朝鮮半島の仏教伝来
朝鮮半島における現存最古の史書である『三国史記』(1145年完成)に頼るしかない。
古代の朝鮮半島に関しての文書記録はほとんどない。実質、残っているのは日本と中国に残る文献だけであり、韓国の主張する古代半島の歴史は何ら証拠がない。古朝鮮の存在を主張するが、韓国はもちろん、周辺国にもその記述は見あたらない。
三国史記
372年 高句麗に中国の前秦から仏教伝来
384年 百済に晋より仏教伝来(摩羅難陀の到来)
527年 新羅、仏教を公認
「三国史記」によると、高句麗は375年に仏教を公認したとあります。中国の東晋の影響が大きかったといわれていますが、その以前から仏教は入っていたとみられます。百済は384年に東晋の僧侶である魔羅難陀(マラナンタ)が仏教を伝えたといわれます。新羅は仏教公認に至るまでいろいろな余曲折を経て、かなり後の時期である6世紀の前半に公認されたと記されています。
6世紀前半の法興王(ポップンオウ)の時代に新羅は、加羅の征服に成功し、高句麗や百済と争う重要な時期でした
535年、「三国遺事」に法興王十四年に「興輪寺」の創建工事が一旦着手されたにもかかわらず中断され、8年後、法興王二十二年(535)に再び建て始められた。王族に仏教的名前が多いことから王室内で仏教信仰が篤かった。
『仏国寺古今創記』では、法興王の母でこの時すでに尼であった迎帝夫人が、仏国寺を建立させたとしている。迎帝夫人の法号が「法流」であるから、仏国寺の別名を「法流寺」という伏線を張っている。なお、『仏国寺古今創記』には、この説話を現在佚している『鶏林本記』より引用したとある。
太建6年(574、真興王36年)、真興王が母只召夫人のために皇龍寺丈六仏像を鋳造したという説話にあわせて、毘盧舎那像と阿弥陀像の2躯を仏国寺に安置したとする(『仏国寺古今創記』)。この2像は現在も仏国寺に安置されているが、6世紀のものではなく、8世紀以降のものとされている。
538 百済より仏教伝来。(仏教公伝)
552 蘇我氏と物部氏の死闘の開始。
蘇我稲目 対 物部尾輿
587 蘇我(馬子)対 物部(守屋) 物部氏滅亡
新興勢力蘇我氏は仏教を掲げ、それに物部氏、三輪氏、中臣氏(物部一族)が対抗した。大臣の蘇我馬子は聖徳太子らとはかり大連の物部守屋を滅ぼし、これより仏教が盛んとなる
大神高市麿
彼の家が三輪寺になったというのだ。高市麿は7世紀後半に活躍した大神氏の当主で、『日本書紀』や『続日本紀』にその記録が見える。壬申の乱では天武方につき箸陵の戦いで大いに手柄を立てた。持統天皇が伊勢へ行幸したときは、農繁期の妨げになることを説いて行幸の中止を諫言している。しかし、聞き入れられず、再度諫言して中納言の重職を辞した。のちに長門守になり、慶雲3年(706)左京大夫従四位上にて亡くなる。壬申の年の功により従三位を追贈された。
三輪寺
大御輪寺の歴史は古い。大御輪寺の寺名は鎌倉時代の叡尊による中興以降のものであり、その前は大神寺あるいは三輪寺と呼ばれた。大神寺の名称が初めて文献に登場するのは、鑑真とともに来日した唐僧思託が延暦7年(788)に撰した『延暦僧録』の中で、「沙門浄三(きよみ)が大神寺において六門陀羅尼経を講じた」という記載である。沙門浄三は天武天皇の孫でもと智努(ちぬ)王、従二位大納言までのぼりつめて政界で重きをなし、一方仏教にも帰依して鑑真の菩薩戒を受け、唐招提寺講堂の建立や薬師寺仏足石の制作で活躍したことが知られる。浄三が没したのが宝亀元年(770)であるから、それまでに大神寺が存在したことになる。