馬見古墳群

奈良盆地西部、広陵町と河合町にひろがる馬見丘陵に築かれた奈良三大古墳群の一つです。古墳総数250基を超える大規模なもので4世紀末から6世紀の築造と考えられています。あとの二つは大和(おおやまと)・柳本古墳群と佐紀盾列(さきたてなみ)古墳群です。

馬見古墳群は大きく3グループのまとまりがありそれぞれ中心になる大きい古墳の名称から、
大塚山古墳群(北群)
巣山古墳群(中央群)
築山古墳群(南群)
と呼ばれています。
大和政権の大王や古代大豪族の葛城氏などの築造とする説がある。

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讃岐神社が将に葛城氏の奥津城といわれる馬見古墳群の中心にある。
『竹取物語』に登場する竹取翁の出身部族である讃岐氏は、持統―文武朝廷に竹細工を献上するため、讃岐国(香川県)の氏族斎部(いんべ)氏が大和国広瀬郡散吉(さぬき)郷に移り住んだものとしている。
翁の讃岐姓は、「和名抄」の大和国広瀬郡に散吉郷があり「大和志」では、「散吉郷廃存済恩寺(はいそんさいおんじ)村」として、現在の北葛城郡広陵町大字三吉の斉音寺集落付近に比定している。
又この付近に「藪ノ下」、「藪口」、「竹ケ原」という地名があり、真竹孟宗竹等の竹林が多数残っている。
三吉の北部には讃岐神社が鎮座し「延喜式」神名帳、広瀬郡の讃岐神社がこれに当るとされる。
『竹取物語』の舞台が大和国であったことはかぐや姫の求婚者であった5人の貴公子の名が、持統朝末期から文武朝初期にかけて朝廷の中心にいた5人の実在の人物に比定されることも符合する。
(資料)奈良県史(風土と文学)読売新聞(昭和61年3月15日付夕刊)

三吉石塚古墳から北を見る。
中景に図書館。左の森は馬見丘陵公園。なだらかな丘陵地帯である。右の森は竹取物語の舞台となった讃岐神社と巣山古墳。
巣山古墳は全長220m、馬見古墳群最大の前方後円墳で4世紀末の大王級の古墳と考えられている。葬送用に使われた木の船が発掘され話題になったとのこと。

巣山古墳
巣山古墳(全長220m)が築かれた馬見古墳群(奈良県広陵町、4~5世紀築造)は葛城国の王族を埋葬したとするのが通説であったが反論もある。葛城(葛木)を社名に持つ神社は金剛・葛城山麓から二上山麓に限られ馬見古墳群はかろうじて葛城の範囲に含まれるだけであり、さらに馬見古墳群の大型古墳は副葬品が豪華で大和古墳群や百舌鳥古墳群のように大王家のものと考えるべきである(和田萃、以下敬称略)という指摘がある。
一方、葛城ソツヒコの後裔である葦田宿禰(あしだのすくね)に由来すると考えられる蘆田(あしだ)の地名が馬見丘陵の中央部に見られるし5世紀に成立する大和王権の実体は大王家と葛城氏の両頭政権ではなかったか(直木孝次郎)、更に馬見古墳の石棺は葛城地方と同じく長持形石棺が目立つ(門脇禎二)、などの点が指摘されており決着に至ってない。
そのために、広陵町のホームページでは「...巣山古墳は4世紀末葉の大王墓の一つと考えられます。...」と記述されている一方で馬見公園の案内板には「葛城地域の王墓と考えられています。」とされ一貫性がない。
4世紀後半、三輪王朝から河内王朝への王権交代は葛城氏の河内王朝への寝返りが決定的に影響したとする論者(岡田精司)もいる。

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