文字も記録もあるが、異説が多いので 調べて記す。
646年 大化の改新
- それまでの豪族の私地(田荘)や私民(部民)を公収して田地や民はすべて天皇のものとする。(公地公民制)
- 今まであった国(くに)、郡(こおり)、県(あがた)、県(こおり)などを整理し、令制国とそれに付随する郡に整備しなおした(国郡制度)。国郡制度に関しては、旧来の豪族の勢力圏であった国や県(あがた)などを整備し直し、現在の令制国の姿に整えられていった。
- 戸籍と計帳を作成し、公地を公民に貸し与える。(班田収授の法)
- 公民に税や労役を負担させる制度の改革。(租・庸・調)
天武十三年末に八色姓制定。
659年 出雲大社の修造
659年(斉明天皇5年)、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。(『日本書紀』)
伝承の内容や大社の呼び名は様々であるが、共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえる。また、出雲大社の社伝においては、垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営とされている。
斉明紀五年の記事 「この歳、出雲国造 名をもらせり。に命じて、神の宮を修り厳ヨソはしむ」とあ ります。しかしこの記事は、従来から、皇孫の建王がものを言えないことから、 垂仁皇子の誉津別命の記紀や出雲風土記の記事と重ねて、その平癒祈願の為と解 釈されています。
記事はつづけて「狐、於友(意宇)郡の役丁の執れる葛の末を噛ひ断 ちて去りぬ。又、狗、死人の手臂タダムキ を言屋社に噛ひ置けり」とあって、意宇 郡の熊野神社の記事とみなされ、出雲郡杵築の出雲大社ではない。出雲国造は、当時はまだ意宇郡に居たことがわかっています。 出雲国造が意宇郡大領を兼任して出雲郡の杵築へ移住したのは、文武朝の慶雲三 年(706) の26世出雲国造兼連のときでした。出雲国造が兼任した意宇郡大領を解 かれたのは、桓武朝になってからですから、約九十年後のことです。
文武二(698) 年の三月「筑前国宗形と出雲国の意宇の両郡の郡司は、共に三等身以上の 親族を続けて任用することを許す」と詔があり、翌日には諸国の郡司を任命し、 「諸国の国司は、郡司の選考に偏りがあってはいけない。郡司もその職にあると きは、必ず法の定めに従え。これより以後このことに違背してはならぬ」とされ ましたから、出雲に特例が認められたのです。
大宝二年(702) 急使によって各地の 国造が藤原京に召集され、とんでもないことが言い渡されました。新に制定され た大宝律令の領布とともに、「諸国国造の氏を定め、その名を国造記に詳しく載 せる」とされ、しかもそれまで国造の権限下にあった官倉の鎰カギ も、やがて中 央から派遣する国司に委譲せよ、というものでした。そして、出雲国造の名が意宇氏から出雲臣になった。
貴族の出雲国司、正五位下忌部宿禰子首が着任したのは、 それから二年後の元明女帝和銅元年(708) はじめでした。
660年 百済滅亡と百済復興運動
660年、唐の蘇定方将軍の軍が山東半島から海を渡って百済に上陸し、百済王都を占領した。義慈王は熊津に逃れたが間もなく降伏して百済人は新羅および渤海や靺鞨へ逃げ、百済は滅亡した。唐は百済の領域に都督府を設置して直接支配を図るが、唐軍の主力が帰国すると鬼室福信や黒歯常之、僧道琛(どうちん)などの百済遺臣の反乱を抑え切れなかった。また百済滅亡を知った倭国でも、百済復興を全面的に支援することを決定し、倭国に人質として滞在していた百済王子・扶余豊璋を急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣し、斉明天皇は筑紫国朝倉橘広庭宮に遷った。
663年 白村江の戦い
帰国した豊璋は百済王に推戴されたが、実権を握る鬼室福信と対立し、遂にこれを殺害するという内紛が起きた。やがて唐本国から劉仁軌の率いる唐の増援軍が到着し、663年倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦に及んだ(白村江の戦い)。
これに大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結させ、亡命を希望する百済貴族を伴って帰国させた。豊璋は密かに高句麗に逃れた。しかし、高句麗もまた668年に唐の軍門に降ることになる。
671-2年 壬申の乱、天武天皇即位
・6月1日、美濃国の安八麿郡の湯沐令(ゆのうながし)「多臣品治(おおのおみ・ほむじ)」に出兵を要請する。
・24日、吉野から東国に向けて出発する。従者は草壁皇子・忍壁皇子・朴井雄君・縣犬養大伴など20余名、女子供10余名であった。宇陀・名張・伊賀・柘植・鈴鹿・三重などを経て26日に朝明に至り、天照大神を望拝する。その間に高市皇子と大津皇子が合流した。
一方、近江京の大友皇子は「速やかに大海人皇子を追跡するべきです」という臣下の意見に取り合わず、韋那公磐鍬らを東国に派遣し、穂積百足らを倭京に派遣した。また、佐伯男を筑紫大宰へ、樟磐手を吉備国へ使者として送った。しかし筑紫の大宰である栗隈王も、吉備の国司である当麻公広島もともに援軍の派遣を拒んだ。
・27日、不破の郡衙に到着。この時、尾張国司・小子部連サヒチが2万の兵を引き連れて合流。ここに「不破宮」を造る。
・29日、大伴吹負を将軍とし、乃楽(なら)に向かう。
・7月2日、多臣品治らを指揮官として数万の衆を倭に向かわせ、村国男依らを指揮官として数万の衆を近江に向かわせる。
このあと「乃楽山の戦い」「倉歴の戦い」「息長横河の戦い」「安川浜の戦い」そして「瀬田の戦い」により、近江朝廷軍を打ち破り、大友皇子は自死する。その後、近江軍の犬養五十君や壱岐韓国ら残党の反撃もあったが、戦乱は終息する。
672年 郭務宗
・郭務宗…唐の使節で位は朝散大夫(文官)。前年の11月2日に白村江の戦いで捕虜になっていた筑紫君薩野馬らと共に来たようである。その後翌年の3月末までいた。
685年 伊勢神宮 式年遷宮
- 天武天皇14年(685年)、式年遷宮の制を制定。
- 持統天皇4年(690年)、第1回内宮式年遷宮。持統天皇6年(692年)、第1回外宮式年遷宮。
- 和銅2年(709年)、第2回内宮式年遷宮。和銅4年(711年)、第2回外宮式年遷宮。
- 和銅5年(712年)1月28日、『古事記』完成。
694年 藤原京
持統天皇4年(690年)に着工し、4年後(694年)に飛鳥浄御原宮から宮を遷した。実際の建設は、その後の研究により、すでに天武天皇5年(676年)には開始され(これを倭京と呼ぶ)、宮都が完成したのは遷宮から10年も経った慶雲元年(704年)とも言われ、着工から28年が経過したことになる。以来、宮には持統・文武・元明の三代にわたって居住した。
飛鳥浄御原宮は倭京最後の宮室で、重要な位置を占め、672年 から694年までの天武 ・持統二代の宮室である。 一般的には宮号は遷宮の前後に命名されるが、浄御原
宮 は遷宮14年 後の686(朱 鳥元)年 に命名 されて異例 に遅 い。 また宮号 は一般 にそ の地 名 に よる ことが多いが、浄御原宮 という宮号は地名によらず、一種の嘉号である。浄御原宮の宮号以前に地名による通称が行われていたことが想定され、686年 における飛鳥浄御原宮という宮号命名は、天武天皇が重病で、その原因 と考えられた草薙の剣の崇りを祓い清めるために、朱鳥建元とともになされた ことであ る。
694年(持統8年)に正式に宮の遷された本格的な都城である藤原京は『日本書紀』では「新益京」(あらましのみやこ)と記されているが、『日本書紀』にはそれに先だって「倭京」の名がみえ、その景観なども記されており、とくに壬申の乱における「倭京攻防戦」の記述などから、岸俊男は藤原京(新益京)に先だった条坊制都城としての「倭京」(新益京からみれば旧都)があった可能性を指摘している。
720年 日本書紀の完成
舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。なお『日本書紀』によれば、推古天皇28年(620年)に聖徳太子や蘇我馬子に編纂されたとされる『天皇記』・『国記』の方がより古い史書であるが、皇極天皇4年(645年)の乙巳(いつし)の変とともに焼失した。
大宰府の造営と九州年号
日本書紀の白雉元年は650年だが、九州年号では652年であり2年ずれている。同様に日本書紀の大化元年は645年だが、九州年号の常色元年は647年であるのでやはり2年ずれている。倭京たる第1期大宰府関連の記事を2年後にずらすと以下のようになる。
641年命長2年 倭京たる大宰府と観世音寺の造営が始まる。
644年命長5年 川原寺造営
646年命長7年 蘇我蝦夷、蘇我入鹿へ生前譲位
647年常色元年 倭京へ遷都、蘇我蝦夷崩御
648年常色2年 改新の詔
649年常色3年 八省十師の設置 (海東諸国紀)
倭京が大宰府だと仮定すると当然倭京の完成に伴い年号も倭京に改元される。よって、年表は以下のようになる。
641年命長2年 倭京たる大宰府と観世音寺の造営が始まる。
644年命長5年 川原寺造営
646年命長7年 蘇我蝦夷、蘇我入鹿へ生前譲位
647年倭京元年 倭京(大宰府)へ遷都、蘇我蝦夷崩御
648年倭京2年 改新の詔
649年倭京3年 八省十師の設置 (海東諸国紀)
異説 九州王朝の倭京
「蘇我蝦夷は上宮聖徳法皇たる山背大兄王を追放して天皇になっている。蘇我蝦夷は自分の死後、子孫が代々天皇として国を治め、仏教は護国仏教として発展していくことを願い倭京と近畿の仏教の要として川原寺を建てた」