箸墓の周濠から木製輪鐙 あぶみ
平成10年の纏向遺跡第109次発掘調査で、箸墓の周濠から木製の輪鐙(あぶみ=乗馬の時の足掛け)も出土していました。その時は話題になりませんでしたが、平成13年に桜井市教育委員会がこの鐙を4世紀初頭の物と発表してから問題となっています。鐙自体は三国時代(220~280年)の後に西晋王朝が中国を統一した時代(280~316年)に発明され邪馬台国より時代が新しく、記紀の記録でも日本で馬の使用は早くても4世紀後半です。中国の北方民族(匈奴など)は乗馬が得意で鐙は使用しませんが、不得意な漢民族は乗馬の道具として発明したとされます。今回箸墓周濠から出土した鐙はかなり使いこなされた痕が残っており、4世紀末~5世紀の物と判断すべきです。
日本で馬具が出土した古墳は1,000基を超えるが、全て5世紀以降の築造である。仮に箸墓周濠から発見された鐙が邪馬台国時代とすれば、5世紀以降の多数の古墳から出土した馬具とは150年以上の空白期間となる。これは箸墓を卑弥呼の墓(247または248年頃の築造)とするからで、従来通説のように箸墓築造を3世紀末~4世紀前半とすれば、5世紀の出土馬具と連続し不自然でなくなる。
騎馬は騎射が本職。そのすばやい移動力による、絶え間ない射撃が最大の武器。
一方、戦車戦の発達した中原においては、武人の必須の技は「槍や矛」の使い方で、弓は「雑兵のすること」なのです。
趙の武霊王の「胡服騎射」
武霊王(ぶれいおう、? – 紀元前295年、在位紀元前326年 – 紀元前298年)は、中国戦国時代の趙の君主。姓は嬴。氏は趙。諱は雍(『史記索隠』に拠る)。粛侯の子。胡服騎射を取り入れて趙を軍事大国とした。
匈奴などの遊牧民族と境を接した秦・趙・燕の三国は早くから領土の北辺に長城を築いてその侵入を防いだが、騎馬民族は頻繁に漢民族の土地を犯し略奪を繰り返した。趙の武霊王(ぶれいおう:在位B.C.325~B.C.299)は匈奴などの騎兵に対抗するため、それまで兵車の牽引にしかもちいられなかった馬に跨り騎射を行える漢人兵士の育成に努めた。しかしながら、それまでの漢民族の丈の長い着物は乗馬に適せず、ズボンをはく胡人の服装を真似る必要があった。屈辱的な改変に対する保守的な貴族たちの猛反発を押して武霊王が断行した改革を「胡服騎射」といい、その英断が以後二千年に及ぶ漢民族の騎馬戦術を生み出した。「趙武靈王亦變俗胡服 習騎射 北破林胡・樓煩 」(漢書 卷九十四上 匈奴傳第六十四上)と。 考古学の知見によると漢代には座位を固定する鞍は未発達であり、踏ん張り用の鐙(あぶみ)もなかった。つまり騎兵は両足で馬腹を挟み、転落しないようにバランスをとりながら手綱を操り、戦闘時においては手綱も放して弓矢を引く技術を習得しなければならない。騎射に巧みであるということは、それだけアクロバチックな動作ができる技術を身に付けていたということである。 騎兵の武器は弓矢を基本として、いざというときのために刀を佩く。刀は直刀であるが馬を駆けさせて薙げば瞬時にして数人の首をはねる威力を持つ。漢代の騎兵の姿には戟(げき)を持つものも多いが、これは馬を止めての乱戦に対応するためであろう。 騎射の射法としては左前方に射るオーソドックスな弓手筋違(ゆんですがい)と上半身を捻って左後方を射る押捻り(おしひねり)が多く見られる。胸の張りを存分に使える押捻りはパルティア射法(パルティアンショット)とも呼ばれる。
1990年に発見された甘粛省敦煌市の西晋墓(せいしんぼ)の墓室壁面
紀元前307年、野望を達成するための準備として胡服騎射を取り入れることを考える。それまでの中華世界の貴族戦士の伝統的な戦術は、3人の戦士が御者と弓射、戈による白兵戦を分担する戦車戦だった。それに対して北方遊牧民族は戦車を使わず、戦士が直接1頭の馬に乗って弓を放っていた。胡服騎射とは、この遊牧民族の戦法を真似ようというものであった。当時の大夫たちは裾が長く、下部がスカート状の服を着ていた。乗馬のためにはこれは非常に邪魔であり、胡服騎射には遊牧民の乗馬に適したズボン式の服装(胡服)を着る必要がある。
これを下問した所、肥義はすぐに賛成したが、武霊王の叔父の公子成はこれに反対した。中華思想が強く、遊牧民を「蛮夷」と呼んで見下し、直接馬に乗る事を蛮行と見なしていた当時では、肥義のように賛成する者の方が珍しく、公子成が反対したのも無理はなかった。しかし、武霊王は「かつて舜は有苗に舞ひ、禹は裸国に袒ぐ」(舜は有苗の風習にあわせて踊り、禹は裸国の風習にあわせて服を脱いだ)と粘り強く説得を続け、胡服騎射を取り入れることに成功した。
すると公子成が病気と称して参内しなくなりました。公子成は武霊王の叔父であり、当時の権力者でした。 病気と称して参代しないのは、武霊王の政策に従わないという意思表示なのです。武霊王は王緤を遣わして言わせました。
「家では親のいいつけに従い、国では君の命令に従うのが、古今の公道であり、子が親に背かず、臣が君に逆らわないのが上下の通念である。いまわたしは教えをつくり、 服を変えたのに、叔父上が胡服されないなら、天下の者が非難しましょう」
君主の命には臣は従うべきだという正論を展開します。
公子成はこれに答えて言いました「中国は聡明叡智の人のいる所であり、賢人聖人の強化する所であり、仁義の行われる所であり、詩書・礼楽の用いられる所であり、 遠方の見習う所であるのに、いま王には、中国を捨ておいて遠方の服に従い、古来の教えや道を変え、中国から離れようとされています」
まさにこの回答が、当時の中国の士大夫の一般的な考え方でしょう。中国は優れていて、周辺は劣っているという考え方です。胡服騎射は人類の発展に逆行することなのです。
そこで武霊王は自ら公子成の家に赴いて言いました「礼制も服装も、その民によってそれぞれ異なるが、便宜に従う点ではひとつです。郷土が異なれば用が変わり、 事が異なれば礼が変わります。わが国は河水・漳水をもって斉・中山と接していますが、舟揖の備えがありません。また燕や東胡、楼煩・秦・韓と辺境を交えていますが、 騎馬弓射の備えがありません。だから私は服を変え、騎射してこれに備えようとするのです。
先年、斉に破れた鄗の恥を濯ぐには、騎馬弓射により上党の形勢を有利にしなければなりません」
ここで武霊王は初めて胡服騎射の実益について語っています。そして胡服騎射は斉・中山に対する船の装備をすることと同様であると説いたのです。武霊王の先君の時に、 斉・魏に打ち破られた苦い経験は、趙の君臣に染み付いていたのです。ついに公子成は再拝頓首して、胡服騎射に賛成しました。
こうして初めて胡服の令が出されました。しかし趙文・趙造・ 周ショウ・趙俊らがまだ賛成せずに王を諌めました。
「王よ、しきたりに従うのが便利です」と。
「しきたりに従うと言うが、どの古代にのっとろうというのか。歴代の帝王とて前代を継いでいるわけではない。いつの礼に従おうというのか。 もし服制の奇異なことが淫邪な志を招くというなら、鄒・魯に奇行はないはずであり、習俗の偏狭が民をかえるというなら、呉・越に秀才はいないはずである。 聖人は身に便利なように服制を定め、事に便利なように礼制を定めるものだ。そちはここに思い及ばないのだ」
武霊王は縦横家ばりの論を展開します。古代を尊ぶ中国はよく先代に学ぶとされますが、夏・商・周のどれに学べというのか、どの時代の服装も異なっていたはずだ、というのです。
前漢時代にも騎馬戦術はポピュラーではなく、歩兵&戦車戦が基本でしたから、高祖は匈奴王にぼろ負けしています。
後漢末ですら、騎馬はまだ普及しておらず、中原の歩兵主体軍の曹操は、太源出身の呂布の騎馬部隊に散々苦労し、その機動力を封じる”水攻め”で、ようやく勝ちました。
南北朝時代も、東晋など漢族の皇帝の車は馬ではなく、牛。