高市、河俣神社、忌部山、天太玉

近つ神奈備
古くは神奈備を直接に拝礼していたのであるが(今もそうして構わないのだが)、後世、神奈備を神体山として表敬(もしくは敬遠)し、近くに神社を建てて拝するようになった。この四つ、または諏訪大社(すわたいしゃ)を加え五つの神社は、本来的に皇室と皇統を守護すべき任務をもった最古の神々であり、ウヨたる者は伊勢神宮や靖国神社以上に深く崇敬奉賛すべき神聖至高の神社である。
神話
いわゆる「国譲り」神話において、大国主神が邇々藝命に国土を移譲して幽界に去る際に、自分と自分の三人の御子神の魂を、皇室と皇統の「守り神」として現世に残した。その四柱の神々の鎮まります四つの神奈備である。

出雲国造は天皇の代がわりことに朝廷に出仕して、天皇の御前に神賀詞を讃え申すが、その言葉の中に皇室・皇統を永遠に守護する神奈備四座がでてくる。

原文
(前略)乃大穴持命乃申給久、皇御孫命乃静坐乎大倭國申天、己命和魂乎八咫鏡爾取託天、倭大物主櫛甕玉命登名乎稱天、大御和乃神奈備爾坐。己命乃御子阿遅須伎高孫根乃命乃御魂乎、葛木乃鴨能神奈備爾坐須。事代主命能御魂乎、宇奈提爾坐。賀夜奈流美命能御魂乎、飛鳥乃神奈備爾坐。天皇孫命能近守神登貢置天、八百丹杵築宮爾静坐支(後略)
【訓みくだし】(前略)すなはち大穴持命(おほなもちのみこと)の申したまはく、皇御孫命(すめみまのみこと)の静まりませるを大倭國(やまとのくに)と申して、己れ命(みこと)の和魂(にぎみたま)を八咫鏡に取り託けて、倭大物主櫛甕玉命と御名を稱(たた)へて、大御和(おほみわ)の神奈備にまし、己命(おのれみこと)の御子(みこ)・阿遅須伎高孫根命の御魂(みたま)を、葛木乃鴨(かつらきのかも)の神奈備にます、事代主命の御魂を、宇奈提にませ、賀夜奈流美命の御魂を、飛鳥の神奈備にませ、天皇孫命の近つ守り神と貢(たてまつ)り置きて、八百丹杵築宮(やほにきづきのみや)に静まりましき(後略)

注2=ここだけ神奈備といわないのは「の神奈備」の文字が脱落したものと考えられる。「神奈備は神体山をいうのに事代主命の鎮まります所は平野部だから神奈備といわないのである」という説は誤り。「なぶ」は鎮まる、おとなしくなる、なびく、隠れる、等の意味で、神奈備はいわゆる「神籬」と同じく、必ずしも山である必要はない。詳しくは「神奈備」の項をみよ。
樫原市の雲梯町
高市の宇奈提奈良県橿原市に雲梯町(うなでちょう)という地名が残る。このあたり昔は森だったらしく『万葉集』に「卯名手の森(うなでのもり)」とある。現在、神社とは別に聖域として守られている区域はない。

神社は、その雲梯町に「河俣神社(かわまたじんじゃ)」があり、これで間違いない。古くは「高市御県御坐鴨事代主神社(たかいちのみあがたにいますかもことしろぬしじんじゃ)」と称し『日本書紀』にもあるように皇極天皇や天武天皇にたびたび神勅を下して、天皇を導いたほど霊験あらたかなであって、延喜式神名帳に記載される式内大社。 後に別の神社である川俣神社(これも式内社)と混同されて、現在の社名「河俣神社」と呼ばれるようになった。本来、川俣神社と呼ばれていたはずの神社は南西300mほどの曾我川の西べりにある現在の「木葉神社(このはじんじゃ)」のことである。河俣神社は、今は極めて小さく細やかな神社になっているが不釣り合いに長大な参道が残っており大昔は大きかったことが察せられる。木葉神社も古くは「高市御県御坐鴨事代主神社」の境内社だったかも知れない。この河俣神社を現状の小さな祠のような状態にしておくことは、この神の至高神聖なる重要さに鑑みて実に恐れ多い国民の怠慢であり、國體の諸問題を考える上でも戦慄すべき事態といわねばならぬ。 このあたりは平野部で山らしい山もないが、しいて見回してみると少し南に寄りすぎな気もするが「忌部山(いんべやま)」がある。山の南側から石段を登ると「八王子神社」がありそこからさらに上に登ることができるが、山頂は施設(配水槽)があって二重のフェンスに囲まれ入れない。この山は僅か108.5mしかなく展望もない。河俣神社の北には「天太玉神社(あめのふとだまじんじゃ)」あり忌部町の地名が残る。つまり河俣神社は南北から忌部にはさまれており、ここら一帯が一つの区域だったことが察せられる。忌部と河俣神社との関係といえば『日本書紀』巻二 神代下 第九段の一書第二に「(前略)…すなはち太玉命をして(中略)御手代にして(天孫に代わって)この神(大物主神)を祭らしむる…(後略)」とあり。これは文脈の上から判断すると忌部氏が主要な神官になるという意味でなく「出雲大社の建設を忌部が担当する」という意味にとれるが、これを根拠に忌部氏が大物主神の祭祀に深くかかわったこともあったのだろう。また「この神」とは大物主神のことをさしているが、その御子神たちも含むと拡大解釈されたとしたら、忌部氏がこの河俣神社の前身である「高市御県御坐鴨事代主神社」に深くかかわっていたことは、いかにもありそうなことである。 忌部山は緯度でいうと橿原神宮とほぼ同緯度なので、南に寄り過ぎるとすれば、第二案として大和三山の一つ「耳成山(みみなしやま)」ではないかと推測してみる。河俣神社からはやや離れすぎの感もあるが、河俣神社と耳成山の中間に、名前のよく似た「高市御県神社(たかいちのみあがたじんじゃ)」があり、これは「高市御県御坐鴨事代主神社」の名を継いでいる。その位置は橿原神宮の近く、四条町の北部、今井町(今井寺内町)との境で、爽やかな神気を感じる清明な古社である。また先ほどの天太玉神社の真北には「天高市神社(あめのたかいちじんじゃ)」あって事代主命を祀っている。この神社は耳成山とほぼ同緯度であり、耳成山と同様、位置としては最も北側であってふさわしいように思われ。長い歴史のうちに曽我川・飛鳥川・米川などの河川の流れも大きくかわり、神社の位置も長い間に徐々に変遷沿革があったことは推測に難からず。天高市神社や高市御県神社は、各時代の聖地遷移の跡を思わせる。第三案として、三輪山・葛城山・後述の高取山との配置バランスを考えると、かなり大胆ではあるが二上山(にじょうざん、古くは「ふたがみやま」)も候補たりうるかもしれない。

高市(たかいち)とは古語で「首都」の意味。「うなで」とは通説では水利施設=「溝」のこととされているが、太古には奈良盆地の北半は海でありここらは海岸だったから「海の方」という意味で「海手(うなて)」といったかのかも知れない。海は産み、手は出(つる)の名詞形(「いづる」の「い」は強調の接頭辞)と同語源。「うなで」=「生まれ成り出」に通じる。

天太玉命神社
奈良県橿原市忌部町にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は村社。

古代氏族の忌部氏(斎部氏)の氏神として知られる。
『延喜式』神名帳では祭神を4座とするが詳細は明らかでない。これについて、『五郡神社記』では天太玉神・大宮乃売神・太玉命(天富命か)・天比乃理咩命の4神に比定するほか、松下見林の『太玉命社記』では天太玉命・大宮売命・豊石窓命・櫛石窓命の4神に比定しており、後者が現在に踏襲されている。大宮売命・豊石窓命・櫛石窓命の3神は、『古語拾遺』・『先代旧事本紀』において太玉命の御子神に位置づけられる神々になる。なお、後述のように『類聚三代格』の貞観10年(868年)太政官符では、「天太玉神」の社は臼滝神・賀屋鳴比女神の社とともに飛鳥神の裔に位置づけられている。

阿波忌部の系譜