宇佐神宮と八幡神

 宇佐神宮は神殿が三つ並ぶのであるが、二之御殿の前には四方を吹き放ちとした拝陣が設えてあり、二之御殿が主殿であることが確認できる。
 本来の主祭神とみられる二之御殿の
「比売大神」は、のちに忌避された神のようである。

 宇佐神宮の由緒では、「比売大神」は八幡神が現れる以前の宇佐の古い地主神として、「宗像三女神」の多紀理毘売、市寸嶋比売、多岐都比売のこととする。三女神は、筑紫の宇佐嶋に天降った神とされ、宇佐の国造らが御許山に祀ったいう。
 が、この説は平安期の「先代旧事本紀」に始まるともされ、比売大神の出自については、託宣集による「玉依比売」や、神功皇后の妹ともされる「豊比売命」、国東、姫島の比売許曽神「阿加流比売」など諸説あり、九州古代史の大きな謎のひとつとなっている。

 宇佐神宮の祭祀氏族は宇佐氏、辛嶋氏、大神氏の三氏。宇佐氏は在地の氏族。辛嶋氏は渡来系氏族で、香春から豊前を経て、宇佐へ入ったとされる。大神氏は三輪山の祭祀氏族、大和から入ったとされる。
 宇佐の祭祀は、宇佐氏による三つの巨石を比売大神の顕現として祀る、御許山上の奥宮、大元(おおもと、大許)神社の信仰が原初であるとされる。

が、宇佐氏が最も古く奉斎した神は、宇佐神宮の祖宮ともされる中津の薦(こも)神社であったらしい。この社は、境内の御澄池を神体とする。伝承では池守として御澄池を奉斎した「佐知(さち)彦命」が、宇佐氏の祖「菟狭(うさ)津彦」と同神とされる。
 その薦(こも)神社に、香春に在った辛嶋氏が、豊前で示現した原八幡神の信仰を持ち込んだようである。辛嶋氏も薦神社の神官を務めたとされる。
 後に、辛嶋氏は宇佐、辛嶋郷に在って、稲積神社、乙JIS+7957神社、酒井泉神社、郡瀬神社、鷹居社、小山田社から現社地へと八幡神の祭祀を移し、8世紀の初頭、和銅期の辛嶋勝乙目の時代に栄えたとされる。
 応神信仰としての八幡神を示現したのは、 大神比義であるとされる。伝承では厩峯と菱形池の間に鍛冶翁が降り立ち、大神比義が祈ると3才童児となり、応神天皇であることを告げる。
 宇佐の大宮司職は大神比義の裔、大神氏が務めたが、後に宇佐氏が継承している。

 さて、問題の「比売大神」とは、宇佐氏の氏神(地主神)とも、香春から入った辛嶋氏が齎した神ともみえる。

 宇佐氏の祖、菟狭津彦は高皇産霊尊の子神ともされる「天三降命(あめのみくだり)」の裔とされる。天三降命は饒速日尊に従って天降った神。
 天三降命は宇佐に天降り、宇佐の氏神とされた。御許山の三つの巨石として現れたのは、天三降命が「三女神」であることを意味する。天三降命自体が宇佐神話に基づいて創られた神であるのかもしれない。

 また、菟狭津彦は神武天皇東征の折、駅館川の上流に一柱騰宮をつくり天皇を奉饗したという。宇佐の奥域、安心院(あじむ)の妻垣神社がその一柱騰宮とされる。
 妻垣神社の由緒では、安心院の地主神である比売大神を「玉依姫命」とする。妻垣山は太古、玉依姫命が降臨した地であり、宇佐神宮の二之御殿であるという。
 託宣集では妻垣山は比売大神の在所であり、記紀神話では神武天皇が、母である玉依姫命の神霊を妻垣山に祀ったとする。
 各地の八幡宮でも、比売大神を玉依姫命とする社は多く、とくに北部九州では、筥崎八幡宮や宇佐の本宮ともされる大分八幡宮など、主要な八幡宮で比売大神を玉依姫命とする。

 前述の中津の薦(こも)神社は、宇佐神宮と同じく、応神天皇と息長帯比売命、そして比売大神を祭神とする。宇佐の行幸会では香春の古宮八幡神社で鋳造された「銅鏡」と境内の御澄池に自生する「真薦(まこも)」を刈って作った御験、「薦枕」を神体として宇佐まで運ぶ。
 薦神社は古く宇佐氏が奉祭し、そこに香春に在った辛嶋氏が入っている。この二つの氏族が、宇佐の行幸会の二つの神体を生み出している。「真薦(まこも)」は宇佐の地主神の神体。「銅鏡」は香春の古宮八幡神社の比売神、金属(銅)精錬に纏わる豊比売命の神霊であった。(豊比JIS+7957命の系譜。参照)
 薦神社の神紋は一つ巴である。三つ巴の宇佐神宮に対する「祖宮」の意味であろうか。それとも宇佐神宮の比売大神とされる三女神の中の一人を祀るという意味であろうか。

 山国川の河口、中津の浜に闇無浜(くらなしはま)神社が在る。豊の産土神とされ豊日別国魂神社とも称する。祭神は豊日別国魂神と瀬織津姫神の二座。
 この闇無浜神社にも「銅鏡」の伝承が残る。豊日別宮傳紀によれば「豊」の守護は銅鏡であり「東方から白雲に乗り、日輪の像に照らされた女神が現れ、四隅を照し、恰も日中の如し。」と闇無浜(くらなしはま)の地名譚を伝える。
 前述の宇佐の放生会は、養老期の隼人の反乱鎮圧後、隼人の霊を慰めるために始められたという。香春の古宮八幡宮の銅鏡を宇佐に運ぶ途中、上毛、下毛郡の古表、古要神社での傀儡舞の奉納、隼人塚での供養儀礼などが行われる。
 これは銅鏡の奉納と、放生会という二つの儀式が複合したもの。銅鏡の奉納とは金属(銅)精錬に纏わる、香春の豊比JIS+7957命の神霊が、香春から宇佐へと移動した記憶を伝えるものであるとされる。
 豊比JIS+7957命とは「豊」の地主神とも。闇無浜神社の祭神、豊日別国魂神とは、香春に在った辛嶋氏によって、中津平野に齎された豊比JIS+7957命の神霊。香春の豊比JIS+7957命は中津平野において「豊」の国魂となる。

 前項「豊比JIS+7957命の系譜。」では、阿蘇の母神「蒲池比JIS+7957(かまち)」が筑後の水沼君の氏神となって、北野の赤司神社あたりで道主貴(ちぬしのむち)として祀られた豊比JIS+7957命に習合し、三女神の「田心姫命(たごり、多紀理毘売)」とも重なっていた。
 香春の古宮八幡宮は「阿曾隈(あそくま)」、阿蘇の神とも呼ばれ、蒲池比JIS+7957(かまち)は、宇土半島の金属精錬に纏わる神でもあった。
 この「比売神の連鎖」とも呼ばれるものは、蒲池比JIS+7957あたりに始まり、多くの女神が習合、離散して、有明沿岸の與止日女(よとひめ)、高良の玉垂媛、豊比JIS+7957命など、異名似体の比売神群を生んでいる。
 そして、神功皇后の妹神ともされて有明、高良、筑紫、香春と移植され、宇佐の「比売大神」に繋がっていた。

 闇無浜神社のもうひとりの祭神、瀬織津姫神は川神。川瀬に在って穢れを海へと流す神。筑前では瀬織津姫神は、肥前、川上の與止日女命とされていた。そして瀬織津姫神は、中央の祭祀思想から忌避された神とされる。瀬織津姫神の神名は消され、その名が復活するのは戦後のこと。
 この神は、今は山国川の河口に鎮座するが、元は山国川の川畔に築かれた中津城の城地に祀られていたという。
 宇佐氏の祖、菟狭津彦とされる薦(こも)神社の池守、佐知彦命が山国川の畔の「佐知」の里に在った。そして、薦神社の神体とされる御澄池は、山国川の古い河跡地塘(かせきちとう)であった。宇佐の行幸会の神体、「銅鏡」が豊比JIS+7957命の神霊であれば、御澄池の「真薦(まこも)」とは、瀬織津姫神の化身であろうか。
 山国川の川神、瀬織津姫神は古く、宇佐氏が祀る神であった。瀬織津姫神は、宗像三女神の「湍津姫命(たぎつ、多岐都比売)」ともされる。「たぎつ」とは「滾(たぎ)つ」。水が激しく流れるの意。宇佐氏が祀る山国川の川神は、湍津姫命として三女神に重なっている。

 宇佐氏の故地のひとつともされる安心院の北の台に「三女神社」が鎮座する。この社の由緒は、「三女神が降った宇佐嶋とはこの地であるとされ、菟狭津彦、菟狭津媛は水沼君が祀る三女神を祖神とし、この地に鎮座する。」という。やはり、境内に三基の石柱があり、三女神降臨の依代であるとしている。
 が、ここの古い鳥居の扁額は「二女神社」となっていた。どういうことであろう。元は二女神社として二人の比売神を祀っていたのであろうか。
 また、神紋が「巴」ではなく「桜」であった。宇佐の地主神ともみえる瀬織津姫神が桜神であった。宇佐氏が祀る比売神は、この瀬織津姫神と妻垣の玉依姫命の二神。元は、この二人の比売神を祀ることで、「二女神社」であったということか。

 そして、半島渡来の辛嶋氏の氏神が、香春一ノ岳の神「辛国息長大姫大目命」であった。「辛国」は韓の国。豊前国風土記によると、昔、新羅の国の神が海を渡って河原に住んだとする。
 辛国息長大姫大目命は、国東、姫島の比売語曽(ひめこそ)神社に鎮座する「阿加流比売(あかるひめ)」であるとも。阿加流比売は、日本書紀では意富加羅国王の子、都怒我阿羅斯等が追ってきた白石の化生である童女。古事記では新羅の王子、天日矛(あめのひぼこ)の逃げた妻。日光感精で産まれた卵生神話をもつ赤玉の化生。
 三女神の市杵島姫命(市寸嶋比売)が、秦氏の氏神として京都の「松尾大社」に祀られる。辛嶋氏は秦氏の一族とされる。辛嶋氏の氏神、半島渡来の阿加流比売神は「市杵島姫命(市寸嶋比売)」とされたのであろうか。
 国東半島の南岸、奈多に宇佐神宮の別宮とされる奈多八幡宮が鎮座する。沖合の「市杵島」と呼ばれる岩礁を元宮とし、比売大神が示現した地であるとする。この宮では比売大神は、市杵島姫命とされる。

 宇佐神宮の由緒が述べる、比売大神を宗像三女神とする所以とは、八幡神の示現以前に宇佐あたりで祀られた比売神たちが、糾合された結果であろうか。
 
日本書紀に「三の女神を以ては、葦原中国の宇佐島に降り居さしむ。今、海の北の道の中に在す。」とあり、三女神は最初、宇佐に降り立っている。
 
摂津の比売許曽社では、阿加流比売を大国主命と田心姫命との女(むすめ)、「下照比売命」として、豊葦原中ツ国の平定神話に繋いでいる。ホツマツタヱでは、下照比売命は天照大神の妹とされる。

 大和の神祇氏族、大三輪氏の大神比義は、宇佐へ国家神ともみえる応神天皇と神功皇后の神霊を持ち込み、比売大神はその二神の神霊に挟まれて、結界の中に在るともみえる。

八幡神社は、八幡宮とも呼ばれ、主に、神道において応神天皇の神霊とされる八幡神を祀っている。八幡神社は末社を含むと、全国で4万社以上あるともいわれ、大分県宇佐市にある宇佐八幡(正式には宇佐神宮)が総本社だ。 八幡神は、東大寺の大仏造立の際、その守護神として勧請され、はるばる北九州から奈良へとやって来られた。八幡神が遠出されるのはこれが初めてのこと。そのときの様子を、『続日本紀』はおよそ次のように伝えている。

―749年11月19日、大仏完成擁護の神託を奉じた八幡神は、宇佐から平城京へと向かった。同24日、孝謙天皇は石川朝臣年足(いしかわのあそんとしたり)、藤原朝臣魚名(うおな)等の重臣を迎神使として派遣。路次の諸国から兵士100人以上を出させて道中警護し、八幡神が通過する国では殺生を禁じた。また八幡神の入京に従う人への給仕には酒や肉を用いず、道路は掃き清められた。
大仏鋳造直後の12月18日、八幡神は平群郡(現在の大和郡山市南部)から入京する。平城京の南、梨原宮(なしはらのみや)において神殿を造って神宮とし、八幡神を迎え祀った。僧侶40人を招き、悔過の行を7日間行った。同27日、天皇の乗り物と同じ紫色の輿に乗った八幡神とお供の禰宜尼・大神朝臣杜女(おおみわのあそんもりめ)は、東大寺へ向かう。そして、大勢の僧侶や文武百官らが出迎える中、転害門をくぐった。

入京する際、八幡神が立ち寄った「梨原」は、かつて広大な薬園があったとされる地だ。東大寺へと向かう際、八幡神の分霊をこの地の神殿にとどめて祀ったとされ、それが薬園八幡神社の創始といわれる

『薬園八幡神社略記』
 当社の創建は奈良朝孝謙天皇代の天平勝宝元年であって、千二百五十八年前(平成十九年現在)のいにしえに遡る。『続日本紀』に詳述のとおり、藤原広嗣の乱の平定と聖武天皇の病気平癒の祈願に、さらに大仏造顕に協力する神として、宇佐の八幡大神はあらたかな霊験を現され、その絶対的神威は中央第一の神として朝廷の厚い崇敬をうけるに至った。  七四九年七月孝謙女帝が即位、年号は改まって天平勝宝となったこの年の十一月、大仏完成擁護の神託を奉じた八幡大神は宇佐から都に向われ、天皇は石川朝臣年足、藤原魚名等の重臣を迎神使として遣わされて、十二月平城宮の南、梨原の薬園新宮内に設けた神殿に迎え祀られる。梨原の地はもと広大な薬園のあったところで、新宮の名もこれに因む。そしてここより東大寺へ遷座の際、八幡大神の御分霊をこの新宮内の神殿に留めて奉斎し、由緒ある薬園の地名を冠して命名されたのが、すなわち当社の創始であり、由緒またこれより生まれる。こうして翌二年九月今の御旅所の地清澄荘薬園に遷座され、時移り延徳三年に至って現社地の南薬園に鎮座せられたのである。

大神比義 宇佐大神氏の祖。
欽名天皇29年(568),蘇我馬子は仏教と融合した原始八幡と帰化人勢力を利用するために,大神比義を宇佐に下す。比義は菱形山に八幡大神を祀り,地場の神官宇佐氏と争って勝ち,宇佐八幡の祀官の祖となる。この比義の系統で速見の大神郷に住みついた一族が豊後速見の大神氏であり,豊前宇佐郷に留まったのが宇佐大神氏である
欽明(きんめい)天皇29年(568)豊前(ぶぜん)宇佐郡(大分県)馬城嶺(まきみね)に大菩薩(だいぼさつ)となって出現した応神天皇の魂を,鷹居八幡神社(宇佐市)を建立してまつったという。名は比岐ともかく。
豊後の大神氏
大野郡は,三重郷,緒方郷,宇目郷,井田郷の4郷から成り立っている。豊後国の南西部に位置する。西の阿蘇山と東の国府である古国府(ふるごう)の中間に位置し,中央を大野川が流れる。
大野の大神氏は『豊後の大神氏』と呼ばれ,この一族こそが,緒方一族37家の先祖である。

宇佐神宮の創建 725年

御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地に ご示顕になったといわれます。応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた方です。725年(神亀2年)、現在の地に御殿を造立し、八幡神をお祀りされました。これが宇佐神宮の創建です。
宇佐の地は畿内や出雲と同様に早くから開けたところで、神代に比売大神が宇佐嶋にご降臨されたと『日本書紀』に記されています。比売大神様は八幡さまが現われる以前の古い神、地主神として祀られ崇敬されてきました。八幡神が祀られた6年後の731年(天平3年)に神託により二之御殿が造立され、宇佐の国造は、比売大神をお祀りしました。

 古文献によれば、宇佐神宮ははじめ単に八幡社・八幡宮などといって「宇佐」の地名はついていない。それが、のちに石清水八幡宮が勧請されてから、それと区別する必要上、やがて宇佐八幡宮と呼ばれるようになった。また、八幡の文字は奈良時代ヤハタと読んでおり、ハチマンと音読するようになるのは平安時代以後のことであって、八幡神はもとヤハタ神であった。しかし、ヤハタ神とは何かとなると、諸説あるが未だ詳らかではない。

社伝等によれば、欽明天皇32年(571年?)、宇佐郡厩峯と菱形池の間に鍛冶翁(かじおう)降り立ち、大神比義(おおがのひき)が祈ると三才童児となり、「我は、譽田天皇廣幡八幡麻呂(註:応神天皇のこと)、護国霊験の大菩薩」と託宣があったとある

法蓮
「香春岳」で修行。新羅系仏教学ぶ。
太宰府から飛鳥に派遣される。
660年以降に唐から帰国した飛鳥の元興寺の道昭に師事。法相宗の弥勒信仰を学び官僧になる。
宇佐に帰国後、683-700年頃に虚空蔵寺を開く(託宣集)。法隆寺式伽藍配置
彦山中心に豊前・豊後・筑前に49院の弥勒菩薩霊場を開く。
大宝3年(703)仏教の普及と医術による貢献により朝廷から豊前国の野40町賜る。(続紀)
養老5年(722)沙門法蓮の三等親以上の者に宇佐君姓を賜る。(続紀)
8世紀初頭の宇佐八幡宮の有力な豊前の巫僧。国東六郷満山の仏教開発者。
鎮西彦山縁起:彦山修験の中興の祖。彦山は魏国僧「善正」が継体5年に開き、忍辱が後を継いだ。その後荒れた。その後法蓮が忍辱の教えを復興し衆徒千人となった。
八幡大神と小倉山の地主神「北辰」との話
八幡大神:自分はここに住んであなたと一緒に人々の利益をはかりたいがどうであろう。
北辰:西方に山があってその山の彦山権現は岩窟に玉を埋め一方の金剛童子に守護させている。その玉を求めてきて人々を窮乏から救いなさい。

秦氏・辛島氏・大神氏・宇佐氏の紛争の調停役となり、大神比義と一緒になって712年の官社設立に貢献したとの説あり。

道昭(629-700)

出自:河内国丹比郡 船連出身 父:恵釈(尺)
653年遣唐使。法相宗。660年帰朝。法興寺住。師:玄奘(三蔵法師)
日本法相教祖。

行教(?-?)
出自:父は山城守 紀魚弼 仁和寺益信は兄弟。石清水八幡宮別当紀安宗の叔父。
大安寺の僧。859年宇佐八幡宮から3神を分霊し、石清水八幡宮を創建。
師:行表
 
大安寺関係
聖徳太子時代に「熊凝寺」創建。622年聖徳太子は死に臨みこれを大寺とすることを田村皇子に頼んだ。 
639年百済大寺を創建。日本初の官立寺。
677年高市大寺を大官大寺と改める。
716年大官大寺を平城京に移す。
729年道慈が大安寺の造営に関与。
745年大官大寺を大安寺に改名。南都七大寺の一つ。
829年空海が別当となる。
859年八幡宮が勧請される。

応神八幡神は、隼人征伐の功により725年官社に列し、国費で造営が行われ、731年官幣にあず かった。官社八幡宮になると、宇佐、大神氏の神宮寺を合併して弥勒寺が建立された。 これはわが国において、神仏が一体となって一つの社寺を形成した宮寺様式の最初のものであ る、 746年聖武天皇は不予の祈祷のため、八幡神を三位に叙し、封戸4百戸、度僧五一〇口、水田二 〇町を施入された。翌七四七年宇佐八幡は聖武天皇の大仏造立を援助して、七四九年八幡大神 禰宜大神社女は、従五位下、主神司大神田麻呂は、従八位下大神朝臣の政を賜った。この年八 幡神は奈良に勧請され、手向山八幡宮が造営された。ついで、辛島与曾女を禰宜、宇佐公池守 を神宮司に任じ、大神は一品、比売神は二品に叙せられた。
辛島氏が属する秦氏は、鍛冶の技術をもち、豊前香春には採銅所という地名も残っているこ とから、大仏鋳造の技術面で功績を上げたのであろう。 754年に意外な事件が起こった。大神田麻呂が薬師寺の僧行信と厭魅(妖術で人を呪うこと)した という理由で種子島に流され、大神社女も日向に流され翌年封戸は国に返上された。ここで大神 氏は、一時失脚し、かわって宇佐氏が台頭することとなった。
769年、宇佐氏は封戸を増やし、比売神宮寺を建てた。これらには道鏡が関係していたらしい。し かし、まもなく道鏡の天位神託事件が起こり、和気清麻呂が道鏡の野望を抑えた。
清麻呂は、豊前守に任命されて、八幡宮内の神官の粛清を行った。

宇佐氏口伝(宇佐公康著):神武東征の時夫菟狭津彦が神武に自分の妻である菟狭津媛を妃として差し出した。この間に産まれたのが宇佐都臣命である。神武はその後媛を連れて安芸国の厳島に行き、ここで御諸別命が産まれた。媛も神武も厳島で没した。

宇佐氏口伝:記紀では中臣氏祖の天種子命の子供とされている宇佐都臣命が宇佐系図の稚屋と同一人物である。越智氏の娘を略奪して妻とした。その子供押人が後の真の応神天皇である。
宇佐系図で押人となっている人物が大和に入り応神天皇となった人物である。神武天皇の兄が景行天皇である。景行天皇が神武天皇の遺志を継ぎ東征をする。
子供は成務天皇である。成務には子供がなく景行天皇の子供であるヤマトタケルの子供である仲哀天皇がその後を嗣ぐが筑紫で没す。仲哀と大中津媛との間に産まれていた香坂王・忍熊王が皇位は自分らにあることを主張して乱を起こした。これを平定したのは御諸別である。そして仲哀の後の天皇として押人即ち真の応神天皇が即位したのである。宇佐氏はこの押人の宇佐での子供珠敷の子孫がこれを嗣いだ。