難波津、住吉津、難波宮、住吉大社、茨田堤

難波津 (なにわつ、旧:なにはつ)
古代大阪湾に存在した港湾施設の名称である。現在の大阪市中央区付近に位置していたと考えられている。

河内湾の入り口は堆積した土砂で埋まり数条の砂州となり(天満砂州)、2世紀から3世紀にかけて、河内湾は完全に瀬戸内海から切り離されて草香江と呼ばれる湖となった(河内湖)。古墳時代に入ると、人々は水運の利便性を考えて瀬戸内海と河内湖の間に運河を掘削し、これを難波堀江(なにわのほりえ)と名付けた。河内湖の最奥部の生駒山麓には草香津と呼ばれる港湾施設があり、瀬戸内海から難波堀江を通過して河内湖に入った船は、そのまま東進して草香津に向かった。また難波堀江の途中の、砂州と砂州の間にできていた潟湖にも港湾施設が建設された。これが難波津である。

また難波津の東、上町台地の先端からは16棟もの倉庫群の遺構が発掘されており、難波津が当時の物流の一大拠点であったことが明らかになっている。なお、文献史料には「難波館(なにわのむろつみ)」と呼ばれる商館の存在も示されているが、こちらの遺構はいまだ発見されていない。

難波津が、具体的に現在の大阪市のどのあたりに位置していたのか、長い間論争が続いている。現在では、有力なものとして中央区三津寺町付近とする千田稔の説と、同じく中央区高麗橋付近とする日下雅義の説がある。前者の三津寺説は、同寺にまつわる伝承や「三津寺」「堀江」などの名称に根拠を置くものであるが、今のところ、現在の心斎橋筋付近で古代の港湾遺構が発見されていないのが弱点となっている。他方、高麗橋説については考古学的な傍証の例が豊富で、近年では、上町台地北端部の西斜面から麓にかけて、古墳時代から奈良時代、さらに室町時代に至るさまざまな時代の港湾関係の遺構が集中的に見つかっていることから、上町台地北端部西麓にあたる現在の東横堀川・高麗橋周辺が、歴史上の難波津として最有力な地点ではないかと広く考えられるようになっている。

住吉大神が「吾が和魂をば大津の渟名倉の長狭に居け。」と託宣した。

住吉津

雄略天皇の時代に呉の国から漢織(アヤハトリ)、呉織(クレハトリ)、衣縫兄媛弟媛らを伴って住吉津についたとの伝承があります。仁徳天皇の時代に難波津は出来ていたことになっているので、こちらを利用してもいいのでしょうが、まだ住吉津が渡来人を迎える港だったようです。

住吉津と難波津

住吉津の近くには住吉大社、大海神社、船玉神社など海の神を祀る神社が多く鎮座しています
難波津には難波坐生国咲国魂神社、坐摩神社などが鎮座、海や航海の神々は見あたりません。

住吉津を管理したのは津守連で『姓氏録』では火明命男天香山命之後也とあります。丹後の海部氏や尾張氏とルーツ

難波宮跡
大化改新(645年)にともなう難波遷都以来8世紀末まで約150年間、難波宮は日本の首都として、また副都として、日本の古代史上に大きな役割を果たした。昭和29年(1954年)以降長年にわたる発掘調査の結果、前期・後期二時期の難波宮跡が、中央区法円坂一帯の地に残っていることが明らかになった。
現在内裏・朝堂院部分90,677㎡が、国の史跡に指定されている。

前期難波宮

乙巳の変ののち、645年に孝徳天皇は難波(難波長柄豊崎宮)に遷都し、宮殿は652年に完成した。大化の改新とよばれる革新政治はこの宮でおこなわれたが、この宮は建物がすべて掘立柱建物から成り、草葺屋根であった。『日本書紀』には「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と記されており、ことばでは言い尽くせないほどの偉容をほこる宮殿であった。

孝徳天皇を残し飛鳥(現在の奈良県)に戻っていた皇祖母尊(皇極天皇)は、天皇が没した後、655年1月に飛鳥板蓋宮で再び即位(重祚)し斉明天皇となった。

683年(天武12年)には天武天皇が複都制の詔により、飛鳥とともに難波を都としたが、686年(朱鳥元)正月に難波の宮室が全焼してしまった。

後期難波宮

奈良時代の神亀3年(726年)に聖武天皇が藤原宇合を知造難波宮事に任命して難波京の造営に着手させ、平城京の副都とした。中国の技法である礎石建、瓦葺屋根[2]の宮殿が造られた。天平15年(744年)に遷都され、このとき難波京も成立していたと考えられている。翌天平16年1月1日、難波宮から紫香楽宮へ遷都した。
784年、桓武天皇により長岡京に遷都された際、大極殿などの建物が長岡京に移築された。

『続日本紀』巻廿四天平宝字六年(七六二)四月丙寅《十七》の記事
 遣唐使駕船一隻自安藝國到于難波江口。著灘不浮。其柁亦復不得發出。爲浪所搖。船尾破裂。
 遣唐使船が難波津で座礁したとの記事。砂が堆積してきて港としての機能が果たせなくなりつつあるようです。

茨田の堤、仁徳天皇紀

『仁徳紀』に、難波堀江を掘って南の水を西に流したとあり、続いて、北の河の塵芥を防ぐために茨田の堤を築いたとあります。堤のの工事丸いヒサゴを浮かべて沈めば神の意志、沈まなければ偽りの神と云って、人柱にならずに済んだ物語があるほどの難工事だったのです。茨田の堤の目的は、淀川からの水の流入を防いだものと、『難波京の風景』に出ています。淀川の水は天満砂堆の北側を流れ出たのでしょう。今の神崎川。
 
『仁徳紀』には、続いて皇后の磐之姫が熊野に行っている間に八田皇女を召されたことを、難波の渡しで聞き、難波の大津の岸に寄らずに、そこから引き返し、川を遡って山城方面に行かれたと出ています。『難波京の風景』では、難波堀江を抜けて淀川に出たとあり、茨田の堤の工事はもっと後世だったのかも。
『日本書紀』仁徳三十年九月「時皇后不泊于大津。更引之泝江。自山背廻而向倭」とあるからです。引き返して神崎川に回って淀川を登って行ったと云うこと。この時には既に堀江も茨田の堤も出来ていたのでしょう。

「和名抄」によれば、住吉郡には、住道(すむち)・大羅(おおよさみ)・杭全(くまた)・榎津(えなつ)の四郷、(東急本に余戸(あまりべ)郷、<奈良時代の史料や「万葉集」に田辺・神戸(かんべ)・伎人(くれひと)の三郷)、があったといわれ、杭全郷に関しては、倭建命の孫の杙俣長日子王(父は息長田別王)、応神天皇と咋俣長日子王の女との間の子若沼毛二俣王などの王名との関係が指摘されています。  杭全・平野地域が、西除川(伎人堤-息長川)と合流する地域であったことを考えますと、「くまた・くいまた」の名から、川の流れや堤防などの杭、分流地点、あるいは古代の河道の付替え工事の様子などがなんとなく浮んできそうです。 難波屯倉

難波屯倉は『日本書紀』に安閑天皇元年(534)、天皇の妃の物部木蓮子の娘の宅媛の名を伝えるために難波に設けられ、馬に曳かせて田を掘り返し耕す馬鍬を使う農民をつけた。

仁徳紀 住吉郡に依網屯倉
安閑紀 三嶋郡に竹村屯倉

住吉大社

仲哀天皇9年(西暦200年)、神功皇后が三韓征伐より七道の浜(現在の大阪府堺市堺区七道、南海本線七道駅一帯)に帰還した時、神功皇后への神託により天火明命の流れを汲む一族で摂津国住吉郡の豪族の田裳見宿禰が、住吉三神を祀ったのに始まる。その後、神功皇后も祭られる。応神天皇の頃からの大社の歴代宮司の津守氏は、田裳見宿禰の子の津守豊吾団(つもりのとよあだ、つもりのとよのごだん)を祖とする。

津守氏は、天火明命の流れを汲む一族で摂津国住吉郡の豪族の田蓑宿禰の子孫。

大海神社(おおわたつみじんじゃ、だいかいじんじゃ)
大阪市住吉区にある住吉大社の境内摂社である。式内社。

延喜式神名帳に「大海神社 二座 元名津守氏人神」と記載されている。住吉大社創建以来の宮司家である津守氏の氏神を祀る神社である。住吉大社に祀られている住吉神(すみのえのかみ)は、綿津見神(わたつみのかみ)と同時に現れた海の神であり、近縁性が指摘されているが、大社宮司の津守氏の氏神が「おおわたつみ」であることは、その古代の消息を語っている。代々、「大領氏」と称する津守氏の嫡男が大海神社の社司となるならわしであった。

祭神は、現在は豊玉彦命・豊玉姫命となっている。『神名帳考証』では大綿津見命・玉依姫命、『神祇志料』では塩土老翁・豊玉姫命・彦火々出見尊としている。いずれも海幸彦・山幸彦神話にかかわりのある神である。本殿脇の「玉の井」という井戸の底には、海幸山幸神話に登場する潮満珠があるという伝承がある。

『日本書紀』神功皇后紀の

「古事記」には、住吉三神の先導で新羅征討の記述はありますが、帰国後の住吉三神に関する記述はありません。
「書紀」では第九巻を神功皇后(気長足姫尊、おきながたらしひめのみこと)の事績記述にあて天皇と同等の扱いにしています。新羅征討の後の記述では次の様に述べています。
『征討軍に従った住吉三神は、皇后に教えていわれるのに「わが荒魂(あらたま)を穴門の山田邑に祭りなさい」と。穴門直(あなとのあたい)の先祖、践立(ほむたち)・津守連の先祖、田裳見宿禰(たもみのすくね)が皇后に申し上げて「神の居りたいと思われる地をさだめましょう」といった。そこで践立を荒魂をお祀りする神主とし、社を穴門の山田邑にたてた。

香坂王・忍熊王の項に以下の記述がある。

神功皇后は忍熊王が軍を率いて待ち構えていると聞いて、武内宿禰に命ぜられ、皇子を抱いて迂回して南海から出て、紀伊水門に泊らせられた。 皇后の船はまっすぐに難波に向った。ところが船は海中でぐるぐる回って進まなかった。それで武庫の港に還って占われた。

天照大神が教えていわれるのに「わが荒魂を皇后の近くに置くのは良くない。広田国(摂津国広田神社の地)に置くのがよい」と。 そこで山背根子の女、葉山媛に祭らせた。

また稚日女尊(天照大神の妹)が教えていわれるのに「自分は活田長峡国(摂津国生田神社)に居りたい」と。 そこで海上五十狭茅に祭らせた。

また事代主命が教えていわれるのに「自分を長田国(摂津国長田神社の地)に祀るように」と。 そこで葉山媛の妹の長媛に祭らせた。

また、表筒男・中筒男・底筒男の三神が教えていわれるのに「わが和魂を大津の渟名倉(ぬなくら)の長峡に居さしむべきである。そうすれば往来する船を見守ることもできる」と。 そこで神の教えのままに鎮座し頂いた。それで平穏に海をわたることができるようになった。

先代旧事本紀(天孫本紀-9世紀後半、物部氏系史書)には
「饒速日尊(ニギハヤヒ)五世の孫・建筒草命(タケツツクサ)
         --建額赤命(タケヌカアカ・=建額明命)の子、多治比連・津守連・若倭部連・葛木廚直の祖」
とあり、物部氏系の古い氏族という。
 また新撰姓氏禄(815)には、
 ・右京神別(天神) 若倭部連 神魂命七世孫天筒草命之後也
 ・右京神別(天神) 若倭部  火明命四世孫建額明命之後也
 ・左京神別(天神) 若倭部  神饒速比命十八世孫子田知(コタチ)之也

火明(饒速日)-天香語山-・-・建額赤(建赤明、若倭部連連祖)-建筒草(津守連・多治比連・葛木廚直祖)-・・・

天忍男命(天村雲命二男)─ 瀛津瀬襲命、弟建額赤命(妹世襲足姫命)─ 建筒草命 ─ 建真咋命 ─ 諸石宿禰 ─ 大御日足尼(弟 八坂振天其辺命[茨田、川上の祖)─ 五十狩宿禰命 ─ 塩手宿禰命(弟大美和都弥命[工祖]、弟忍己理足尼命[若倭部祖])─ 水吹宿禰命(妹度美媛命)─ 田裳見宿禰(弟御殿宿禰[丹比祖])─ 津守吾田(弟津百済主)。

★『旧事』天忍男命の第二子の建額赤命は、尾治置姫(オワリオキヒメ)を娶り、建箇草命を生む。多治比連、津守連、若倭部連、葛木の祖。