倭国の大乱、吉備と出雲

後漢書「東夷伝」に

「後漢の桓帝・霊帝時代(147~189)に倭国は大いに乱れ,互いに戦い,何年もの間,主となる王を立てられないほどだった。」とある。 この争いは,卑弥呼を共立する事により収まったようである。この時期は,東アジア全体が寒冷期に入ったようで,中国でも,黄巾の乱が起こり,後漢が倒れ, 三国時代を迎えている。不作続きだったことが予想される。


記紀の、第六代孝安天皇から孝霊天皇、孝元天皇の頃と考えられる。

古事記の孝霊天皇の条を見ると、

  1. 播磨の氷河の碕に斎瓮をすえて神を祭り,播磨口を入口として,吉備国を平定なさった。
  2. 大阪湾から瀬戸内海沿岸地方にかけて,二世紀後半の集団戦の跡と考えられる遺跡が数多く見つかっている。
  3. 実践的な小型の鉄鏃が、中国地方で後期中葉から後葉にかけて急激に増大している。


弥生時代の鉄器

弥生の後期 九州各地に加え 山陰・安芸・吉備での 鉄器出土が増加するが、近畿での出土数は依然として少な

  
弥生時代中期前半期の鉄器の多くは鋳造鉄器片である。つまり流通した鉄片(素材)の多くは鉄片であったわけである。しかし、土製羽口も備えない当時の鍛冶遺構や、その周辺から出土 する鉄器切片からすれば、「わかし」や「おろし」といった鍛冶作業が普及していたと考える ことはかなり難しい(村上 1994・2000)。
弥生時代中期の鍛冶技術の限界を勘案すれば、輸入された鉄片の多くは、研磨加工による刃部成形か、再熔融して鋳造品に再生させるしか利用方法がないといってもよいのである。鋳鉄片を研磨加工する地域は福岡県のなかでも、小郡市や旧朝倉郡域、あるいは熊本県北部などに限定されているのである。鍛造鉄片での鉄鋳造は不可能といえるが、鋳造鉄片がある程度供給されるものならば、青銅の鋳造と同様、鉄鋳造も不可能ではない。弥生時代中期中葉前後にようやく鍛造鉄器の普及が 始まることからしても、九州北部中枢域においては青銅と同様に鉄の鋳造をわずかながらに行 なったことがあった可能性も考慮せねばならない。山陰 ・ 山陽地方などでも鋳造鉄片はわずかに出土するが、その研磨加工は中期後葉に盛行する。 

弥生時代の遺跡
鳥取県の妻木晩田遺跡と青谷上寺地遺跡淡路島の五斗長垣内遺跡

妻木晩田遺跡は国邑、広い遺跡には大好きな四隅突出型墳丘墓もあります。鉄器の出土数も多くかなり進んだ文化をもっていたようです。
青谷上寺地遺跡も、鉄器に脱炭処理を行ない強くしたり、鉄器の再利用技術も進んでいたそうです。
五斗長垣内遺跡からは、竪穴式住居が23棟見つかりその内12棟が鍛治工房跡で、当時の様子が見えて来るようです。

菊池川流域の豊かさ

玉名市両迫間・龍王田の両迫間日渡遺跡 で弥生時代前期(約2300年前)の 水田跡が確認されている。
 

弥生時代の大規模集落遺

うてな遺跡

方保田東原遺跡

吉野ケ里遺跡に匹敵する大環濠集落の方保田東原遺跡がある。また、熊本平野弥生時代の鉄器生産の中心だったらしく、鍛治工房跡の数は日本一を誇っている。

三輪氏と出雲、倭氏

素戔鳴尊(スサノオ)-大国主命-都美波八重事代主天事代主櫛入彦命-姫踏鞴五十鈴姫<初代神武天皇皇后>-五十鈴依姫命<2代綏靖天皇皇后>-天日方奇日方命-飯肩巣見命-建甕尻命-豊御気主命-大御気主命--淳名底仲媛命<3代安寧天皇皇后>-建飯賀田須命-大田々田根子 

賀茂氏系図には記載が無かった、先の加茂大神・阿遅鋤高日子根(アジスキタカヒコネ)の名が、事代主の兄弟・味鋤高日子根(アジスキタカヒコネ)として、三輪氏系図に記載される。

初代天皇・神武(ジンム)、第2代天皇・綏靖(スイゼイ)、第3代天皇・安寧(アンネイ)。少なくとも初代から3代までの皇后の名が三輪氏系図に明記される
-姫踏鞴五十鈴姫<初代神武天皇皇后>
-五十鈴依姫命<2代綏靖天皇皇后>
-淳名底仲媛命<3代安寧天皇皇后>
3代の妃は、三輪氏であり、 倭氏でもある。
 <三輪氏・大神(オオミワ)神社社家>
大国主命(別称、大己貴)-都美波八重事代主(兄弟に味鋤高日子根命)-天事代主櫛入彦命-天日方奇日方命-飯肩巣見命(姉妹に淳名底仲媛命.安寧の皇后)-建甕尻命-豊御気主命-大御気主命-建飯賀田須命-大田々田根子

0.素戔嗚尊 =櫛名田比賣 ←手名椎/足名椎←大山津見
1.八島士奴美神 =木花知流比賣 ←大山津見
2.布波能母遅久奴須奴神 =日河比賣 ←淤迦美神
3.深淵之水夜禮花神 =天之都度閇知泥神 ←?
4.淤美豆神 =布帝耳神 ←布怒豆怒神
5.天之冬衣神 =刺国若比賣 ←刺国大神
6.大国主神


鳥鳴海神以下の系譜

此の神、日名照額田毘道男伊許知邇神を娶して生める子は、国忍富神。此の神、葦那陀迦神、亦の名は八河江比売を娶して生める子は、速甕之多気佐波夜遅奴美神。此の神、天之甕主神の女、前玉比売を娶して生める子は、甕主日子神。此の神、淤迦美神の女、比那良志毘売を娶して生める子は、多比理岐志麻流美神。此の神、比々羅木之其花麻豆美神の女、活玉前玉比売神を娶して生める子は、美呂浪神。此の神、敷山主神の女、青沼馬沼押比売を娶して生める子は、布忍富鳥鳴海神。此の神、若尽女神を娶して生める子は、天日腹大科度美神。此の神、天狭霧神の女、遠津待根神を娶して生める子は、遠津山岬多良斯神。

「シノ」が含まれる神名として「八嶋篠(八嶋士奴美)」「国忍」「布忍」が挙げられる。篠目との関連がある。

 6.大国主神(大穴神) =鳥耳神 ←八島牟遅能神
 7.鳥鳴海神 =日名照額田毘道男伊許知迩神 .
 8.国忍富神 =葦那陀迦神(亦名、八河江比賣) .
 9.速甕多気佐波夜遅奴美神 =前玉比賣 ←天之甕主神
10.甕主日子神 =比那良志毘賣 ←淤加美神
11.多比理岐志麻流美神 =活玉前玉比賣 ←比比羅木之其花麻豆美神
12.美呂浪神 =青沼馬沼押比賣 ←敷山主神
13.布忍富鳥鳴海神 =若盡女神 .
14.天日腹大科度美神 =遠津待根神 ←天狭霧神←大山津見神
15.遠津山岬多良斯神 . .

長髄彦は、出雲族の事代主命の子、天日方奇日方命の子孫で、天日方奇日方命の妹が、神武天皇の皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命。諏訪の健御名方命が遠縁の叔父。

崇神天皇の代。
疫病が多く起こり、人が死に尽くそうとしていた。天皇はこれを嘆き、神床で眠るとその夢に大物主神が夢に顕われて言った。

「これは私の心である。 意富多多泥子(オオタタネコ)に私を斎き祀らせたならば祟りは鎮まり、国は安らかにおさまるであろう」

天皇はこれを聞いて、早馬の使いを四方に派遣して河内の美努村に意富多多泥子が暮らしているのを見つけた。
「お前は誰の子か」と天皇が尋ねると、彼は答えた。
「私は大物主神が陶津耳命の娘の活玉依比売を娶って産んだ子の櫛御方命、その子の飯肩巣見命、その子の建武甕槌の子で意富多多泥子といいます」
天皇は大変喜んで「これで国はやすらぎ、人々は栄えるであろう」と言って、意富多多泥子を神主として御諸山に意富美和之大神(大物主神)を祀らせた。

出雲氏神代系譜と関連する氏族の祖

天穂日命-①武夷鳥命-櫛瓊命=伊佐我命-津狭命-櫛瓱前命-櫛月命-櫛瓱鳥海命-櫛田命-知理命-毛呂須命-阿多命-出雲振根=日本武命-②伊幣根命-③韓日狭命
①②伊幣根命-鵜濡渟命 千家氏・北島氏の祖
②伊幣根命-伊賀曾然命 出雲神門臣・建部氏・斯摩・志摩国造家の島氏の祖
③韓日狭命-野見宿祢←襲髄命の子とも言う・・ 土師氏・菅原氏・大江氏の祖
④宇乃遅命-置部臣/物部氏の祖

①武夷鳥命-櫛玉命=出雲建子命=伊勢津彦命 出雲忌部系島族・角井氏の祖