10世孫 明石彦 . 備中後月県主
久味 15応神 神祝尊13世孫 伊與主命 . 伊予久米
天草 13成務 神祝命13世孫 建嶋松命 .肥後天草
出雲風土記に意宇郡久米社を久末(くま)と註す。
姓氏録・河内諸蕃に「佐良々連、百済国の人・久末都彦(一本に久米都彦)より出づる也」と。久米族は熊族(久末)と同じなり。古事記に「天降りの後、天孫は二人の部下(大伴連、久米直の祖先)を連れて、『此地は韓国に向ひ、甚吉き地』」と見ゆ。久米族は神代の時代に韓国の熊ノ国より渡来す。熊条参照。また、久米は久味(くみ)とも称す。伊予国久米郡は古代の久味国にて、国造本紀に「久味国造。応神朝、神魂尊十三世の孫伊予主命を国造と定め給ふ」とある
成務天皇(130-190在位)の代に伊予(余)国が設置され、国造は現在伊予市の神崎あたりに住んでいたと考えられます。応神天皇(270-310在位)の代に久米(味)国造が任命され、久谷地区はその統治区域になった。後に、久米(味)国造の子孫が苗字に「浮穴」をなのります。
浮穴郡の成立
大化の改新(656)の翌年、政治の大綱として全国に行政区画(国・郡・里)が設けられた。そして、それぞれに国司・郡司・里長が任命され、687年に田中法磨が初めて伊予の国司として赴任。
当時、伊予には宇摩、新居、周敷、桑村、越智、野間、風早、和気、温泉、久米、浮穴、伊予、喜多、
宇和の14郡がありました。
浮穴については、続日本後紀承和元年の条に「伊予国人浮穴千継賜姓春江宿禰千継之先大久米命也」
とあるので浮穴氏は久米と同族であることは間違いなく、郡司として統治したようです。
天草の神祝命の後裔:建嶋松命
阿村神社(あむらじんしゃ)
熊本県天草郡松島町阿村1011(旧肥後国 天草郡)に鎮座。
祭神は、天照皇大神(天照大神)、神武天皇、八井耳命(神社により神八井耳命です。阿蘇十二社神には本来は八井耳命が含まれていますので、神八井耳命ではないのか?)および阿蘇十二社(含む八井耳命)の十五柱です。
重要なのは阿村神社の口碑伝説として、
「太古、景行・成務天皇の御代この天草島を統括し給いし皇族建島松命等の御守護神として天照皇太神・神武天皇・八井耳命の三神を同村古墳の所在地近傍に建立し祭られしに其の頃の土民も深く之の神を崇敬したりしが世の変遷とともに隔地なるを一同相議り村の中央(現在位置)に遷座せしといふ又肥後の国土を統括せしめ給いし阿蘇の国造健磐龍命外十二柱の神を同祭神に併合し十五社宮と称現今に祭られると言い伝え来れりこの口碑伝説を察すれば氏神と古墳とは大も密接の関係あると予想するにあり」
とあります。(引用、「伝記 加藤清正」 矢野四年生著 2000年7月発行)
建島松命とは
先代旧事本紀 巻第十 国造本紀に
「志賀の高穴穂の朝の御世に、神祝命の十三世の孫 建嶋松命を国造に定賜ふ」とあります。つまり、景行天皇の御子です第13代 成務天皇の御世(西暦131~190年)2世紀 弥生時代 卑弥呼の頃、天草国造に任命されたカミムスビの命の十三の孫ですと云います。
建嶋松命は、阿蘇の健磐龍命が開拓神で阿蘇神社の祭神として祀られたのに同様に、天草で祀られたという。
天草地域ではないが、同じ熊本県上益城に鎮座する男成神社があります。ここの御由緒概記(前述、平成7年祭データより)によると、「神武天皇76年3月 健磐龍命 此の地に下向の際 皇祖の三神を創祀し給ふに 始り人皇第34代舒明天皇12年 更に阿蘇12座を勧請し 見立大明神と号す。途中略・・・以上の如く当宮は 皇祖の3 神を奉斎し相殿に2座 配祀として阿蘇12座を併せ祀り云々」とあります。
このように例から言えることは、最初に皇祖 の3神が祀られ その後、阿蘇12神が祀られる順序になっています。
ここで、舒明天皇は、第34代目で7世紀(629~6 41年)飛鳥時代の遣唐使初めの頃に在位していました。
記紀に登場する吉備海部直一族
・古事記の仁徳段
吉備海部直の女、黒日売(くろひめ)が、容姿端正と聞いて、天皇は宮中に召し寄せた。
しかし、皇后が嫉妬するので、故郷に逃げ帰った。仁徳天皇は、吉備国に行幸し、その国の山方(やまが
た)という所で、黒日売より、大御饌の奉献を受けた。・日本書紀の雄略紀
任那国司に任じられた吉備上道臣田狭(たさ)は、妻を天皇に奪われたので、新羅に付いた。
天皇は、田狭の子の弟君と、吉備海部直赤尾に詔して「新羅を罰せよ」と命じた。・日本書紀の敏達紀
百済国の高官となっている、葦北国造の子の日羅を、任那復興のため、日本に呼ぼうとした。
そのため、紀国造と吉備海部直羽鳥を、百済に派した。葦北国造は、大吉備津彦の後裔とされる。仁徳天皇が饗応を受けた、山方の名を持つ山方村は、吉井川上流の岡山県赤磐郡にあった村。
また、饗応を受けた場所を、赤磐市是里にある宗形神社とする伝承もある。
いずれの地も、美作との国境に極めて近い場所。そこまで、吉備海部直の支配が及んでいたということ
になる。
大伯国造の統治範囲
「牛窓町史」(2001年牛窓町)によると、
「邑久郡は、和銅6年(713年)の地名改正以前は、大伯(おおく)郡と表記されていた。
当初の郡域は、東は播磨国境から、西は吉井川まで。北は美作国境という広大なものが、かっての大伯国
造の統治範囲だった」
大伯国造の神祝命の後裔とは
神祝命=神魂命=神皇産霊尊
神祝命を、神魂命と書き換える、あるいは神祝命(神魂命)と補足している。
大伯国造の7世孫を別にすれば、他の4国造は、ほぼ天皇の御代の数に近い。そこで、神祝命は神武朝頃の人物になる。
神武朝頃に、神祀りに関わった人物に葛城国造(後の葛城直)三島剣根のいとこで、天日方奇日方命(あまひかたくしひかたのみこと)がいる。
ニギハヤヒ命と三島玉櫛媛の間には、一男二女が生まれる
- 天日方奇日方命(大物主家祖)
五十鈴媛(神武后)
五十鈴依媛(綏靖后)
神武のころ、神祝を担当した人物は、天日方奇日方命
「旧事本紀(くじほんぎ)」
事代主神(ことしろぬしのかみ)の子。母は活玉依媛(いくたまよりひめ)。妹の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)が神武天皇の皇后になった。
そのため、天日方奇日方命は可美真手命(うましまでのみこと)とともに申食国政大夫(けくにのまつりごともうすうなきみ)となったという。大神(おおみわ)氏の祖。別名に阿田都久志尼命。
櫛甕玉(櫛御方命) = 天日方奇日方命
三輪叢書所載の『系譜三輪高宮家系』に、天事代籤入彦命(事代主神)と大陶祇命の女、活玉依比売命の子、 天日方奇日方命(一名、武日方命、櫛御方命、阿田都久志尼命、鴨主命)とあり、 神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命の兄で、 『姓氏録』大和国神別に大神朝臣・賀茂朝臣の祖、石辺公の祖ともされている。
吉備海部直の祖の名前は
吉備古代史の核心ともいえる、備中一宮吉備津神社。
その本殿の外陣西南隅に、吉備海部直の祖が祀ら
れている。櫛振(吉備海部直祖)
小奇(同、女)
真振(同、男)小奇と真振は、櫛振の子供とされる。
ニギハヤヒ命は、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎ
はやひのみこと)が、正式な御名。そして、御子の天日方奇日方命は、先代旧事本紀によれば、またの名、阿田都久志尼命(あたつくしねのみこと)。
ホツマツタエに見る天日方奇日方命
アタツクシネ(天櫛根命)を、天日方奇日方命と宮崎の日向カンドミラ媛の間に生まれた御子とする。カンドとは、大和入りした神武に代り、宮崎の統治を託された代王。
その血が、大物主家に入っている。天日方奇日方命の女(ホツマでは孫)ヌナソ媛は、3代安寧天皇の皇后となり、懿徳天皇を生む。大三輪社を祀るアタツクシネ
ホツマツタエには、アタツクシネについて、「大三輪社を造り、神名備を祀る。大三輪の姓を賜り、綏靖の大物主となる」とある。
一族は、大物主として代々務めるが、開化天皇の時、オオミケヌシ命が、イカガシコメの立后に反対し、宮中から追放されてしまう。
しかし、崇神朝に、オオタタネコが大三輪社の祀りに復帰する。崇神朝に、丹後宮津吉佐宮で、アマテル・トヨケ神を祀った際の構成メンバーは、
斎主 中臣氏か
御供守 丹波道主王命
神主 天村雲後裔渡会氏祖(アマ・尾張氏)
禰宜 フリタマ命仮説、フリタマ命の役は、玉串大内人(たまくしおおうちんど)。フリタマ命が、櫛振ではないだろうか。
そして、真振の後裔が、大伯国造に任じられたか?
『先代旧事本紀』(国造本紀)などの伝承
伊豫豆比古命はカミムスビ(神皇産霊尊・神産巣日神・神魂命・神祝命)の子孫で、さらにその子孫が伊与主命(伊與主命・伊与主足尼)、もしくは伊豫豆比古命=伊与主命とされているようです。
この伊与主命は、伊豫豆比古命とともに、伊豫豆比古命神社(椿神社)の主祭神とされています。
また、伊与主命の先祖は、カミムスビの子孫の大久米命ともされていて、大久米命以降の系図は伝わっています(真偽はさておいて)。
ちなみに、大久米命は神武天皇の東征に従った神の1人です。
また、伊与主命が第15代 応神天皇の時代に初代の久味国造・久米氏となり、第23代 顕宗天皇の時代に久米小楯が山部の姓を賜り山部氏となったそうです。
奈良時代の三十六歌仙の一人・山部赤人がこの久味国造・久米氏→山部氏の出身だそうです。また、山部小楯の孫の那爾毛古比売が中臣氏に嫁ぎ、その孫が中臣鎌足(藤原鎌足)で、藤原氏の祖となります。
久米氏と山部氏の系図
神皇産霊尊−○−○−○−大久米命−布理禰命−佐久刀禰命−味耳命−五十真手命−彦久米宇志命−押志岐毘古命−七掬脛命−爾久良支命−[久味国造]伊与主命−加志古乃造−忍毘登乃造−久米小楯(山部小楯)−山部歌子−山部伊加利子−山部比治−山部足島−山部赤人
明石氏
和名抄摂津国明石郡明石郷を載せ、安加志と訓ず。この地は畿内と山陽との咽喉に当たり古来要害の地として名高し。
明石氏はこの地より起こりしにして、神武天皇御東征の際偉功を樹てし椎根津彦(又珍彦)の後なりとす。すなわち国初衣良の大姓にして特筆大書するに足れど、年月の経過と共に幾??し、あるいは藤氏、あるいは源氏というものあり、今左に一々列挙せむ。
明石国造
明石国造、明石国は後の明石郡付近の地なり。この国造は国造本紀に、
「明石国造、軽島豊明朝(応神)御世、大倭直同祖八代足尼の児都弥自足尼を国造に定賜う」
と見え、
また姓氏録、摂津皇別、物忌直条
「椎根津彦命九世の孫矢代宿禰の後なり」
と見ゆるにより、神武朝の功臣椎根津彦の後にして、大倭国造の一族なる事明白とす。この国造この地の海部を統ぶ、よりて明石海部直の称あり。この地に鎮座する海神社は国造家奉仕の氏神に他ならざるべし。
明石彦
明石彦、古典に見ゆる系統にては別姓なれどあるいは縁故深からんか。
明石彦の事は国造本紀吉備中県国造条に「神魂命十世の孫明石彦」とあり、崇神朝の人なりとす、この人明石彦というより見れば、もと明石の領主たりしにてあるいは大和氏すなわち明石国造以前この地を領せしやもはかり難し。
されど明石国造の祖椎根津彦が神武天皇を迎え奉りし速吸門は書紀に拠れば今の佐賀関海峡なれど、古事記によりば明石海峡たるがごとし。
しからば明石は早くより明石国造家の縁故地たるなり。
よりて推測を逞しくすれば明石氏がこの縁故を申し立て、明石彦を逐いこの地を得したものか。よくよく考えるべし。
大和明石連
大和明石連、明石国造の後裔にして大和を冠するは大和氏族なるによる。
神護景雲三年海直のこの氏を賜いし事はアカシノアマベ条を見よ。
国造裔の明石氏
国造裔の明石氏、明石国造の後裔は扶桑略記裡書に
「延喜六年五月廿三日乙亥播磨明石大領赤石貞根、外従五位下に叙す。是れ私穀五千石を進めて諸司の大?に充つるに依りてなり」
と見ゆ、その勢力ありしを知るべし。
更に降りて峰相記に康保年中当国在?兄部明石大夫大和明緒なる人見ゆ、大和を冠するによりて明石国造の裔が依然として大和姓と称せしやはなはだ明白なりとす。