諸県君、髪長媛、大日下皇子

大日下皇子(大草香皇子)?~454年?

『古事記』の大日下皇子は『日本書紀』では大草香皇子 (おおくさかのみこ) であるとされ、ともに仁徳の子である。

母は髪長媛(かみながひめ)。妻は中蒂姫命(なかしひめのみこと)(のちの安康天皇の皇后)。子に眉輪(まよわの)王。安康天皇元年天皇が大草香皇子の妹草香幡梭姫(くさかのはたびひめの)皇女と大泊瀬(おおはつせの)皇子(雄略天皇)を結婚させようと,根使主(ねのおみ)を派遣した。大草香皇子はよろこんでうけたが,根使主がいつわりの報告をしたため天皇に殺された。「古事記」では大日下王,波多毘能大郎子(はたびのおおいらつこ)。
彼のための名代部が日下部であるとされる。

波多は海人族を指すので大伴氏靫負部だった日下部のことだろう。生駒山麓日下地名はそこから出たのであろう。その日下には物部氏の祖であるニギハヤヒを祭る石切劔箭神社がある。日下江は縄文海進時代の難波の最深部にあった港である。だから西から船で難波に着いた船はまずここに到着したことになる。日下部は尾張氏・海部氏・物部氏・宗像氏ら大和河内先住海人族のひとつである。

髪長媛
 諸県君牛諸井(日本書紀本文)(ほかに同書の説に「諸県君牛」、古事記に「牛諸」とある)と髪長媛
諸県君牛諸井は応神天皇時代の日向の豪族。「日向国に嬢子(おとめ)がいます。名を髪長媛といい諸県君牛諸井のむすめです。国色之秀者(かおすぐれたるひと)です」という者があった。応仁天皇は使いをやってこれを招き、桑津邑に住まわせた。やがて仁徳天皇が「その形の美麗(かおよき)」に感じて妃とする(日本書紀本文)。
 また、同書の一説によると、応神天皇に仕えていた牛諸井が年老いて帰国。朝廷の恩を忘れず、代わりに髪長媛を差し出した。媛には角付きのシカ皮を着た多くの人々を従わせた。船で着いたところが播磨(兵庫)の鹿子水門(かこのみなと)で、このことから船人を「かこ」、その出入り口を「港」と言うようになったという。媛はやがて仁徳天皇の后(きさき)になり、その子孫は朝廷に大きな影響を持つようになる。

諸県郡(もろかたぐん)
古代律令期から明治初期まで日向国南西部一帯に存在した郡。

「諸県」は現在の東諸県郡国富町に存在した地名で、この諸県君(日向国造であったとの説もある)の本拠地でもあったとされるが、当時はヤマト王権の影響力が及んでいなかった地域も多く、諸県地方が、諸県君の主領域と一致したかは不明である

中世には、宇佐宮領の諸県荘となった現在の国富町・綾町。

■国富の地名
 古い時代のこの地を国富の本庄「神陵京(かむはかのみやこ)」「神原邑(かむはらむら)」、「高日邑(たかひのむら)」ともいった。
 神陵京とは、本庄台地一帯の皇室ゆかりの人々の古墳群をさして、この地名がついたのだろう。事実ここは、古墳集団地で日向古墳群の中心の一角をなしている。
 神原邑とは、景行(けいぎょう)天皇の皇子・豊国別命(とよくにわけのみこと)の子、久迩止美比古命(くにとみひこのみこと)(別名を神原彦命(かむはらひこのみこと))と申され、本庄を時の都として諸県地方を治められたことから「国富」または「神原」の地名が生まれたといい、今でも稲荷神社あたりを神原というのもこの事に始る。
 古代の諸県は、西はえびの地方、南は日南、串間地方を含めた広大な領域で、その東北の一角、統治の中心の本庄は、古墳や古伝説の高まりが、古代日向の先進地を位置づけた。
 国富という美称に負うた地名が、平安期に此の広い諸県庄という宇佐宮領の要の地として、「国富庄」と称された一時期を創りだしたとも言える。
 本庄八幡宮が宇佐宮を勧請(かんじょう)した天長八年(831年)には、すでにこの地を国富庄と呼び、神宮勧請と同時に、宇佐宮の「袖巻の峯」の地名も八幡台地の呼び名となっている。それとは逆に「藤岡山陵」(町運動公園西)下にある天真名井という井戸の名前が、日向から丹波(京都)の真名井へ移り、さらに伊勢外宮に移り、外宮後方一帯の山を「藤岡山」と呼んでいる。

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諸縣舞
岩波書店の坂本太郎他校注の「日本書紀」によれば、景行天皇十八年三月の条にある「諸縣君泉媛」の注として「諸県は、日向国西部の地名。延喜民部式・和名抄に同国諸県郡がある(中略)。なお、令制雅楽寮に雑楽の一つとして伝えられた諸県舞は、この部族の歌舞であろう。」とある。諸縣の名は「日本書紀」応神天皇十一年是歳の条にも、日向国の「諸縣君牛諸井」の娘、髪長媛として記載がある。また「旧事紀」巻第七には「豊国別命。日向詣縣乃等祖」とあり、「日本書紀」応神天皇十三年の一書に云わくとして「日向諸縣君牛」、「古事記」応神天皇の条に「日向国諸縣君之女名髪長比売」、同書仁徳天皇の条に、「日向之諸縣君牛諸之女髪長比光」とあるように、古くから知られていた地名であった。

令制雅楽寮に記す「筑紫諸縣舞」
「続日本紀」巻十一の聖武天皇天平三年(西暦 731年)七月廿九日に『雅楽寮ノ雑楽生ノ員ヲ定ム。大唐ノ楽卅九人。百済ノ楽廿六人。高麗ノ楽八人。新羅ノ楽四人。度羅ノ楽六十二人。諸縣ノ舞八人。筑紫舞ノ廿人。其大唐ノ楽生ハ夏蕃ヲ言ハズ、教習ニ堪タル者ヲ取ル。百済高麗新羅等ノ楽生ハ並ニ当蕃ノ学ニ堪タル者ヲ取ル。但度羅楽、諸縣、筑紫ノ舞生ハ並ニ楽戸ヲ取ル。」と記し、諸縣の舞、筑紫の舞などの名が見える。
 「令集解」巻四に記す大属尾張浄足説は、天平年間ごろの事と考えられているが、雅楽寮楽人の内、『大属尾張浄足説。今寮に有る舞曲左の如し。久米舞大伴琴を弾き、佐伯刀を持て舞う、即蜘蛛を斬る、只今琴取二人、舞人八人、大伴佐伯不別也。五節舞十六人田舞師、舞人四人、倭舞師舞也。楯臥舞十人、五人土師宿禰等、五人文忌寸等、右甲を着け并に刀楯を寿つ。筑紫舞廿人、諸縣師一人、舞人十人、舞人八人甲を著け刀を持つ、禁止二人。」云々とあるように筑紫舞は二十人の舞人による舞、諸縣舞は諸縣(舞)師に率いられた舞八から十人による甲を着け刀を持った勇壮な舞であった。

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和邇氏

孝昭帝の皇子天足彦国押人命の裔。熊本県を飾る最古の族は阿蘇氏とこの和仁氏である。いつの頃、鎮西に来住したか不明。