古事記の倭国、出雲と熊襲以外

古事記には、倭国の名が3箇所で出る。
一つは大国主が倭国に逃げようとした箇所、一つは日本武尊が熊襲建を退治する箇所(大倭国)、もう一つは、葛城の一言主神に雄略天皇が会う箇所である。
日本武尊は大倭国からきたこととし、雄略天皇は倭国の王と名乗っている。

とすれば、それぞれの時期に、出雲と熊襲は、倭国でなかったことになり、雄略天皇は倭国の王ということになる。

『古事記』『日本書紀』に語られる雄略天皇は、「泊瀬の朝倉」で即位し宮を定めたとある。文献からは桜井市黒崎または岩坂が宮の候補地とされてきた。脇本地区も注目されている。
埼玉・稲荷山古墳出土の大刀銘は、ワカタケルが「斯鬼(しき)宮」にいたと記す。ワカタケルは雄略天皇のことならば、シキは磯城地域のことで、このあたり一帯を指す。

倭国に逃げようとした大国主/須勢理毘売命の嫉妬

父の須佐乃男命とともに根の国に住んでいたが、葦原中国から八十神たちの追跡を逃れるために根の国を訪れた大穴牟遅命(=大国主)と出会い、一目見てすぐに結婚した。須勢理毘売命が家に帰って大穴牟遅命を父に紹介したところ、父は大穴牟遅命を蛇のいる部屋や蜂とムカデのいる部屋に寝させた。須勢理毘売命は呪具である「比礼」を大穴牟遅命に与えてこれを救った。また、須佐乃男命が頭の虱を取るよう命じ、実際にはムカデがいたのだが、須勢理毘売命は木の実と赤土を大穴牟遅命に与え、ムカデを噛み潰しているように見せかけるよう仕向けた。須佐乃男命は安心して眠ってしまい、その間に大穴牟遅命が須佐乃男命の髪を部屋の柱に縛りつけ、生大刀と生弓矢と天詔琴を持って須勢理毘売命を背負って逃げ出した。須佐乃男命は追いつけず、大穴牟遅命に大国主神の名を与え、須勢理毘売命を本妻とするよう告げた。

大国主は後から結婚した八上比売との間に、須勢理毘売命より先に子を得ていたが、八上比売は本妻の須勢理毘売命を畏れて子を置いて実家に帰ってしまった。

また、八千矛神(=大国主)が高志国の沼河比売のもとに妻問いに行ったことに対し須勢理毘売命は激しく嫉妬した。困惑した八千矛神は倭国に逃れようとするが、それを留める歌を贈り、二神は仲睦まじく出雲大社に鎮座することとなった。

木俣神(きのまたのかみ、このまたのかみ)は日本神話の中で、大穴牟遅神が因幡の八上比売に生ませた神。
八上比売は大穴牟遅神の最初の妻であったが、須勢理毘売を正妻に迎えたため、これを恐れ、子を木の俣に刺し挟んで実家に帰ってしまった。そのため、その子を名づけて木俣神という。またの名を御井神(みいのかみ)という。

『古事記』の「八千矛神の妻問い物語」に倭と夜麻登が次のように語られます。

ーーまたその神の嫡后須勢理毘売命、いたく嫉妬したまひき。かれ、そのひこじの神わびて、出雲より倭国に上がりまさむとして、束装し立たす時に、片御手は御馬の鞍にかけ、片御足はその御鐙に踏み入れて歌ひて曰く。
ぬばたまの・・・・(省略)・・・・・山との一本薄 項かぶし 汝が泣かさまく 朝雨の 霧に立たむぞ 若草の命 事の 語言も ことば
ーー
それが次に続く

ーーかれ、この大国主神、胸形の奥つ宮(宗形神社の沖つ宮)に坐す神、多紀理毘売命を娶して生みしーー
と、あるように、この倭国は筑紫の地にあるわけです。

大倭国の初出:日本武尊の熊襲征伐

古事記

爾臨其樂日、如童女之髮、梳垂其結御髮、服其姨之御衣御裳、既成童女之姿、交立女人之中、入坐其室內。爾熊曾建兄弟二人、見感其孃子、坐於己中而盛樂。故臨其酣時、自懷出劒、取熊曾之衣衿、以劒自其胸刺通之時、其弟建、見畏逃出。乃追、至其室之椅本、取其背皮、劒自尻刺通。

爾其熊曾建白言「莫動其刀、僕有白言。」爾暫許、押伏。於是白言「汝命者誰。」爾詔「吾者坐纒向之日代宮、所知大八嶋國、大帶日子淤斯呂和氣天皇之御子、名倭男具那王者也。意禮熊曾建二人、不伏無禮聞看而、取殺意禮詔而遣。」爾其熊曾建白「信、然也。於西方、除吾二人無建強人。然於大倭國、益吾二人而、建男者坐祁理。是以、吾獻御名。自今以後、應稱倭建御子。」是事白訖、卽如熟苽振折而殺也。故、自其時稱御名、謂倭建命。然而還上之時、山神・河神・及穴戸神、皆言向和而參上。

卽入坐出雲國、欲殺其出雲建而到、卽結友。故竊以赤檮、作詐刀爲御佩、共沐肥河。爾倭建命、自河先上、取佩出雲建之解置横刀而、詔「爲易刀。」故後、出雲建自河上而、佩倭建命之詐刀。於是、倭建命誂云「伊奢、合刀。」爾各拔其刀之時、出雲建不得拔詐刀。卽倭建命、拔其刀而打殺出雲建。爾御歌曰、

夜都米佐須 伊豆毛多祁流賀 波祁流多知 都豆良佐波麻岐 佐味那志爾阿波禮

熊襲建 兄弟と出雲建

こうしてヤマトタケルの命が熊襲建(くまそたける)の家に着いて様子を伺うと、その家の周囲を軍勢が三重に囲んで、室(土蔵の家)を作っていました。
室が完成したら、落成の祝宴をしようと騒いでいて、御馳走をつくる準備をしていました。そこで、ヤマトタケルの命はそのあたりをブラブラとして、祝宴の日を待ちました。

 ついに、その祝宴の日になると、これまで結っていた少年の髪型をほどいて、乙女の髪のようにけずって垂らし、叔母のヤマトヒメからもらった
上着と裳に着替えて、すっかり乙女の姿になって、女の人たちの中に紛れ込んで、その室の中に入りました。
すると、熊襲建の兄弟が二人ともヤマトタケルの命を見染めて、二人の間に座らせて、盛り上がって宴会をしました。そして、宴がたけなわになった時に、ヤマトタケルの命は懐から剣を出して、兄の熊襲建の衣の襟首を掴んで剣で胸を刺し通しました。

弟の熊襲建が恐れて逃げ出しました。それを追いかけてその室の階段の下に追い込むと、背中を掴んで剣を尻から刺し通しました。
すると、その熊襲建が言いました。「その太刀を動かさないで下さい。(動かすと、死んでしまうので)言いたい事があります。」そこで、しばらく聞き入れる事にして、押し伏せました。

「あなた様はどなたですか。」と熊襲建が尋ねたので、「私は巻向(まきむく)の日代宮(ひしろのみや)で大八島国を治めていらっしゃる、オオタラシヒコオシロワケの天皇の御子、名はヤマトオグナだ。おのれ熊襲建兄弟二人、まつろわず、無礼だとお聞きになって、おのれらを討ち取れと、みことのりされて、遣わされたのだ。」と言いました。すると、熊襲建が言いました。
「まことにその通りでしょう。西の方に私たち二人を除いて、勇猛で強い人はいません。
しかし、大倭国(オオヤマト)の国には我ら二人より勇猛な人がいたんですね。私がお名前を差し上げましょう。これからはヤマトタケルの御子と称えます。」

熊曾建がこう言い終えると、ヤマトタケルの命は
熟れた瓜を絶ち切るように殺しました。
こうして称えられて、名前をヤマトタケルの命と言うようになりました。
ヤマトタケルの命は都へ還りながら、山の神、川の神、また穴戸の神を
みな平定して行かれました。

出雲建

 その途中、ヤマトタケルの命は出雲の国に入ると、
出雲建(いずもたける)を殺そうと思って、友達になりました。
こっそりとイチヒの木で木刀を作り、貴人用の太刀に仕立てて、
出雲建と二人で肥の川で沐浴(身体を洗う事)しました。

 ヤマトタケルの命は先に川から上がると、出雲建が置いていた太刀を手に取って、「刀を交換しないか。」と言いました。出雲建は後から川から上がると、ヤマトタケルの命の偽太刀を腰に付けました。
そうすると、ヤマトタケルの命は「なあ、太刀を合わせてみないか。」と誘いました。
そこで、互いに太刀を抜いたとき、出雲建は偽太刀を抜けませんでした。
すると、ヤマトタケルの命は太刀を抜いて、出雲建を討ち殺してしまいました。そうして歌を詠みました。
  出雲建の腰につけた太刀は 黒いカズラを沢山巻いているのに 
刀身が無いのがあわれだったなあ
こうして、平定して都に戻って、帝に報告しました。

『古事記』雄略天皇の倭国
雄略天皇は一言主神を見つけて、自分と変わらぬ装束や態度に驚き、
「この倭の国に、吾以外に王はないはず」
と怒り、互いに弓を構えて一触即発の状況となった。そこで、一言主は「吾は悪事も一言、善事も一言、言い放つ神。葛城の一言主神だぞ。」と答えた。「記」では一言主の方が先に名乗ったことになっている。しかし、これを聞いた天皇は「あな恐(おそろ)し、我が大神」と大いにかしこまった。そして、従者らの着ていた衣服を全部脱がせて奉じると、一言主神は手を打って喜び、それを受け取った、とある。