屏風浦、五岳山誕生院、善通寺の古墳

西の讃岐に、屏風が浦と呼ばれる瀬戸内海沿いの山がある。
この近くで、弘法大師が生まれたので、善通寺は、屏風浦五岳山誕生院善通寺と呼ばれる。

古くから発展した地域であり、3から4世紀の古墳が近くにある。また、ふるくからの氏族の伝承も残されている。

空海が生まれ育ったこの場所のすぐ西方、香色山・筆の山・我拝師山の連山と、南方の大麻山(おおさやま)に挟まれた弘田川流域、“有岡”と呼ばれる低丘陵部がある。
善通寺市内には現在確認されるだけで四百を超える古墳が存在し、就中、この有岡地区には大小の前方後円墳が集中していることで、全国的に有名である

古墳時代前期のわが国でも珍しい積石塚古墳
大麻山椀貸塚古墳
大麻山経塚
御忌林(ぎょうきばえ)古墳
大窪経塚古墳
丸山一号、二号墳
大麻山北西麓(標高405m)に位置する“野田院古墳”など

大麻山の山麓には有岡古墳群があり、土器や銅剣,銅鐸,飾玉,経筒などが数多く出 土しています。また、大麻山東麓には延喜式にも名を残す大麻神社が鎮座しています。

高松市にある「鶴尾神社4号墳」
この古墳も箸墓より古い年代。「讃岐型前方後円墳の完成形」と表現しています。

甘粕氏の話

箸墓出現前夜には前方部が短小な纏向型タイプと、東部瀬戸内に分布する細長い前方部を持つ讃岐鶴尾神社型のタイプがある。 また前方後方形の墳丘墓が濃尾平野と近江に発生、東日本に拡散。 
讃岐鶴尾神社型の墳形は箸墓に継承。纏向型と前方後方形はそれぞれ帆立貝形古墳と前方後円墳として全国展開。 
纏向型、鶴尾型の年代はどちらを先行とするかは断定しない。
纏向型前方後円墳は、大和を起点にし、前方後方古墳の回廊を飛び越し南関東に伝播。 次の段階で箸墓モデルの前方後円墳が全国に拡散。秋葉山3号墳や神門古墳群はその先駆

積石塚古墳(坂出市)、国定史跡石清尾山古墳群(高松市)にかけての数十キロの広範囲のベルト地帯は古墳群の連鎖地帯として知られる。

「野田院古墳」(のたのいんこふん)は大麻山北西麓標高405メートル、テラス状平坦部の非常に高地にある古墳として知られている。古墳は3世紀後半建造の日本国内最古の形状の前方後円墳で、全長44.5m、後円部径21.0m、後円部高2.0m、前方部幅13m、後円部は安山岩塊による積石であるが、前方部は盛り土によって造られている。その前方部は途中、くびれ部が細く締まっていて最先端でまたバチ状に広くなっていることから、前方後円墳発生期の3世紀後半のものと推測される
大麻山山麓に点在する6基の古墳は国の史跡に指定されている。王墓山古墳、宮が尾古墳、野田院古墳は史跡公園で、野田院古墳の展望台からは岡山から愛媛まで一望できる。

青龍古墳
所在地:善通寺市吉原町字鷺井1705(鷺井神社境内)

弥生時代から開けていた吉原文化の中心に位置し吉原の真ん中に造営されている。
周囲に周庭帯を巡らせ尊貴なスタイルを保ち、周濠は際立って広く堀り、更に外輪へ二重に濠を設けている。
二重濠の古墳は四国4県内でも他に類を見ない貴重な古墳と言える。
墳丘の半径:14メートル
周 庭 帯 : 4メートル
内濠(最大):18メートル
中    堤 : 6メートル
外    濠 : 6メートル
全体の径  :96メートル.に及ぶ大きな古墳である。
上古この古墳を畏敬した事がそのまま神社信仰に高まり、また仏門の崇敬も深く、弘法大師空海に関係してか、古来善通寺よりも期日参拝が行なはれていた。
墳丘の西南に現存する内濠で、その幅最大18メートルもある。画面右側に墳丘があり、墳丘の南側より西側を望む濠の全景である。
画面左側から上部(西側)に、弧を描く中堤を鮮明に見ることが出来る。

鷺井神社のご神体は古墳の被葬者が眠っている古墳そのものです。従って他の神社のような神殿がありません。ここにも雨乞い念仏踊りが毎年奉納されます。
滝宮の念仏踊りとほとんど同じですが、下司の踊りはこちらのほうが良く跳び跳ねているようです。

鷺井神社
村社 鷺井神社 吉原村大字吉原字鷺井
 祭神 少彦名命
 由緒 僧空海の創建と傳へらる。・・・社傳によれば、空海在唐の砌大旱あり。唐主空海に命じて雨を祈らしむ。空海乃ち少彦名命を祈ること三日にして大に雨ふる。これに依りて歸朝の後祠を建てゝ之を祀り唐青龍寺鎮守に擬して青龍大權現と稱すと。 社地の地形は一つ巴の形とし(一つ巴は水滴を意味す)その内外を濠とし、中央高くして社殿あり。瓦に一つ巴の紋を用う。こは何れも祈雨の靈驗を表示せるものなりと云ふ。・・・社前に一霊泉ありて鷺井又は青鷺井と稱す。仁壽元年九月朔日一青鷺の傷きしが此の地に下り居ること三日三夜その傷全く癒えて去れり。其の跡に清泉湧出す。時に神社童に憑りて、此の水眼病を療すべしと云ふ。 村人驚きて神水と崇めたりしが、香川信景(多度、三野、豊田三郡の領主)の子松之助頼景眼疾ありしに家士詫間大炊の勸めにより、祠官松岡刑部をして當社に平癒を祈らしめ、鷺井の水を以て眼を洗ひしに忽ち平癒せり、爾來香川氏の尊崇愈厚かりきと傳ふ。又往昔この地葦の繁茂せしを以て葦原と稱せしが後吉原と改めたり。 社傳に往昔一羽の青鷺片羽甚く損傷せるもの社前井の傍に來り居ること稍久しかりしが、傷癒え翼全くなりて飛去れり。これより社殿外濠の葦片葉となれりと。明治初年社前鷺井の名に因み鷺井神社と改稱す。明治十二年八月村社に列せられ、同四十年十月二十四日神饌幣帛料供進神社に指定せらる。

我拝師山(がはいしさん)

 標高481.2mで、地元の人から「ぜんちょう」と呼ばれ、昔は倭斯濃山(わしのざん)と呼ばれていました。我拝師山の麓には73番札所出釈迦寺や曼荼羅寺などの札所があります。我拝師山の8合目あたり、出釈迦寺より徒歩で30~40分程のところに出釈迦寺の奥の院である「捨身ヶ嶽禅定」があります。ここの断崖絶壁の岩場が「捨身ヶ岳」です。
 捨身ヶ岳とは、空海が幼少の頃、身を投げたところで、そのときお釈迦様が現れて空海を救ったので、「我(われ)師を拝む」ということからこの山は「我拝師山」と呼ばれるようになりました。また、麓の寺は、釈迦が出現したところという意味から「出釋迦寺」と呼ばれます。
 我拝師山・火上山は、弘法大師空海に関わりが深く、善通寺界隈の景観と一体化した、文化的景観を有しています。

大麻神社(式内社)
由緒
祭神 天太玉命
相殿 天津彦々火瓊々杵尊及供奉三十一神
例祭 十月第一土、日曜日
一.由緒
延喜神名式「讃岐国多度郡尓大麻神社とありて、延喜式内二十四社の一なり」。天太玉命は、高皇産霊神の御子に座して、天児屋根命と倶に祭祀を主り給い、抜群の御功績あり。天照大御神、瓊々杵尊に豊葦原瑞穂国を御依し給ひて、天孫降臨。命は供奉三十二神の五伴緒の一神にして、所謂、忌部氏の祖神なり。
 御鎮座創祀は往古に属し、正史に神武天皇の御宇、諸国に忌部の社を建て祭祀せしと相伝ふ。往古当国の忌部氏、阿波忌部と協力して讃岐を開拓し、此の地に麻を植え殖産興業の途を開かれ、国利民福の基を進め、その祖神天太玉命を祀り大麻天神と奉称し、村の名を大麻と云ふ。
一.12代景行天皇23年癸巳年夏、南海に悪魚ありて災害をなす。天皇、皇子神櫛王に平げ給へと勅ありて、軍士を率いて下る。討伐に際し大麻神は天孫と倶に、国土平定の守護の神なりとて祭り、果して験あり。土佐国より当国綾の海にて斯を平定し後、国造に任ぜらる。その時、崇敬愈厚く御供仕へし穂積忍山彦根をして、社殿を修営し玉串を納め祭祀を主らしめ給へり。(穂積忍山彦根は、現宮司白玖氏の遠祖なり)
一.神階
五十六代 清和天皇 「貞観七年冬十月九日丁巳讃岐国従五位下大麻神授 従五位上」(三代実録)
六十代  醍醐天皇 「延喜十年八月二十三日授 讃岐国大麻天神従四位下」(日本紀略)
後円融天皇 永徳元年迄に正一位の神階に進ませらる、御加階毎に、位田の御寄進もありたり。
一.重要文化財
天津彦々火瓊々杵尊座像壱躯。天太玉命座像壱躯。上記四十代天武天皇白鳳十一壬午年(皇紀1,342)。穂積忍山彦根の裔、二十三代二十世孫神主穂積宿祢白玖鵜麿の作なり。重要文化財に指定せらる。同年、天孫瓊々杵尊及供奉三十二柱の神像作り、相殿に奉斎す。同、門守神二躯狗形二體神門に奉斎す。六十一代 朱雀天皇 天慶四辛丑年(皇紀1,601)三十四代二十九世孫神主穂積白玖志岐、門守神二躯狗形二體神門に奉斎す。
一.旧社格
1.明治5年、郷社に列せらる。2.昭和8年6月19日、県社に列せらる。生駒記、式社考、二十四社考、大日記二十四社名目、西讃府志、讃岐古社神名帳、皆同じ。当社は、大麻山に鎮座。古今異説なし。

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