天児屋根命ー天忍雲根命─天種子命─┬宇佐津臣命─御食津臣命─伊賀津臣命
─梨迹臣命─┬神聞勝命─国摩大鹿島命─臣狭山命─雷大臣ー壱岐真根子
神功皇后が新羅に兵を出した時、雷大臣がお供していった。(雷大臣は中臣烏賊津使主(ナカトミノイカツノオミ)と同一人物とされている)雷大臣の仕事は審神者(さにわ)である。神功皇后が受けたお告げ(ご神託)を判断する役。
小枚宿祢乃直(おひらのすくねのあたい)
下県郡阿麻氐留(あまてる)神社
顕宗天皇(在位485-487)3年、日神を斎祀せしむ
対馬下県直(つしましもあがたのあたい)祠に侍る
同本伊伎直、伊伎宿祢の系図を見れば、神八子から三代目押見宿祢(おしみのすくね)の個所には、顕宗3年、天皇が月読神を山背国葛野烏田に祀ったとの記述があって、同時期に中央進出を果たしたという話を裏付けるものと思われる。 小枚宿祢乃直は同年代と思われるから、理屈から言えばこの人物が対馬から中央へ進出したということになるのだが、残念なことに、上記の記述だけでは対馬下県郡の阿麻氐留(あまてる)神社を祀ったという話なのか、奈良の地名が抜けたのか内容が明らかではない。又、他系図によれば、真根子命から押見宿祢までまだ数代あることになっている。
真根子命――御身足尼命――大田彦命――酒人命――神奴子(神八子)命――忍見(押見)命
神社:小牧宿禰神社(おひらすくねじんじゃ): 長崎県対馬市峰町(對馬嶋上縣郡)
高良大社:久留米市御井町高良山
ご祭神は高良玉垂命(こうらたまだれのみこと)
高良山にはもともと高木神(=高皇産霊)が鎮座し ていたが、高良玉垂命に一夜の宿を貸したところ取られてしまったというのである。結果現在は近くの高樹神社に遷座されている。高良大社の奥の院は、古くは 「高良廟」「御神廟」と言われ、高良の神である武内宿祢の葬所と伝えられていたらしい。大社のご祭神は竹内宿祢だとする説や月神とする説‥等今だ定まらな い。ここには高良御子神社と真根子神社の境内社が並んで鎮座している。
みやじじんじゃ
宮道神社
●所在地 :京都市山科区勧修寺仁王堂町
●交通 :地下鉄「小野」駅下車 徒歩10分
勧修寺(かじゅうじ)の南に、日本武尊(やまとたけるのみこと)とその子・稚武王(わかたけおう)、宮道弥益と列子、列子の夫・藤原高藤とその子どもたちを祀る宮道神社(みやじじんじゃ)が鎮座しています。
入り口には、藤原高藤と宮道列子との間に生まれ三条右大臣と呼ばれた藤原定方の歌碑が建立されています。
宮道弥益は藤原高藤の妻となった宮道列子の父。
宇多天皇の女御・藤原胤子<贈皇太后>の外祖父。
醍醐天皇の外曾祖父。
宮道とは、宮主(みやじ)か?
由緒
当社は、宇治郡を本拠とした氏族宮道氏の祖神日本武尊、その子稚武王を祭神として、寛平十年(898年)に創祀された。宮道大明神・二所大明神とも称されている。
平安時代初期、宇治郡司宮道弥益は、醍醐天皇の生母藤原胤子の祖父で、その邸を寺としたのが勧修寺であると伝える。
後世、宮道弥益・列子をはじめ、藤原高藤(胤子父)・定方・胤子等勧修寺ゆかりの人々を合祀、近辺にその遺跡もあり、醍醐天皇をめぐる人々の華やかな物語や、古代山科発展の歴史を今に伝える古社である。
高藤の後裔は、勧修寺流藤原氏として朝廷で枢要な地位を占め、また宮道氏は、武家・寺家蜷川氏としてともに繁栄、活躍した。h
宮道神社 由緒碑より
創祀は寛平10年。平安時代初期に宇治郡を本拠としていた宮道氏が、祖神である日本武尊・稚武王を祀ったことに始まる。宮道大明神・二所大明神とも称される。山科神社と同じ祭神を祀り、『山城名跡志』や『神祇志料』では、延喜式式内社である宇治郡山科神社に比定している。
住吉神社 福岡県福岡市博多区住吉
主祭神 住吉三神(底筒男命、中筒男命、表筒男命)
式内社(名神大)筑前国一宮 旧官幣小社
この社の社家、佐伯氏(さえき)は大伴氏族とされ、宮門守護として朝廷に仕えた族。その名は外敵を「遮(さへ)ぎる者」という意とされる。殊に天帝の守護、三台星の氏族。
香椎宮
福岡県福岡市東区香椎
主祭神 仲哀天皇、神功皇后
官幣大社 勅祭社
社伝では仲哀天皇9年(200)、橿日行宮(かしひ)で急逝した仲哀天皇の神霊を神功皇后が祀ったものが起源とされる。香椎廟とも呼ばれ、古く、朝廷の崇敬厚く、伊勢神宮、氣比神宮などと共に本朝四所と称された。現在でも宮内庁より勅使が遣わされるという。
宮の裏手には古宮跡や仲哀天皇の本営跡、武内宿禰が橿日在陣中に居住したとされる武内屋敷、宿禰の長寿にちなんだ不老水などの旧蹟が散在する。また、後背丘陵からは「御飯(老)ノ山城跡」が発掘され、戦国期、島津氏の筑前侵攻の際に、旧大宮司家の武内氏続が立て籠もったという記録。山麓には中世の居館跡なども発掘され、中国産磁器など多様な出土品などから、武内大宮司家あたりの栄華を彷彿とさせる。
志式神社
福岡県福岡市東区奈多字宮山
祭神 火明神、火酢芹神、豊玉姫神、十城別王、稚武王、葉山姫
奈多の松林の中に鎮座する。由緒では神功皇后が三韓征伐の守護を祭祀し、吹上の浜にて神楽を奏したとされ、のち二社を合祀して「志志岐三良天神」と称し、明治維新後、「志式神社(ししき)」とされたという。火難、盗難、災厄を除け、家運隆盛、また安産の神として信仰されるという。
十城別王(そきわけ)、稚武王(わかたけ)、葉山姫
十城別王、稚武王は兄弟で、日本武尊の子。異母兄である仲哀天皇の九州遠征や神功皇后の三韓征伐に参加している。
神功皇后の凱旋後、「十城別王」は平戸にて半島への警護を命ぜられ、平戸島の南端、宮ノ浦の「志々伎神社(しじき)」に祀られる。一方、「稚武王」は呼子、加部島の「田島神社」に祀られる。十城別王の志々伎神社を「下松浦明神」と称し、田島神社を「上松浦明神」として相対させ、十城別王と稚武王は共に西海の孤島の神となっている。