脱解王 昔氏始祖伝説

『阿珍浦伝説』民間伝承1
 昔、倭国の東北千里に多婆那国があって、またの名前を龍城国とも言った。国王の名前を含達婆といい、女王国の女を王妃としていた。その王妃は妊娠から7年目にして大きな卵を産んだ。国王は怪しいと思って、それを捨てさせた。

 王妃は絹布で卵を包み、櫃の中に入れて船で海に流し「有縁の地に到り、国を建て、家を成しなさい」と祝福して別れを告げた。
 その船は阿珍浦(慶州郡陽南羅児里)に流れ着いた。その地の老婆が空を見上げると、鵲(かささぎ)が盛んに鳴きながら飛んで来たので、何故かと思って行ってみると、船の中に子供を見つけた。その子供を大切に育てると、人々が尊敬するような人物になった。
 鵲の飛鳴によって発見したので、鵲の字の鳥を除いた字である「昔」を姓とした。また、老婆が櫃(ひつ)を解いて出現したので名前を「脱解」とした。
 その賢名を聞いた朴氏第二世の南解王は、彼を婿に迎え、朴氏第三世の儒里王が崩御した後、遺言によって新羅国の第四代の王となった。

『阿珍浦伝説』民間伝承2
 赫居世の子、南解王の時代のこと。
 下西知村の阿珍浦という海辺の近くに阿珍義先という名の老婆が住んでいた。彼女は王に魚を献上する役目の漁師の母だった。ある日、その老婆が海辺に行くと、大きな岩があり、その上に無数の鵲(カササギ)が群れていた。老婆が不思議に思って岩に近づいてみると、岩に見えたのは大きな船で、その船には長さ二十尺、幅十三尺の箱が一つ置いてあった。
 そこで、その船を曳航して林の木につなぎ、なにが入っているのか不安なので天にお祈りをしてから開けてみた。なんと箱の中には綺麗な男の子と、彼の召使や様々な宝物が満載になっていた。
 男の子の話では「私は龍城国の王子で、龍城国はここから遙かに遠い日本の北東一千里にあります。私の国には二十八人の龍王がおり、みんな人間から産まれましたが、幼少時から王位を継ぎ、万民を導きます。八つの官位があり、みんなが王位に登れます。
 私の父である含達婆王は積女国の姫を妃に迎えましたが、長い間、子供が授からず、子宝に恵まれるようにと祈願しました。そして、七年後に母は大きな卵を一つ産みました。私はそこから生まれたのです。
 父王は群臣を集めて相談し、人が卵を産むなど不吉なことだと言って、箱を作って、その中に私と召使と様々な宝を入れ、それを船に積んで海に流しました。その際、どこか因縁のある場所に行って、自分の国を建てなさいと言いました。すると突然、赤い龍が現れて船を護衛し、ここに流れ着いたのです」と言った。
 男の子は脱解と名乗った(一説では、箱を解き、卵の殻を脱したことに由来する)。
 そして、話し終えると、脱解は杖をついて二人の召使を引き連れ、吐含山に登り、そこに石塚を作って、七日間暮らしながら、自分の住むに相応しい場所を物色していた。ある峰を見ると、そこは三日月の形をしており、家運が栄える地勢だった。けれども、そこには既に瓠公の家があった。
 瓠公という人物は赫居世の時代から王に仕える重臣で、噂では日本人だと言われていた。その血筋や素性はまるで分からないが、瓠(ヒョウタン)を腰に下げて海を渡ってきたので「瓠公」と呼ばれるようになった。
 脱解は一計を案じ、ある夜、瓠公の家の側に内緒で砥石と炭を埋めた。そして、夜が明けると、その家の前で「ここは私の祖先の家です。私が住むべき家です。早く出て行ってください」と騒いだ。当然、瓠公は「違う、ここは私の家だ」と反論した。
 口論になり、「出る所に出て話を着けよう」ということになり、役所に訴えたので、役人は脱解に訊いた。
「お前は、どんな根拠があって、ここがお前の家だと言うのだ」
「私の家は以前は鍛冶屋でしたが、しばらく隣村に行っている間に、なんとしたことか他人に家を盗られたのです。ここを掘ってみてください」と言った。
 役人が言われた場所を掘ってみると、砥石と炭が出てきた。
「見て下さい。これが、ここが元々鍛冶屋であった証拠です」
 役人は、これを証拠として瓠公の方が家泥棒だと判決したので、まんまと脱解は瓠公の家屋敷を奪ってしまった。
 このように脱解はとんでもない詐欺師だったが、何故かこの当時は「素晴らしい知恵者」として評判になったようで、彼の評判を聞きつけた南解王が、彼を自分の長女の婿に迎え、大輔(宰相)の位を与えたのである。
 南海王の死後、王の子の弩禮(儒理)が王位を継いだが、彼は「自分より脱解の方が優れている」と言って、執拗に王位を譲ろうとし、自分が死ぬときには「自分の子よりも脱解の方が優れている。だから脱解を次の王にせよ」と遺言した。
 そんなことから、弩禮王が亡くなると、脱解が第四代の新羅王に就いたとされる。それは今を去ること西暦五十七年のことである。
 姓は「昔」と定めた。「昔、人の家を奪ったから」あるいは「鵲のおかげで箱が発見されたのだから、鵲の字から取って、昔姓にしたのだ」とも言われる。
 脱解は治世23年に亡くなったが、それから二十七代目に当たる王のときのこと。
 王の夢に厳めしい老人が現れ、自分は脱解と名乗り、「余の遺骨を掘り出して塑像にし、吐含山に安置せよ」と命じた。言葉に従って、掘り出された遺骨は分散しておらず、完全な形を保っており、立派だった。遺骨を砕いて作られた塑像は山に安置され、脱解は東岳神と呼ばれて祀られるようになった。

『三国遺事』脱解王
 脫解齒叱今(一作吐解尼師今)。南解王時、駕洛國海中有船來泊。其國首露王與臣民鼓譟而迎。將欲留之、而舡乃飛走、至於雞林東下西知村阿珍浦(今有上西知下西知村名)。
 脱解歯叱今(吐解尼師今とも)。
 南解王の時代①、駕洛国の海中に来泊する船があった。その国の首露王と臣民は大騒ぎで迎えた。まさにこれを係留しようとすると、船は飛ぶように走り去り、雞林の東の下西知村阿珍浦(今、上西知、下西知の村名あり)に到着した。

 時浦邊有一嫗、名阿珍義先、乃赫居王之海尺之母。望之謂曰:此海中元無石嵒。何因鵲集而鳴。孥舡尋之。鵲集一舡上。舡中有一櫝子。長二十尺。廣十三尺。曳其船置於一樹林下。
 その時、海辺に一人の老婆がおり、名は阿珍義先。赫居王の海尺の母。これを望んで曰く「この海中には元より岩石はないはず。どうして鵲が集って鳴いているのだろう」。小舟でこれを探した。鵲が一艘の船の上に群れていた。船中には一つの棺があった。長さ二十尺。幅は十三尺。その船を曳いて樹林の一本の下に置いた。

 而未知凶乎吉乎。向天而誓爾俄而乃開見。有端正男子并七寶奴婢滿載其中。供給七日、廼言曰。我本龍城國人(亦云正明國。或云[王+完]夏國、[王+完]夏、或作花廈國。龍城在倭東北一千里)。我國嘗有二十八龍王從人胎而生。自五歲六歲繼登王位。教萬民修正性命。而有八品姓骨。然無棟擇。皆登大位。
 しかし、凶吉が定かではないので、天に向かって急いで祈りを捧げて、棺を開けて見た。その中には端正な男子がおり、一緒に七宝や奴婢が満載だった。飲食物を与えること七日、初めて言うには「私は本来は龍城国の人(または正明国という。あるいは[王+完]夏国、[王+完]夏、あるいは花廈国ともする。龍城は倭の東北一千里に在る)。我が国ではかつて二十八人の龍王が人の胎内から生まれ、自ら五~六歳で王位を継承し、万民に正しい生き方を修めさせた。而して八品の貴姓があるが、競い合うことなく、皆が王位に登った。

 時我父王含達婆娉積女國王女為妃。久無子胤、禱祀求息。七年後產一大卵。於是大王會問群臣。人而生卵、古今未有、殆非吉祥。乃造樻置我、并七寶奴婢載於舡中。浮海而祝曰:任到有緣之地、立國成家。便有赤龍護舡而至此矣。言訖。
 時に我が父王の含達婆は麗しい積女国王の娘を妃としたが、長らく継嗣がなく、祈願して息子を求めた。七年後、(妃は)一個の大卵を産む。ここに大王は群臣を会して問うた。人にして卵を生むなど古今に未だ例のないことであり、おそらく吉祥ではあるまい。
 そこで、棺を造って私を中に容れ、七宝や奴婢と一緒に船に載せた。船を海に浮かべると、有縁の地に到着し、国家を立てよと祈念した。都合よく赤龍が現れ、船を護ってここに至ったのである」。言い終わった。

 其童子曳杖率二奴登吐含山上作石塚。留七日。望城中可居之地。見一峰如三日月。勢可久之地。乃下尋之。即瓠公宅也。乃設詭計。潛埋礪炭於其側。詰朝至門云。此是吾祖代家屋。
 その童子は杖をつき、二人の奴僕を連れて吐含山の上に登って石塚を作った。留まること七日。(山上から)城中に居住すべき土地を(探して)展望すると、三日月のような霊峰を見つけた。永住すべき地勢だった。下山してこの地を訪れた。すなわち瓠公の居宅である。そこで、詭計を考案した。その家の側に砥石と炭を埋め、朝になって門で詰問して言うには「ここは吾が祖の代の家屋である」。

 瓠公云否。爭訟不決。乃告于官。官曰:以何驗是汝家。童曰:我本治匠乍出鄰鄉。而人取居之。請堀地檢看。從之。果得礪炭。乃取而居為。
 瓠公は否定した。争訟が決着できない。そこで、裁判官に告げた。裁判官が曰く「どんな証拠があって自分の家だというのか」。童子が曰く「私は元は鍛冶屋でしたが、少し隣郷に行っていたところ、他人に家を獲られたのです。土を掘って検証してください」。
 これに応じたところ、果して砥石と炭がでてきた。そこで、家を取り上げて住居とした。

 時南解王知脫解是智人。以長公主妻之。是為阿尼夫人。一日吐解登東岳。迴程次令白衣索水飲之。白衣汲水。中路先嘗而進。其角盃貼於口不解。因而嘖之。白衣誓曰。爾後若近遙不敢先嘗。然後乃解。自此白衣讋服。不敢欺罔。今東岳中有一井。俗云遙乃井是也。
 時に、南解王は脱解が賢者だと知り、長女を彼の妻にした。これを阿尼夫人と為す。ある日、吐解は東岳に登った。帰路、次令の白衣に飲み水を探させた。白衣は水を汲んだ。途中で先に飲んでから進もうとしたところ、角盃が口に貼り付いて外れなくなり、鳥のような舌打ちの鳴き声をあげた。白衣が誓って「爾後、遠近に関わらず敢えて先に口にすることはしません」と言った。然る後、これが外れた。これより白衣は畏服し、敢えて欺網することはなかった。今、東岳の中に一つの井戸がある。世俗では遙な井戸はこれだという。

 及弩禮王崩。以光虎帝中元六年丁巳六月。乃登王位。以昔是吾家取他人家故。因姓昔氏。或云。因鵲開樻。故去鳥字姓昔氏。解樻脫卵而生。故因名脫解。在位二十三年。建初四年己。
 弩禮王が崩じた。光虎帝の建武中元六年(56年)丁巳の六月、王位に登った。
 昔、これは我が家だと言って、他人の家を取った故に、姓を昔氏とする。あるいは言う、鵲が原因で棺を開いた故に、鳥の字を省略して姓を昔氏とした。棺を解いて卵から脱け出して生まれた故に、名を脱解とした。在位二十三年。建初四年(79年)に死んだ。