帯方郡 楽浪郡

帯方郡の太守

(三国志・魏書・馬韓伝) 

「景初中明帝密遣帶方太守劉昕樂浪太守鮮于嗣越海定二郡諸韓國臣智加賜邑君印綬
其次與邑長其俗好衣幘下戸詣郡朝謁皆假衣幘自服印綬衣幘千有餘人」

 「景初中(237~239年)、明帝(曹叡)は密かに帯方郡太守・劉昕と楽浪郡太守・鮮于嗣を遣はし、海を越えて2つの郡を平定した。
諸韓国の国王は邑君印綬を加賜され、国王の下のものは邑長を与えられた。
習俗は衣頭巾を好んだ。下戸(身分の低い人)は郡に詣り朝謁して、衣頭巾を身につけることを全員ゆるされた。印綬や衣頭巾を自作するものが、1000人余りいた。」

魏が平定した2つの郡とは楽浪郡と帯方郡である。

238年に魏の司馬懿が遼東郡太守・公孫淵と遼隧や襄平で戦争している最中、
その機に乗じて、公孫氏の配下にあった楽浪郡と帯方郡を平定した。

ここに出てくる帯方郡太守の名前は、劉昕である。

同、238年(景初2年)6月に、帯方郡太守は劉夏に変わっている。 

(三国志・魏書・倭人伝)
「景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏將送詣京都」

240年(正始元年)、帯方郡太守は弓遵に変わっている。 

(三国志・魏書・倭人伝)
「正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬詣倭國拜假倭王并齎詔賜金帛錦罽刀鏡采物」

245年(正始6年)、帯方郡太守・弓遵は、帯方郡の崎離営を攻撃した韓族との戦闘中に死亡。

(三国志・魏書・馬韓伝)
「部從事呉林以樂浪本統韓國分割辰韓八國以與樂浪
吏譯轉有異同臣智激韓忿攻帶方郡崎離營時太守弓遵樂浪太守劉茂興兵伐之遵戰死二郡遂滅韓」

「部従事・呉林は、韓国を分割し楽浪郡本部で統括するので、楽浪郡に辰韓8国を与える旨を、韓族の国王に伝えた、しかし、通訳者が間違って伝えたので、韓族の国王は激怒し、帯方郡の崎離営を攻撃した。太守・弓遵と楽浪郡太守・劉茂は、兵を興してこれを討伐した。だが、弓遵は戦死した。帯方郡と楽浪郡はついに韓族を滅亡させた。」

247年(正始8年)、帯方郡太守に王頎が着任。

(三国志・魏書・倭人伝)
「其八年太守王王頎到官」

帯方郡の太守は、9年間(238年~247年)に少なくとも5名着任している。

・劉昕(238年初旬)
・劉夏(238年6月~12月)
(劉昕に緊急事態が起こり:負傷、病気、死亡など、劉夏に交代と推測。)
・未確定X氏(劉夏~弓遵の間に誰か太守がいたかもしれない)
・弓遵(240年~245年)
・Y氏(245年、弓遵が戦死したため、後任にY氏が着任。でないと2年も空席になるので。)
・王頎(247年)

 中国史書の示す三韓

『三国志魏書』馬韓伝
 韓は帯方郡の南に在り、東西は海で尽きる。南に倭と接し、四方は四千里ばかり。韓に三種あり、 一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。辰韓は昔の辰国なり。馬韓は西に在る。その民は土着し、種を植え、 養蚕を知っており、綿布を作る。各邑落には長帥(邑落の長)がおり、大長帥は臣智と自称、 その次が邑借で、山海の間に散在しており城郭はない。

『後漢書』馬韓伝
 韓に三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁辰。馬韓は西に在り、五十四国。その北に楽浪郡、 南に倭と接している。辰韓は東に在り、十二国、その北に濊貊と接している。弁辰は辰韓の南に在り、 また十二国、その南に倭と接している。およそ七十八国。伯済は馬韓の一国なり。土地は合わせて 四方四千余里、東西は海で尽きる、いずれも昔の辰国である。

『後漢書』辰韓伝
 辰韓。古老は、苦役を避けて韓国に行った秦の逃亡者で、馬韓は彼らに東界の地を分け与えたのだと 言う。彼らは国を邦、弓を弧、賊を寇、行酒(酒盃を廻すこと)を行觴と言う。皆のことを徒と呼ぶ。秦語に似ていることから、辰韓を秦韓ともいう。

『三国志魏書』弁辰伝
 弁辰亦十二國、又有諸小別邑、各有渠帥、大者名臣智、其次有險側、次有樊濊、次有殺奚、次有邑借。
 有已柢國、不斯國、弁辰彌離彌凍國、弁辰接塗國、勤耆國、難彌離彌凍國、弁辰古資彌凍國、弁辰古淳是國、冉奚國、弁辰半路國、弁〔辰〕樂奴國、軍彌國(弁軍彌國)、弁辰彌烏邪馬國、如湛國、弁辰甘路國、戸路國、州鮮國(馬延國)、弁辰狗邪國、弁辰走漕馬國、弁辰安邪國(馬延國)、弁辰瀆盧國、斯盧國、優由國。
 弁辰もまた十二国、また諸々の小さな別邑があり、各自に渠帥(首領)がおり、大首領は臣智と言い、その次に險側、次に樊濊、次に殺奚、次に邑借がいる。
(弁辰には)彌離彌凍国、接塗国、古資彌凍国、古淳是国、半路国、樂奴国、彌烏邪馬国、甘路国、狗邪国、走漕馬国、安邪国(馬延国)、瀆盧国がある。
(辰韓には)已柢国、不斯国、勤耆国、難彌離彌凍国、冉奚国、軍彌国(弁軍彌国)、如湛国、戸路国、州鮮国(馬延国)、斯盧国、優由国がある。

 弁辰與辰韓雜居、亦有城郭。衣服居處與辰韓同。言語法俗相似、祠祭鬼神有異、施灶皆在戸西。其瀆盧國與倭接界。十二國亦有王、其人形皆大。衣服絜清、長髮。亦作廣幅細布。法俗特嚴峻。
 弁辰は辰韓に雜居し、城郭をも有する。衣服、住居は辰韓に同じ。言語、法俗は相似するが、祠に鬼神を祭祀するのは異なる、皆が家の西にかまどを置く。そこの瀆盧国は倭と境界を接する。十二国にも王がおり、身体は皆大きい。衣服は清潔、総髪である。また広い幅の細布を作る。刑罰における法俗は特に峻厳である。

 「韓」は朝鮮半島を東西に4千里(400km)で南に倭と接すると記述されている。馬韓が遼東半島にあったとすれば、この領域は現在の北朝鮮の領域とほぼ重なる。

楽浪郡

三国時代には魏が238年に楽浪・帯方郡を接収し、翌年(一説には同年)倭女王卑弥呼も帯方郡を通じて魏と通交した。265年魏に代わった晋が引き続き支配したが、八王の乱以後は衰退の一途を辿り、313年には高句麗に滅ぼされ、後に高句麗は楽浪郡の跡地に遷都した。楽浪・帯方の土着漢人達は高句麗・百済の支配下に入り、これらの王国に中華文明を伝える役割を果たした。

楽浪郡治は衛氏朝鮮国の都「王険」改め「朝鮮県」を郡治とし、現在の平壌市付近の大同江北岸(現在の平壌市街)に郡治が所在したと考えられている。

平壌市街一帯には楽浪漢墓と呼ばれる当時の墳墓が残り、その数は2,000以上と言われる。 多くは植民地時代に日本の考古学者によって発掘された。腐朽消滅していない漢代の木槨墓が初めて学術的に発掘され、大型の木馬など、大量の木製品、漆器が出土した。特に年号・製造部署が刻された漆器が重要で、前漢始元2年から後漢永平14年に至る長期間の遺品が出土している。殆どが四川省で制作された漆器である。その中で、南井里第116号古墳から出土した「漆絵人物画像文筺」は特に有名である。他にも銅鏡や官印、玉器、土器、漢銭などが出土した
永平(えいへい)は、後漢の明帝劉荘の治世に行われた元号。58年 – 75年。

平壌の楽浪墳墓は古い時代ですね
 最近の発掘調査報告(資料1)では楽浪郡平壌説の基盤となった木槨(もっかく)墓は「紀元前3世紀以前から紀元前1世紀末まで存在したと見ることができる」とされた。 その後3世紀までにグィトル墓、レンガ墓と形式が変遷し、中国で発掘される墳墓とは異なるとされた。 この報告が正しければ、楽浪郡設置(紀元前108年-313年)の百年以上前の始皇帝の時代から木槨墓が作られ始めた事になる。 万里の長城建設の苦役から逃亡した秦人達が建国したという辰韓と仮定した方が、楽浪郡と仮定するより自然か?

北朝鮮の学界と韓国の一部の学者は、朝鮮半島には古代から自主独立の国があったとする独自の歴史観を掲げるため、楽浪郡が朝鮮半島にあったことを否定し、中国の遼東半島にあったものとしている。しかし、この主張は文献的にも考古学的にも問題があり、中国や日本やアメリカなどでは認められていない。

楽浪郡は遼東にあった?

史記夏本紀:太康地理志云「樂浪遂城縣有碣石山,長城所起」
楽浪郡遂城県には碣石山があるが万里の長城が始まる所だ。(注:碣石山は秦の始皇帝も登った有名な山で、記述に間違いはないだろう。)

漢書列傳:東過碣石以玄菟、樂浪為郡,[八]師古曰:「樂音洛。浪音郎。」
碣石より東は玄菟郡、楽浪郡。

後漢書郡國志:樂浪郡武帝置。雒陽東北五千里(中略)列口:郭璞注山海經曰「列,水名。列水在遼東。」
楽浪郡は武帝が置いた。洛陽東北五千里。(中略)列口「列は川の名前で列水は遼東にある」

後漢書光武帝紀:樂浪郡,故朝鮮國也,在遼東
楽浪郡は故朝鮮国であり、遼東にある。(注:「朝鮮」という国号は高麗王朝を滅ぼした李成桂が明の初代皇帝である洪武帝により国号を選んでもらい、 古朝鮮にちなんで権知朝鮮国事に封じられた事により定められたもので、「故朝鮮国(古朝鮮)」と「朝鮮半島」は位置的に関係は無い。 もう一つの国号の候補であった「和寧」も李成桂の出身のカラコルムの別名であり、やはり朝鮮半島とは位置的に関係は無い。)

後漢書列傳:長岑縣,屬樂浪郡,其地在遼東
長岑県は楽浪郡に属し、遼東にある。

後漢書列傳夫餘:安帝永初五年,夫餘王始將歩騎七八千人寇鈔樂浪,殺傷吏民,後復歸附。
安帝の永初5年(111年)、夫余王は歩騎7~8千人を率いて楽浪郡を寇鈔し吏民を殺傷したが、間もなく再び帰附した。(注:満州北方にいた夫余が平壌を攻めるのは不可解であり、楽浪郡は遼東にあったと考えるしかないだろう。)

 「辰韓」とは秦人が万里の長城建設の苦役から逃亡して韓の地に定住したという国である。 魏志韓伝には次のような記述がある。
馬韓の東の地を割いて辰韓人を住まわせたという伝承がある。
韓は帯方郡の南、東西は海で尽き、南は倭と接する。楽浪郡の使いは大船に乗って辰韓に入り、千人の仲間を奪還した。また「万余の兵を船に乗せて攻撃する」と辰韓を威嚇した。

帯方郡
帯方郡の場所も遼東

 帯方郡とは楽浪郡の南に置かれた郡である。 定説ではソウル付近となっている。 帯方郡の場所の記述は多くないが、中国史書が示す帯方郡の場所もやはり遼東である。
後漢書高句麗伝:「郡國志西安平、 帶方,縣,並屬遼東郡」
郡國志では西安平、帶方県は遼東郡に属す。
魏志高句麗伝:順、桓之間,復犯遼東,寇新安、居鄉,又攻西安平,于道上殺帶方令,略得樂浪太守妻子
順帝と桓帝の間、度々遼東に侵犯し、新安や居郷で略奪し、西安平を攻めて、帯方令を殺し、楽浪太守の妻子を誘拐した。
晋書地理誌:帶方郡公孫度置。列口, 長岑, 含資
帯方郡は公孫度が置いた。列口県(後漢書郡國志によると列水は遼東), 長岑県(後漢書列傳によると長岑は遼東), 含資県(魏書地形志によると含資は遼西県属)