令制国一覧、九州

律令制の開始 大宝の頃の郡

西海道
筑前国 ちくぜん(筑州)

筑紫国(つくしのくに)の分割によって、筑後国とともに7世紀末までに成立した。7世紀後半のものと見られる太宰府市で出土した最古の「戸籍」木簡に「竺志前國」とある。

延喜式内社
『延喜式神名帳』には、大社16座8社・小社3座3社の計19座10社が記載されている。大社8社は以下に示すもので、全て名神大社である。

宗像郡 宗像神社三座 (現 宗像大社、宗像市)
宗像郡 織幡神社 (宗像市)
那珂郡 八幡大菩薩筥埼宮 (現 筥崎宮、福岡市東区)
那珂郡 住吉神社三座 (福岡市博多区)
糟屋郡 志加海神社三座 (現 志賀海神社、福岡市東区)
御笠郡 筑紫神社 (筑紫野市)
御笠郡 竈門神社 (筑紫野市・太宰府市)
下座郡 美奈宜神社三座 – 福岡県朝倉市に論社2社。
他に式外社として香椎宮(福岡市東区)が国史に見える。

一宮 筥崎宮または住吉神社
一宮とされる筥崎宮・住吉神社よりも上位に香椎宮・宗像大社などがあるが、これらは国家的な崇敬の対象であり、筑前国一国のものとは考えられていなかったようである。二宮以下は不詳である。

志摩郡(しまぐん)
怡土郡(いとぐん)
早良郡(さわらぐん)
那珂郡(なかぐん)
席田郡(むしろだぐん)
御笠郡(みかさぐん)
糟屋郡(かすやぐん)
宗像郡(むなかたぐん)
遠賀郡(おんがぐん)
鞍手郡(くらてぐん)
穂波郡(ほなみぐん)
嘉麻郡(かまぐん)
夜須郡(やすぐん)
上座郡(じょうざぐん)
下座郡(げざぐん)
安佐久良/朝座郡(あさくらぐん)。延喜式までに上座郡と下座郡に分割。

宗像郡 宗像神社三座 (現 宗像大社、宗像市)
宗像郡 織幡神社 (宗像市)
那珂郡 八幡大菩薩筥埼宮 (現 筥崎宮、福岡市東区)
那珂郡 住吉神社三座 (福岡市博多区)
糟屋郡 志加海神社三座 (現 志賀海神社、福岡市東区)
御笠郡 筑紫神社 (筑紫野市)
御笠郡 竈門神社 (筑紫野市・太宰府市)
下座郡 美奈宜神社三座 – 福岡県朝倉市に論社2社。

筑後国 ちくご(筑州)

筑紫国(つくしのくに)の分割によって、筑前国とともに7世紀末までに成立した。
延喜式内社
『延喜式神名帳』には、大社2座2社・小社2座2社の計4座4社が記載されている。大社2社は以下に示すもので、いずれも名神大社である。
三井郡 高良玉垂命神社 (現 高良大社、久留米市)
三井郡 豊比咩神社 – 久留米市内に論社4社。
総社・一宮
総社 味水御井神社 – 古くから高良大社摂社であり、実質的には高良大社が総社の機能も持っていたと見られる。
一宮 高良大社
二宮以下は存在しない。

御原郡(みはらぐん)
生葉郡(いくはぐん)
竹野郡(たけのぐん)
山本郡(やまもとぐん)
御井郡(みいぐん)
三瀦郡(三潴郡)(みづまぐん)
陽咩/八女郡(やめぐん)・・・延喜式までに上妻郡と下妻郡に分割。
上妻郡(かふづまぐん)
下妻郡(しもつまぐん)
山門郡(やまとぐん)
三毛郡(三池郡)(みけぐん)

豊前国 ぶぜん(豊州)

7世紀末に、豊国(とよのくに、とよくに)を分割して、豊後国とともに設けられた。豊前は、平安時代まで和名で「とよくにのみちのくち」と読んだ。

延喜式内社
『延喜式神名帳』には、大社3座3社・小3座3社の計6座6社が記載されている。大社3社は以下に示すもので、全て名神大社である。
宇佐郡 八幡大菩薩宇佐宮
宇佐郡 比売神社
宇佐郡 大帯姫廟神社
これらは宇佐神宮(大分県宇佐市)に関わる神社である。なお小社3社はいずれも現在の香春神社であり、6社とも渡来系の神であることが特色である。

総社・一宮
総社 惣社八幡神社 (福岡県京都郡みやこ町国作字総社)
一宮 宇佐神宮
二宮以下は存在しない。

田河郡(たがわぐん)(福岡県田川市・田川郡全域・嘉麻市の一部)
企救郡(きくぐん)(福岡県北九州市小倉北区・小倉南区・門司区)
京都郡(みやこぐん)(福岡県行橋市・苅田町・みやこ町の一部)
仲津郡(なかつぐん)(福岡県行橋市、みやこ町の一部
築城郡(ついきぐん)(福岡県築上町・豊前市の一部)
三毛郡(みけぐん)・・・延喜式までに上毛郡と下毛郡に分割。
上毛郡(かうげぐん)(福岡県豊前市・上毛町・吉富町)
下毛郡(しもげぐん)(大分県中津市)
宇佐郡(うさぐん)(大分県宇佐市・豊後高田市の一部)

豊後国 ぶんご(豊州)
7世紀末に、豊国(とよのくに、とよくに)を分割して、豊前国とともに設けられた。豊後は、平安時代まで和名で「とよくにのみちのしり」と読んだ。

『豊後国風土記』は、全国で5つだけのほぼ完全な形で残る風土記の1つである。

延喜式内社
『延喜式神名帳』には、以下に示す大社1座1社・小社5座4社の計6座5社が記載されている。大社1社は、名神大社ではない。
直入郡 健男霜凝日子神社 (竹田市)
大分郡 西寒多神社 (大分市寒田) – 大社。
速見郡 宇奈岐日女神社 (由布市)
速見郡 火男火売神社二座 (別府市)
海部郡 早吸日女神社 (大分市佐賀関)
総社・一宮
総社 不詳
一宮 西寒多神社または柞原八幡宮 (大分市上八幡) – 並立し、古くから論争が続いていた。
二宮以下は不詳である。

日田郡(日高郡[2])
球珠郡(玖珠郡[3])
直入郡
大野郡
海部郡
大分郡
速見郡
国埼郡(国東郡[3])
特記した以外は『豊後国風土記』での表記による。

肥前国 ひぜん(肥州)

火国(ひのくに)、後の肥国(ひのくに)の分割によって7世紀末までに成立した。肥後国が『続日本紀』に初めて見える持統天皇10年(696年)までのどの時点かに、肥前国と肥後国との分割があったと推定される。

『肥前国風土記』は、全国で5つだけの、ほぼ完全な形で残る風土記の1つである。

延喜式内社
『延喜式神名帳』には、以下に示す大社1座1社・小社3座3社の計4座4社が記載されている。大社1社は名神大社である。
松浦郡 田嶋坐神社 (現 田島神社、佐賀県唐津市呼子町加部島) – 名神大社。
松浦郡 志志伎神社 (長崎県平戸市野子古町)
基肄郡 荒穂神社 (佐賀県三養基郡基山町大字宮浦)
佐嘉郡 與止日女神社 (佐賀県佐賀市大和町大字川上)
総社・一宮
総社 所在不明
一宮
與止日女神社 – 国衙と結びついていた。
千栗八幡宮 – 宇佐神宮を背景とした。
最も社格が高いのは田島坐神社であるが、一宮にはなっていない。一宮は中世以降、上記の2社が一宮を主張し並立した。二宮以下は不詳である。

基肄郡(きい)→三根郡、養父郡と合わさり、佐賀県三養基郡へ
姫社郷
山田郷
基肄郷
川上郷
長谷郷
養父郡(やふ)→三根郡、基肄郡と合わさり、佐賀県三養基郡へ・郡から除外された市部は鳥栖市へ
狭山郷
屋田郷
養父郷
鳥栖郷
三根郡(みね)→養父郡、基肄郡と合わさり、佐賀県三養基郡へ
千栗郷
物部郷
米多郷
財部郷
葛木郷
神埼郡(かむさき)→佐賀県神埼郡へ・郡から除外された市部は神埼市へ
蒲田郷
三根郷
神崎郷
宮所郷
佐賀郡(さか)→佐賀県佐賀郡へ・全域が郡から除外され佐賀市へ
城埼郷
巨勢郷
深溝郷
小津郷
山田郷
小城郡(をき)→佐賀県小城郡へ・全域が郡から除外され佐賀県小城市および多久市へ
川上郷
甕調郷
高来郷
伴部郷
松浦郡(まつら)→分割により佐賀県西松浦郡および東松浦郡、長崎県北松浦郡および南松浦郡へ・郡から除外された市部は佐賀県唐津市、伊万里市、長崎県松浦市、平戸市、佐世保市の吉井・世知原・小佐々・宇久の各地区および五島市へ
庇羅郷
大沼郷
値嘉郷
生佐郷
久利郷
杵島郡(きしま)→佐賀県杵島郡へ・郡から除外された市部は武雄市へ
多駄郷
杵島郷
能伊郷
島見郷
藤津郡(ふしつ)→佐賀県藤津郡へ・郡から除外された市部は鹿島市および嬉野市
鹽田郷
能美郷
彼杵郡(そのき)→分割により長崎県西彼杵郡および東彼杵郡へ・郡から除外された市部は長崎市、佐世保市、諫早市の多良見地区、西海市
大村郷
彼杵郷
高来郡(たかく)→分割により長崎県北高来郡および南高来郡へ・全域が郡から除外され、諫早市、島原市、雲仙市、南島原市、長崎市の旧西彼杵郡東長崎町に含まれる古賀・戸石地区へ
山田郷
新居郷
神代郷
野島郷

肥後国 ひご(肥州)

元来は肥前国と合わせて火国(肥国、ひのくに)であった。火国の名は、活発な噴火活動を行っている阿蘇山に由来するといわれる。また一説には、肥前・肥後両国の有明海沿岸に広がる干潟に由来するともいう。「肥後国」として初めて文献に現れるのは持統天皇10年(696年)頃であり、7世紀中に肥国を分割して肥前国と肥後国が成立したと推定される。

延喜式内社

『延喜式神名帳』には、次に示す大社1座1社・小社3座3社の計4座4社が記載されている(肥後国の式内社一覧参照)。大社1社は次に示すもので、名神大社である。
阿蘇郡 健磐竜命神社
比定社:阿蘇神社(阿蘇市一の宮町宮地)
総社・一宮以下

『中世諸国一宮制の基礎的研究』に基づく総社・一宮以下の一覧[6]。
総社:総社神社 (位置) – 北岡神社(熊本市春日)境内社。
一宮:阿蘇神社 (阿蘇市一の宮町宮地、位置)
二宮:甲佐神社 (上益城郡甲佐町上揚、位置) – 保延3年(1137年)までには阿蘇神社の末社化[7]。
三宮:藤崎八旛宮 (熊本市中央区井川淵町、位置) – 嘉禎4年(1238年)の文書に「当州第三之宗廟」[7]。
以上のほか、郡浦神社(宇城市三角町郡浦)が三宮を称する[8]。

玉名郡
山鹿郡
菊池郡
阿蘇郡
合志郡
山本郡
飽田郡
託麻郡
下益城郡…江戸時代に益城郡を分割
上益城郡…江戸時代に益城郡を分割
宇土郡
八代郡
天草郡
葦北郡
球麻郡

日向国 ひゅうが/ひうが(日州、向州)

『日本書紀』には「日向」の語源説話として、景行天皇と日本武尊の征西説話において、「是の国は直く日の出づる方に向けり」と言ったので、「日向国」と名づけたと記述されている[1]。

「日向」の読みについては、『日本書紀』に「宇摩奈羅麼、譬武伽能古摩(うまならば、ひむかのこま = 馬ならば日向の駒)」とあり[2]、古くは「ひむか」と呼ばれたと考えられている[3]。ただし、この「譬武伽」を日向国とするには検討が必要と指摘される[3]。

延喜式内社
『延喜式神名帳』には、以下に示す小社4座4社が記載されている。大社はない。
児湯郡 都農神社 (児湯郡都農町川北)
児湯郡 都萬神社 (西都市妻)
宮埼郡 江田神社 (宮崎市阿波岐原町)
諸県郡 霧島神社 – 論社4社。
これら4社は「日向四社」と呼ばれ、日向国内で特に格式の高い神社とされている。

総社・一宮以下
総社 都萬神社
一宮 都農神社
二宮以下は不詳であるが、都萬神社が二宮であるとする説もある。


臼杵郡
児湯郡
那珂郡
宮崎郡
諸県郡

大隅国 おおすみ/おほすみ(隅州) – 713年に日向国より分立。

多禰国たね – 702年に日向国より分立。824年に大隅国に併合。
薩摩国 さつま(薩州) – 702年に日向国より分立。
壱岐国 いき(壱州) – 本来は壱岐嶋。

古くは壱岐のほか、伊伎、伊吉、伊岐、由紀、由吉など様々に表記され、「いき」または「ゆき」と読んだ。令制国しての壱岐国が7世紀に設けられると、しだいに壱岐と書いて「いき」と読むことが定着した。壱岐国は、「島」という行政単位として壱岐島とも呼ばれ、その国司は島司とも呼ばれた。

延喜式内社
『延喜式神名帳』には、大社7座7社・小社17座17社の計24座24社が記載されている。大社7社は以下に示すもので、海神社を除いて名神大社となっている。
壱伎郡 住吉神社 (壱岐市芦辺町)
壱伎郡 兵主神社 – 八幡神社(壱岐市勝本町)ほか論社1社。
壱伎郡 月読神社 – 八幡神社(壱岐市芦辺町)ほか論社1社。
壱伎郡 中津神社 – 聖母宮(壱岐市勝本町)ほか論社1社。
石田郡 天手長男神社 – 興神社(壱岐市芦辺町) ほか論社1社。
石田郡 天手長比売神社 – 現在は天手長男神社に合祀。
石田郡 海神社 – 名神大社ではない。
総社・一宮以下
総社 総社神社 – 興神社摂社。
一宮 天手長男神社または興神社
二宮 聖母宮
一宮は天手長男神社である。しかし、郷ノ浦町にある現在「天手長男神社」とされている神社が本当に壱岐国一宮・式内社の天手長男神社であるかどうかの明証はない。式内社・天手長男神社を現在地に比定したのは国学者の橘三喜である。三喜は「たながお」という社名から郷ノ浦町田中触に天手長男神社があったと考え、実際に田中触に荒れはてた祭祀場の跡を発見したのでこれが式内社・天手長男神社であるとしたものである。三喜の報告に基づき、平戸藩主の命によって社殿等が整備された。近年の研究では、壱岐市芦辺町の興神社(こうじんじゃ)が本来の式内社・一宮の天手長男神社であったとする説が有力となっている。

対馬国 つしま(対州) – 本来は対馬嶋。

延喜式内社
『延喜式神名帳』には、大社6座6社・小社23座23社の計29座29社が記載されている。大社6社は以下に示すもので、全て名神大社である。
上県郡 和多都美神社 – 和多都美神社(対馬市豊玉町)または海神神社(対馬市峰町木坂)に比定。
上県郡 和多都美御子神社 – 和多都美御子神社(対馬市豊玉町)ほか論社3社。
下県郡 高御魂神社 (対馬市厳原町)
下県郡 和多都美神社 – 八幡宮神社(対馬市厳原町)または乙和多都美神社(対馬市厳原町)に比定。
下県郡 太祝詞神社 (対馬市美津島町)
下県郡 住吉神社 (対馬市美津島町け知) – 住吉神社は元来大阪湾周辺の海神であったと考えられるが、対馬の住吉神社もまた神功皇后の新羅出兵伝承と不可分なかたちで語り継がれてきたものである[17]。
総社・一宮
総社 不詳
一宮 海神神社
二宮以下は存在しない。


上県郡
伊奈郷、久須郷、向日郷、三根郷、佐護郷
下県郡
豆酘郷、鶏知郷、賀志郷、与良郷、玉調郷