多氏、小子部連、太安万侶、壬申の乱、

小子部連は小子部(子部の一つで宮中の雑務を務めた品部)の伴造家であり、多氏(多臣)の一族を称した。天武朝において嫡流は宿禰姓に改姓した。

小子部連の謎の自殺

壬申の年(672年)の6月24日に行動をおこした大海人皇子は、挙兵して吉野宮から伊勢国に入り、27日に美濃国に移った。その日、不破郡の郡家にさしかかったころに、尾張国司守小子部連鉏鉤が2万の衆を率いて加わった。大海人皇子は鉏鉤を誉め、その軍を分けて処々の道を塞いだ。

わずかな時日で2万の兵力を動かしたことについて、後代の歴史学者は、5月に朝庭(朝廷)が山陵造営のためと称して美濃と尾張の人夫を動員し、武器を渡したこととの関係を指摘する。大海人皇子を討つために国司に用意させた兵力が、国司の判断で当の反乱に参加したとするのである。

乱は大海人皇子の勝利におわり、8月25日に重罪とされた近江朝廷の重臣が処分された。しかしこれより前に、鉏鉤は山に隠れて自殺した。大海人皇子は「鉏鉤は功ある者である。罪なくしてなぜ自殺したのか。これは陰謀があったのか」と言った。鉏鉤は近江朝と通じていたのかもしれないが、真相は不明である。

朴井 雄君(えのい の おきみ、生年不詳 – 天武天皇5年(676年)6月)は、日本の飛鳥時代の人物である。榎井小君とも書く。朴井氏は物部氏の同族であり物部雄君ともいう。姓は連。物部尾輿の孫にあたる朴井真古、または物部守屋の子で、子に忍勝・金弓・有利媛がいたとする系図がある。冠位は贈大紫。

美濃に住まう物部氏の一族といわれる。672年の壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)に従って活躍した。
吉野への脱出しその後も皇子の身辺警護のために残った舎人の中には、美濃や三河、伊勢、信濃、甲斐など東国の国司や郡司の子弟が多かった。近江朝廷側が動く前に、大海人皇子はこれらの舎人を本国に走らせ、早い段階から挙兵の準備を進めたはずである。『書紀』は舎人の朴井連雄君が私用で美濃へ行ったと記すが、実際は、水面下で皇子の私領である湯沐(ゆのう)あたりを拠点とした周到な戦争準備を行っていたと見なすべきとの見方がある。
天武の勝利は、東国の物部氏を糾合した大和勢力の物部系大氏の朴井連雄君(物部連雄君)の働きによる。彼は守屋の子とある。この天武によるこの大和朝廷の開朝は、物部氏が関与しているか。

物部の盾、阿刀氏と榎井氏
貞観六年八月に良階宿祢の姓を賜った阿刀物部貞範は、三代実録貞観四年七月に摂津国西成郡の人とみえる。 →跡部
壬申の乱で大海人皇子の配下として活躍した安斗連智徳(天武元年六月ほか)、安斗連阿加布(天武元年六月)や、阿刀宿祢真足(宝亀二年十一月ほか)、井上皇后廃后事件に連座して無姓に落とされた上流罪になった安都堅石女(宝亀三年三月)らがいる。
榎井氏が大嘗祭や元日儀に石上氏と並んで楯矛を立てることに関与が許されるようになった。

榎井 (えのい)連姓、天武十三年以降は朝臣姓も出る。朴井ともいう。物部榎井連も同氏。

榎井は、推古紀二十四年に朴井とある地名で、和泉志に日根郡榎井池在西内村とみえる。また、大和国高市郡朴井邑に由来するとする説もある。大海人皇子の舎人だった朴井連雄君は壬申の乱での功績が大きく、死後には内大紫位と物部氏の氏上の地位が贈られた。このことは、榎井氏が大嘗祭や元日儀に石上氏と並んで楯矛を立てることに関与が許されるようになったことへも影響したであろう。ほか氏人には、朴井連子麻呂(天武九年七月)、榎井朝臣大嶋(神亀元年十一月)、榎井朝臣祖足(神護景雲元年正月など)、榎井朝臣小祖(天平宝字元年五月など)、榎井朝臣種人(宝亀二年十一月)、榎井朝臣広国(和銅六年正月など)、榎井朝臣倭麻呂(文武二年十一月など)らが知られる。宇摩志麻治命の十六世孫・物部荒猪連公、物部弓梓連公、物部加佐夫連公、物部多都彦連公の後裔が榎井臣であるが、連姓の誤記か。(「旧」天孫本紀)

持統天皇即位
持統四(690)年正月戊寅朔(1日) 物部麻呂朝臣 大盾
文武天皇即位大嘗祭
文武二(698)年 十一月己夘(23日) 直広肆榎井朝臣倭麻呂 大楯 直広肆大伴宿祢手拍 楯桙

跡部 阿刀部(あとべ)

首姓、無姓がある。阿刀部ともいい、阿刀物部と同じか。三代実録貞観六年八月に良階宿祢の姓を賜った陰陽允・阿刀物部貞範がみえ、「神饒速日命之裔孫也」という。「録」未定雑姓の摂津に阿刀部がみえ、和名抄にみえる地名として美濃国武芸郡に跡部郷、伊勢国安濃郡に跡部郷、信濃国小県郡に跡部郷、豊後国大分郡に跡部郷があるのは、この部が置かれたことによるだろう。
「旧」天神本紀に、饒速日命が天降るとき供奉した船長天津羽原は、跡部首らの祖という。

太安萬侶

太安萬侶が多氏の族長となるのは、『古事記』を撰述して4年後の霊亀2年(716)9月である。しかし、それから7年後の養老7年(723)7月には民部卿・従四位下で死去している。彼が存命中に多神社の宮司を務めたという話は聞かない。その頃はすでに神八井耳命かむやいみみのみことを祭神として祭る神社は鎮座していたであろうから、彼の子供達の誰かが宮司となり、その系図が多神社の神官を世襲してきたのであろう。多氏の嫡流は「忠」を名乗っている。多神社にはその系図が存在するという。

元明天皇が太安萬侶に『古事記』の撰述を命じられたのは、彼の漢文の文章力が優れている点に着目されたため、といわれている。安萬侶の祖父に多臣将敷(おおののおみまさしき)がいる。661年9月、人質として我が国に逗留していた百済の王子・豊璋を百済に帰国させるとき、中大兄皇子は九州の長津宮で豊璋に倭国最高位の「織冠」を授け,5000人の兵をつけて朝鮮半島の百済遺臣の鬼室福信らのもとへ送り返した。そのとき将敷の妹を娶わせて豊璋の妻としている。すなわち、安萬侶にとって叔母にあたる女性が、百済王の妻として朝鮮半島に渡っているのである。

壬申の乱の論功行賞

 朴井(物部)連雄君 内大紫贈位 功封100戸 中功
身毛君広    功封80戸 中功
村国連男依   外小紫贈位 功封120戸 716年に息子、志我麻呂に功田10町
尾張連大隅   従五位上贈位 716年に息子、稲置に功田40町
和珥部臣君手  直大壱贈位 716年に息子、大石に功田8町
以上が物部、尾張氏縁の氏族。もとは饒速日尊を遠祖としている。
紀臣阿閉麻呂 大紫贈位 伊賀の国司に


大伴連吹負への褒賞が軽いこと
小子部鉗鉤が自害したこと

死罪は8人 右大臣中臣連金など
流罪    左大臣蘇我臣赤兄、蘇我臣果安(自決)の子。
大納言巨勢臣比等、右大臣中臣連金の子。
物部連麻呂は大友皇子の最期を見届ける→石上朝臣に改姓。左大臣まで登りつめる。

大生神社

常陸の国に移住した一部の多氏が祀った大生神社おおう

建御雷之男神たけみかづちのおのかみを祭神として祭っている。創建は大同元年(806)に藤原氏が東夷東征の際に勧請されたのが始まりと伝えられている。だが、別の伝承では、大和国の飯富おぶ氏が常陸の国に移住した際に、氏神として奉斎したのが始まりとも言われているそうだ。

猿田彦と建借間

鹿島神宮と猿田彦の関係であるが、単にクナトノ大神が猿田彦にすりかえられていったはといえない可能性もある。吉田大洋『龍神よ、我に来たれ!』では、サルタ彦を九州の神としており、その信仰の盛んなのは長崎県の南部から熊本県にかけてで、島原では町角という町角にサルタ彦大明神を祭っているというが、建借間軍がうたったという杵島曲は肥前の杵島の曲とされているが、杵島は島原のすぐ近くであり、建借間命がサルタ彦の信仰を持ち込み、鹿島神宮でクナトノ大神と習合していったということは考えられるのである。多氏である印波国造が創建したという下総の麻賀多神社の境内摂社に猿田彦社がある。ただ、常陸の多氏と関係する大井神社や大生神社について、『日本の神々11』では猿田彦については触れられていない。

尾張 大隅(おわり の おおすみ、生没年不詳)は、日本の飛鳥時代の人物である。氏は尾治とも書く。姓は連、後に宿禰。尾張多々見の子とする系図がある。位階は贈従五位上。 672年の壬申の乱のとき、大海人皇子(天武天皇)に私宅を提供した。

大隅の功績は、『続日本紀』天平宝字元年(757年)12月9日条にある。それによれば、大海人皇子(天武天皇)が吉野宮を脱して関東(この場合鈴鹿関の東)に行ったとき、尾治大隅は私邸を掃除して行宮に提供し、軍資を出して助けたという。書紀にある大海人皇子の行動記録と照らし合わせてこの行宮の場所は美濃国の野上とするのが有力だが、これを伊勢国で鸕野讚良皇女(持統天皇)が住んだところとする説もある。

天武天皇13年(684年)12月2日に、尾張連など連姓の50氏が宿禰の姓を与えられた。持統天皇10年(696年)5月8日に、天皇は尾張宿禰大隅に直広肆の位と水田40町を与えた。
印波国造は多氏
 印波国造は多氏であるが、古事記に神八井耳命の子孫として意富臣(おおのおみ)の他に、仲国造と道奥の石城国造もあげられているが、「国造本紀」では、馬來田国造と石城国造が同族とされているからであろう。しかし、継体は出雲神族の伝承では出雲神族出身の天皇だったことを考えると、その皇女が祀られているということは、麻賀多神社は鹿島神宮や息栖神社と同じように出雲神族と何らかの関わりをもだざるをえなかった神社だったということであり、そのことが猿田彦が祭られていることとも関係しているかもしれないという。

参考: http://www012.upp.so-net.ne.jp/houi/kasimakatori.htm

天武天皇の天智系の継承
大田皇女と鸕野皇女が産んだ大海人皇子の二人の皇子たちも、天智大王の娘たちを妃にしています。天武天皇の皇子たちは、次男の草壁(くさかべ)皇子と三男の大津(おおつ)皇子です。
二人の皇子の年齢については、『紀』に大津皇子の死亡を「時に年二十四」(生年を逆算すると663年)、また草壁皇子の生年は、「天命開別(あめみことひらかすわけ。天智)天皇元年」(662年)と明記してあります。ちなみに、草壁皇子の妃になった阿陪(あへ)皇女(阿閉とも記される)は、のちの元明(げんめい)天皇(在位:707年~715年)です。

天武天皇が皇子たちに天智大王の遺子二人を指名して妃にさせている。
天武天皇が乱で自殺に追い込んだ大友皇子(天智大王の子。明治政府によって弘文(こうぶん)天皇と諡(おくりな)されて、在位期間が672年中の7カ月間とされた)経由ではなく、天智大王から王位を直接継承したことを示すか。

凡海麁鎌(おおあまのあらかま、生没年不詳)
日本の飛鳥時代の人物である。大海蒭蒲とも書く。「凡海・大海」は旧仮名遣いでは、「おほあま」、「おほしあま」、あるいは「おほさま」と訓む。姓(かばね)ははじめ連、後に宿禰。大海人皇子(後の天武天皇)の養育に関わったと推定され、大宝元年(701年)に陸奥国の冶金に遣わされた。位階は大宝元年当時で追大肆。
凡海氏は阿曇氏の同族とされ(『新撰姓氏録』右京神別下、摂津国神別)、摂津国を本拠にした氏族である。大海人(おおあま)皇子の名は、凡海(おおあま)氏の女性が皇子の乳母であったことから付けられたもので、凡海氏が大海人皇子の養育にあたったものと推定されている
凡海氏は阿曇氏の同族とされ(『新撰姓氏録』右京神別下、摂津国神別)
摂津国を本拠にした氏族である。大海人(おおあま)皇子の名は、凡海(おおあま)氏の女性が皇子の乳母であったことから付けられたもので、凡海氏が大海人皇子の養育にあたったものと推定されている。
朱鳥元年9月9日に天武天皇が崩御し、同月11日から殯(もがり)が行われたが、9月27日にはその儀礼の1つとして、幾人もの官人が次々に誄を述べ、その最初の人が大海宿禰蒭蒲で、「壬生のこと」を誄している。壬生(みぶ)は養育のことで、具体的には天皇の幼時の有様を語ったものとされるが、この場合直接養育にあたった者としてではなく、大海人皇子と一緒に育った乳兄弟か、あるいは一族の代表として述べたものと思われる。

大宝元年3月15日には、陸奥国に金を冶すために遣されたが、続報はなく、ずっと後の天平21年(749年)に初めて陸奥国が金を献じたことが大事件とされたので、この麁鎌の冶金は成功しなかったのであろう。
麁鎌の生年は不明だが、天武天皇と同年代と仮定すると、大宝元年には70才ぐらいであったことになり、その年齢で陸奥に派遣されたとは思えず、従って天武天皇より少なくとも1世代は降る人物であると思われている。本人が直接大海人皇子の養育にあたったと考えにくい理由である