四、五世紀の倭国

順帝昇明二年(478年)
遣使が上表して曰く「封国は残念ながら遠く、藩を外に作り、昔より祖先は自ら甲冑を着け、山川を跋渉(バッショウ)し、安らかに暮らす暇なし。
 東に毛人を征すること五十五国、西に衆夷(シュウイ)を服すること六十六国、(海を)渡り海北を平定すること九十五国。
 王道は安泰に調和し、国土を拡げ、京畿を遠く離れる。
 累代に亘って朝廷を尊び、歳を誤らず。
 臣は下愚といえども、忝(カタジケナ)くも後裔を先に残し、統べる所を率いて駆け、崇め帰すこと天を極め、道を百済に直行し、船舶を装備する。
 然るに高句麗は非道にも併呑を欲して謀り、辺境を略奪し隷属させ、(南朝宋の)劉氏を尊重して已まず、(そのために)いつも延滞させられ、(航行の)良風を失する。
 道を進むといえども、あるいは通じ、あるいは不通。

  四世紀末~5世紀初期の造山古墳(墳長360mの全国第4位の大きさ)の被葬者の時代(当時の吉備王)から5世紀前半にかけての時代に吉備は半島からの渡来人がもたらした新しい鉄と塩の製造技術によって大きく発展しました。
 
ところが、吉備は5世紀中旬の雄略天皇7年(463)にヤマト王権と争い、敗れます(吉備の乱)。
この頃から吉備の古墳は小さくなり、一地方豪族の墓の大きさになります。
  
  その後吉備に欽明天応16(555)年白猪屯倉(シライノミヤケ=主に鉄)、同17(556)年児島屯倉(コジマノミヤケ=製塩)がおかれました。
その後吉備では製鉄、製塩事業がさらに発展したことが知られています。

倭國在高驪東南大海中、世修貢職。

 高祖永初二年、詔曰:「倭讚萬里修貢、遠誠宜甄、可賜除授。」

 太祖元嘉二年、讚又遣司馬曹達奉表獻方物。

讚死、弟珍立、遣使貢獻。

 自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭國王。表求除正、詔除安東將軍、倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號、詔並聽。

二十年、倭國王濟遣使奉獻、復以為安東將軍、倭國王。二十八年、加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東將軍如故。并除所上二十三人軍郡。

濟死、世子興遣使貢獻。

 世祖大明六年、詔曰:「倭王世子興、奕世載忠、作藩外海、稟化寧境、恭修貢職。新嗣邊業、宜授爵號、可安東將軍、倭國王。」

興死、弟武立、自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍、倭國王。

順帝昇明二年、遣使上表曰:「封國偏遠、作藩于外、自昔祖禰、躬擐甲冑、跋渉山川、不遑寧處。東征毛人五十國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國、王道融泰、廓土遐畿、累葉朝宗、不愆于歳。臣雖下愚、忝胤先緒、驅率所統、歸崇天極、道逕百濟、裝治船舫、而句驪無道、圖欲見呑、掠抄邊隸、虔劉不已、毎致稽滯、以失良風。雖曰進路、或通或不。

臣亡考濟實忿寇讎、壅塞天路、控弦百萬、義聲感激、方欲大舉、奄喪父兄、使垂成之功、不獲一簣。居在諒闇、不動兵甲、是以偃息未捷。至今欲練甲治兵、申父兄之志、義士虎賁、文武效功、白刃交前、亦所不顧。若以帝德覆載、摧此強敵、克靖方難、無替前功。竊自假開府儀同三司、其餘咸各假授、以勸忠節。」

 詔除武使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王。

任那の構成国である喙の滅亡については日本書紀の雄略紀にそれらしい記事がある。

《雄略天皇九年(乙巳四六五)三月》三月。天皇欲親伐新羅。神戒天皇曰。無往也。天皇由是不果行。乃勅紀小弓宿禰。蘇我韓子宿禰。大伴談連。〈 談。此云箇陀利。 〉小鹿火宿禰等曰。新羅自居西土。累葉称臣。朝聘無違。貢職允済。逮乎朕之王天下。投身対馬之外。竄跡匝羅之表。阻高麗之貢。呑百済之城。況復朝聘既闕。貢職莫脩。狼子野心。飽飛飢附。以汝四卿。拝為大将。宜以王師薄伐、天罰襲行。於是。紀小弓宿禰使大伴室屋大連。憂陳於天皇曰。臣雖拙弱、敬奉勅矣。但今臣婦命過之際。莫能視養臣者。公冀将此事具陳天皇。於是。大伴室屋大連具為陳之。天皇聞悲頽歎。以吉備上道采女大海。賜於紀小弓宿禰。為随身視養。遂推轂以遣焉。紀小弓宿禰等即入新羅。行屠傍郡。〈 行屠。並行並撃。 〉新羅王夜聞官軍四面鼓声。知尽得喙地。与数百騎馬軍乱走。是以大敗。小弓宿禰追斬敵将陣中。喙地悉定。遣衆不下。紀小弓宿禰亦収兵。与大伴談連等会。兵復大振。与遣衆戦。是夕大伴談連及紀岡前来目連、皆力闘而死。談連従人同姓津麻呂。後入軍中、尋覓其主。従軍不見出問曰。吾主大伴公、何処在也。人告之曰。汝主等果為敵手所殺。指示屍処。津麻呂聞之踏叱曰。主既已陥。何用独全。因復赴敵。同時殞命。有頃遣衆自退。官軍亦随而却。大将軍紀小弓宿禰値病而薨。

紀小弓宿禰は大将軍であるので、蘇我韓子宿禰は前将軍、大伴談連は中将軍、小鹿火宿禰は後将軍とみなすことができ、白村江の戦いを想起させる。

左京 皇別   吉田連 大春日朝臣同祖 観松彦香殖稲天皇[謚孝昭。]皇子天帯彦国押人命四世孫彦国葺命之後也
昔磯城瑞籬宮御宇御間城入彦天皇御代。任那国奏曰。臣国東北有三己汶地。[上己汶。中己汶。下己汶。]地方三百里。土地人民亦富饒。与新羅国相争。彼此不能摂治。兵戈相尋。民不聊生。臣請将軍令治此地。即為貴国之部也。天皇大悦。勅群卿。令奏応遣之人。卿等奏曰。彦国葺命孫塩垂津彦命。頭上有贅三岐如松樹。[因号松樹君。]其長五尺。力過衆人。性亦勇悍也。天皇令塩垂津彦命遣。奉勅而鎮守。彼俗称宰為吉。故謂其苗裔之姓。為吉氏。男従五位下知須等。家居奈良京田村里間。仍天璽国押開豊桜彦天皇[謚聖武。]神亀元年。賜吉田連姓。[吉本姓。田取居地名也。]今上弘仁二年。改賜宿祢姓也

祟神天皇の時代に任那国が新羅と毎年領有を争っている己汶を倭に割譲したことがわかる。そもそも任那は崇神天皇の時代に来倭した大加羅国王子の都怒我阿羅斯等、別名蘇那曷叱知が帰国した際に国名を任那に改名させたのがはじまりである。都怒我阿羅斯等は己汶を倭に朝貢したのではないか。

また、喙己呑と喙国は己呑とセットで語られることが多いが、己呑とは己汶のことであると考えると喙=伴跛も成り立つのである。

伴跛国は249年の7ヵ国にも562年の10ヵ国にも記載がない。しかし、三国遺事の星山伽耶の一部とされている。三国史記の地理には星山郡の四縣の一つとして本彼縣が存在し、伴跛国のこととされている。

星山郡, 本一利郡[一云里山郡.], 景德王改名, 今加利縣. 領縣四: 壽同縣, 本斯同火縣, 景德王改名, 今未詳; 谿子縣, 本大木縣, 景德王改名, 今若木縣; 新安縣, 本本彼縣, 景德王改名, 今京山府; 都山縣{都川縣}, 本狄山縣, 景德王改名, 今未詳.

伴跛国が星山伽耶の本彼であれば、479年に加羅国王荷知が中国の「南斉」に朝貢して「輔国将軍本国王」に冊封されたというのは本彼のことであると考えることができる。なぜなら、本国とは「本」という国号と考えることが出来るからである。同時に倭王の武は479年に使持節都督倭新羅任那加羅秦韓六国諸軍事安東大将軍から鎮東大將になっている。六国と記載しながら五国しか記載がなく慕韓が抜けているようだ。それはさておき、重要なのは南斉が任那と加羅を別の国として認識し、加羅を「本」という国として認めていることだ。

他に倭より独立した一国として連想させるのは顕宗紀の以下の記事である。

紀生磐宿禰が高句麗をバックとして新羅、百済、加羅の三韓の王として神聖を名乗ったのである。神聖と神のごとく名乗っている以上当然国名もあるであろう。加羅を本拠地として「本」という国を建てたのだろうか。

《顕宗天皇三年(丁卯四八七)是歳》是歳。紀生磐宿禰跨拠任那。交通高麗。将西王三韓、整脩宮府。自称神聖。用任那左魯・那奇。他甲肖等計、殺百済適莫爾解於爾林。〈 爾林、高麗地也。 〉築帯山城、距守東道。断運糧津、令軍飢困。百済王大怒、遣領軍古爾解。内頭莫古解等。率衆趣于帯山攻。於是。生磐宿禰進軍逆撃。胆気益壮。所向皆破。以一当百。俄而兵尽力竭。知事不済。自任那帰。由是。百済国殺佐魯・那奇。他甲肖等三百余人。

また、479年に加羅国王荷知が中国の「南斉」に朝貢して「輔国将軍本国王」に冊封されている。紀生磐宿禰が神聖を名乗り三韓の王となった487年より8年前に加羅が「本」という国号で冊封されているが一見関係ないように見える。

しかし、487年の紀生磐宿禰独立は479年のことと考えることができるのである。顕宗天皇三年丁卯年の60年後は547年で欽明八年なのである。

日本書紀によると欽明元年は540年であるが、元興寺伽藍縁起并流記資財帳によると欽明七年が戊午年538年なので、欽明元年は532年となり、日本書紀より8年前にずれているのである。

元興寺伽藍縁起并流記資財帳の場合、欽明八年は539年となるのである。539年の60年前は479年である。つまり、487年の記事は欽明紀により8年前にずれて479年になるのである。

(479年)《顕宗天皇三年(丁卯四八七)是歳》是歳。紀生磐宿禰跨拠任那。交通高麗。将西王三韓、整脩宮府。自称神聖。用任那左魯・那奇。他甲肖等計、殺百済適莫爾解於爾林。〈 爾林、高麗地也。 〉築帯山城、距守東道。断運糧津、令軍飢困。百済王大怒、遣領軍古爾解。内頭莫古解等。率衆趣于帯山攻。於是。生磐宿禰進軍逆撃。胆気益壮。所向皆破。以一当百。俄而兵尽力竭。知事不済。自任那帰。由是。百済国殺佐魯・那奇。他甲肖等三百余人。

紀生磐宿禰独立は479年のこととみなすことができるとして、次に加羅の国号である「本」についてである。むかしから中国は漢民族の国を漢字一文字で記載し、周辺の蛮族の国を漢字二文字以上で記載している。

加羅が「本」という一文字の国号とした。
本国=加羅とするのが一般的。
やはり、本国とは国号であると考える

舊唐書  卷一九九上 東夷伝 倭國 日本
日本國者倭國之別種也 以其國在日 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地

旧唐書は日本が旧小国であったという説を述べている。
紀生磐宿禰が独立して神聖を名乗り国号を「日本」とした?
二年後には滅ぼされ任那の県として日本という名を留めたのだ。

《継体天皇三年(癸丑五〇九)二月》三年春二月。遣使于百済。〈 百済本記云。久羅麻致支弥従日本来。未詳。 〉括出在任那日本県邑百済百姓、浮逃絶貫三四世者、並遷百済附貫也。

南斉書の輔国将軍本国王
紀生磐宿禰の独立
日本は479年に朝鮮半島で建国

《継体天皇七年(癸巳五一三)十一月乙卯【五】》冬十一月辛亥朔乙卯。於朝庭、引列百済姐弥文貴将軍。斯羅汶得至。安羅辛已奚及賁巴委佐。伴跛既殿奚及竹汶至等。奉宣恩勅。以己汶帯沙賜百済国。
《継体天皇七年(癸巳五一三)十一月是月》是月。伴跛国遣〓攴。献珍宝乞己汶之地。而終不賜国。
《継体天皇八年(甲午五一四)三月》三月。伴跛築城於子呑・帯沙。而連満奚。置烽候・邸閣。以備日本。得築城於爾列比。麻須比。而〓麻且奚・推封。聚士卒・兵器以逼新羅。駆略子女、剥掠村邑。凶勢所加。〓有遺類。夫暴虐、奢侈。悩害、侵凌。誅殺尤多。不可詳載。
《継体天皇九年(乙未五一五)二月丁丑【四】》九年春二月甲戌朔丁丑。百済使者文貴将軍等請罷。仍勅、副物部連〈 闕名。 〉遣罷帰之。〈 百済本記云。物部至至連。 〉
《継体天皇九年(乙未五一五)二月是月》是月。到于沙都嶋。伝聞。伴跛人懐恨御毒。恃強縦虐。故物部連率舟師五百。直詣帯沙江。文貴将軍自新羅去。
《継体天皇九年(乙未五一五)四月》夏四月。物部連於帯沙江停住六日。伴跛興師往伐。逼脱衣裳、劫掠所賚。尽焼帷幕。物部連等怖畏逃遁。僅存身命、泊〓慕羅。〈 〓慕羅。嶋名也。 〉
《継体天皇十年(丙申五一六)五月》十年夏五月。百済遣前部木〓不麻甲背。迎労物部連等於己〓。而引導入国。群臣各出衣裳・斧鉄・帛布。助加国物、積置朝廷。慰問慇懃。賞禄優節。

任那の構成国、卓淳の滅亡については聖明王が上下に離れ離れになっており、新羅に内応して滅びたという。
任那旱岐等らは聖明王に卓淳らのように滅亡したくないということを言っており、遠回しに卓淳らの滅亡の原因は百済にあると考えているようなのである。

聖明王が滅亡の原因は新羅への内応であると押し切っているが、新羅内応の原因は百済にあるのではないか。

《欽明天皇二年(五四一)四月》夏四月。安羅次旱岐夷呑奚。大不孫。久取柔利。加羅上首位古殿奚。卒麻旱岐。散半奚旱岐児。多羅下旱岐夷他。斯二岐旱岐児。子他旱岐等。与任那日本府吉備臣。〈 闕名字。 〉往赴百済、倶聴詔書。百済聖明王謂任那旱岐等言。日本天皇所詔者。全以復建任那。今用何策、起建任那。盍各尽忠奉展聖懐。任那旱岐等対曰。前再三廻、与新羅議而無答報所図之旨。更告新羅、尚無所報。今宜倶遣使、徃奏天皇。夫建任那者。爰在大王之意。祗承教旨。誰敢間言。然任那境接新羅。恐致卓淳等禍。〈 等謂〓己呑・加羅。言卓淳等国、有敗亡之禍。]聖明王曰。昔我先祖速古王。貴首王之世。安羅。加羅。卓淳旱岐等。初遣使、相通。厚結親好。以為子弟。冀可恒隆。而今被誑新羅、使天皇忿怒、而任那憤恨。寡人之過也。我深懲悔。而遣下部中佐平麻鹵。城方甲背昧奴等赴加羅、会于任那日本府相盟。以後繋念。相続、図建任那。旦夕無忘。今天皇詔称。速建任那。由是欲共爾曹謨計。樹立任那国。宜善図之。又於任那境。徴召新羅。問聴与不。乃倶遣使、奏聞天皇。恭承示教。儻如使人未還之際。新羅候隙、侵逼任那。我当往救。不足為憂。然善守備。謹警無忘。別汝所道。恐致卓淳等禍。非新羅自強故所能為也。其〓己呑。居加羅与新羅境際。而被連年攻敗。任那無能救援。由是見亡。其南加羅。〓爾狭小。不能卒備。不知所託。由是見亡。其卓淳上下携弐。主欲自附。内応新羅。由是見亡。因斯而観、三国之敗。良有以也。昔新羅請援於高麗。而攻撃任那与百済。尚不剋之。新羅安独滅任那乎。今寡人与汝戮力并心。翳頼天皇。任那必起。因贈物各有差。忻忻而還。

《欽明天皇五年(五四四)三月》三月。百済遺奈率阿〓得文。許勢奈率歌麻。物部奈率歌非等。上表曰。奈率弥麻沙。奈率己連等、至臣蕃。奉詔書曰。爾等宜共在彼日本府、同謀善計。早建任那。爾其戒之。勿被他誑。又津守連等至臣蕃。奉勅書。問建任那。恭承来勅。不敢停時。為欲共謀。乃遣使召日本府〈 百済本記云。遣召烏胡跛臣。蓋是的臣也。 〉与任那。倶対言。新年既至。願過而徃。久而不就。復遣使召。倶対言。祭時既至。願過而往。久而不就。復遣使召。而由遣微者。不得同計。夫任那之不赴召者。非其意焉。是阿賢移那斯。佐魯麻都。〈 二人名也。已見上文。 〉奸佞之所作也。夫任那者以安羅為兄。唯従其意。安羅人者。以日本府為天。唯従其意。〈 百済本記云。以安羅為父。以日本府為本也。 〉今的臣。吉備臣。河内直等。咸従移那斯。麻都指〓而已。移那斯。麻都。雖是小家微者。専擅日本府之政。又制任那。障而勿遣。由是不得同計奏答天皇。故留己麻奴跪。〈 蓋是津守連也。 〉別遣疾使迅如飛烏。奉奏天皇。仮使二人。〈 二人者。移那斯与麻都也。 〉在於安羅。多行奸佞。任那難建。海西諸国。必不獲事。伏請移此二人。還其本処。勅唹日本府与任那。而図建任那。故臣遣奈率弥麻沙。奈率己連等。副己麻奴跪、上表以聞。於是詔曰。的臣等。〈 等者謂吉備弟君臣。河内直等也。 〉往来新羅、非朕心也。襄者。印支弥〈 未詳。 〉与阿鹵旱岐在時。為新羅所逼。而不得耕種。百済路迥。不能救急。由的臣等往来新羅。方得耕種。朕所曾聞。若已建任那。移那斯。麻都。自然却退。豈足云乎。伏承此詔。喜懼兼懐。而新羅誑朝。知匪天勅。新羅春取喙淳。仍擯出我久礼山戍。而遂有之。近安羅処。安羅耕種。近久礼山処。新羅耕種。各自耕之不相侵奪。而移那斯。麻都。過耕他界。六月逃去。於印支弥後来許勢臣時。〈 百済本記云。我留印支弥之後。至既酒臣時。皆未詳。 〉新羅無復侵逼他境。安羅不言為新羅逼不得耕種。臣嘗聞。新羅毎春秋。多聚兵甲。欲襲安羅与荷山。或聞。当襲加羅。頃得書信。便遣将士。擁守任那。無懈怠也。頻発鋭歌兵。応時往救。是以任那随序耕種。新羅不敢侵逼。而奏百済路迥。不能救急。由的臣等往来新羅。方得耕種。是上欺天朝。転成奸佞也。暁然若是。尚欺天朝。自余虚妄。必多有之。的臣等猶住安羅。任那之国恐難建立。宜早退却。臣深懼之。佐魯麻都雖是韓腹。位居大連。廁日本執事之間。入栄班貴盛之之例。而今反著新羅奈麻礼冠。即身心帰附。於他易照。熟観所作。都無怖畏。故前奏悪行。具録聞訖。今猶著他服。日赴新羅域。公私往還。都無所憚。夫喙国之滅。匪由他也。喙国之函跛旱岐。弐心加羅国。而内応新羅。加羅自外合戦。由是滅焉。若使函跛旱岐不為内応。喙国雖小。未必亡也。至於卓淳。亦復然之。仮使卓淳国主不為内応新羅招冦。豈至滅歌乎。歴観諸国敗亡之禍。皆由内応弐心人者。今麻都等腹心新羅。遂着其服。徃還旦夕。陰搆〓心。乃恐、任那由茲永滅。任那若滅。臣国孤危。思欲朝之。豈復得耶。伏願天皇玄鑑遠察。速移本処。以安任那。

新羅は春に卓淳たる喙淳を占領したと上表文は述べており、欽明5年の春に卓淳が滅びたといいながら欽明2年には既に卓淳が滅びたことになっており矛盾しているのである。また、欽明5年の6月に移那斯と麻都が久礼山から逃げたと記載しており、欽明5年の3月の上表文である点でも矛盾している。この2つの矛盾を解決するには欽明2年4月の任那復興会議の記事は欽明5年4月の出来事であり、欽明5年3月の上表文自体は6月以降の上表文であるということである。

また、倭はこの時代、百済の聖明王に再三任那を早く建てよと催促している。

《継体天皇六年(壬辰五一二)十二月》冬十二月。百済遣使貢調。別表請任那国上哆唎。下哆唎。娑陀。牟婁、四県。哆唎国守穂積臣押山奏曰。此四県近連百済。遠隔日本。旦暮易通。鶏犬難別。今賜百済、合為同国。固存之策、無以過此。然縦賜合国。後世猶危。況為異場、幾年能守。大伴大連金村具得是言。同謨而奏。廼以物部大連麁鹿火、宛死宣勅使。物部大連方欲発向難波館、宣勅於百済客。其妻固要曰。夫住吉大神。初以海表金銀之国。高麗・百済・新羅・任那等。授記胎中誉田天皇。故、大后気長足姫尊。与大臣武内宿禰。毎国初置官家。為海表之蕃屏。其来尚矣。抑有由焉。縦削賜他、違本区域。綿世之刺、〓[言+巨]離於口。大連報曰。教示合理。恐背天勅。其妻切諌云。称疾莫宣。大連依諌。由是改使而宣勅。付賜物并制旨。依表賜任那四県。大兄皇子前有縁事、不関賜国。晩知宣勅。驚悔欲改。令曰。自胎中之帝置官家之国。軽随蕃乞。輙爾賜乎。乃遣日鷹吉士。改宣百済客。使者答啓。父天皇図計便宜、勅賜既畢。子皇子豈違帝勅、妄改而令。必是虚也。縦是実者。持杖大頭打。孰与持杖小頭打痛乎。遂罷。於是或有流言曰。大伴大連与哆唎国守穂積臣押山、受百済之賂矣。

哆唎国守穂積臣押山の意見により、任那国上哆唎、下哆唎、娑陀、牟婁の四県は百済に近いので百済に与えたほうがよいという意見そのままに倭は任那四県を百済に割譲してしまうのである。土地は国家の基本であり、人間のようには増えないのである。

任那四県割譲の背景として、喙己呑や南加羅は既に新羅に併合されており、倭の任那支援は十分ではなく八方塞だと考えるのだ。倭のみでは任那を維持するのが難しく、隣国の百済に任那を維持させようと大伴金村大連は考えた

倭が百済に対して任那建国を執拗に催促するのも任那四県割譲の対価であるので当然であり、百済の聖明王も任那に使者を送るなど任那建国に尽力しているのである。

日本は古代に倭と呼ばれていたのは周知の通りである。

中国の歴史書も6世紀の梁書まで倭と記載されており、隋書では俀と記載され、俀は読みは「タイ」であり、訓読みは「よわい」である。俀については倭は国号を大倭としたが卑字として俀となったのではないかと考えている。旧唐書になると倭国伝と日本国伝が併記され、新唐書になると日本伝のみとなる。

一般に倭が日本と名乗ったとされており、そのことは三国史記の新羅本紀に初めて登場する

(670年)文武王上 十年二月 土星入月 京都地震 中侍智鏡退 倭國更號日本 自言近日所出以爲名

上記については封禅の儀に参列し唐より帰国した前帝、大海人皇子たる天智天皇が中大兄皇子を正式な天皇として認めたことにより国号が変わったのではないかと考えている。