飛鳥京、飛鳥寺、川原寺、山田寺、橘寺、橿原神宮

    飛鳥京跡
    6世紀末から7世紀後半まで飛鳥の地に営まれた諸宮を中心とする複数の遺跡群からなる都市遺跡であり、宮殿のほか朝廷の支配拠点となる諸施設や飛鳥が政治都市であったことにかかわる祭祀施設、生産施設、流通施設などから構成されている。具体的には、伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきみやあと)を中心に、川原寺跡、飛鳥寺跡、飛鳥池工房遺跡、飛鳥京跡苑池、酒船石遺跡、飛鳥水落遺跡などの諸遺跡であり、未発見の数多くの遺跡や遺構をふくんでいる。遺跡全体の範囲はまだわかっておらず、範囲特定のための発掘調査も行なわれている。

      
    I期 飛鳥岡本宮(630 – 636年)
    II期 飛鳥板蓋宮(643 – 645、655年)
    III期 後飛鳥岡本宮(656 – 660年)、飛鳥浄御原宮(672 – 694年)
    694年 持統天皇が飛鳥から藤原の地に都を遷都。藤原京は、中国の都城制を模して造られた日本初の本格的な都城でした。新たな都の造営は、亡き夫・天武天皇を意志を受け継いだ中央集権国家の確立には欠かせない一代事業でした。その大きさは、東西方向約5.3km、南北方向4.8kmで、平城京、平安京をしのぐ古代最大の都です。藤原京時代には大宝律令が制定され、貨幣も発行されました。初めて「日本」という国号を使用したのも藤原京を発した遣唐使でした。

    710年 和銅3年 藤原京から平城京に遷都され、当時の大寺も順次移された。薬師寺、藤原氏の私寺厩坂寺(興福寺)、大官大寺(大安寺)がそれである。飛鳥寺は遅れて養老2年9月(718)に平城京に移され元興寺となった。 しかし、飛鳥寺の伽藍は残されて存続し、平城京元興寺に対して本元興寺と呼ばれた。

    飛鳥板蓋宮は皇極・斉明天皇の2代の天皇、飛鳥浄御原宮は天武・持統天皇の2代の天皇がそれぞれ使用した。
    それまでの宮が、天皇1代限りの行宮という役割から、何代もの天皇が宮として継続して使用する役割に移りつつあったことが分かる。
    飛鳥京跡苑池
    「伝飛鳥板蓋宮跡」の北西に隣接した庭園遺構であり、1999年(平成10年)の発掘調査で確認された。藤原京以前に宮都に付随した苑池が営まれていたことがうかがわれる重要な遺構である。2003年(平成15年)に国の史跡・名勝に指定された。
    1916年(大正5年)に「出水の酒船石」が発見されていた。その出土地点確認の発掘調査で飛鳥川の川辺にある小字「出水」と「ゴミ田」苑地遺構が出土した。2002年(平成14年)時点で、東西80メートル、南北200メートルの広大な苑地である。斉明朝(7世紀中葉)に造営され、天武朝(7世紀後半)に整備され、10世紀に至るまで機能し、鎌倉時代までには完全に埋没していたと推測されている。
    飛鳥池工房遺跡
    明日香村飛鳥小字古池に所在する飛鳥池。天武朝の大規模な官営工房遺構が検出された。
    1998年(平成10年)に「富本銭」の鋳造が確認された。鋳型やバリ銭、鋳棹などが出土している。2001年(平成13年)に国の史跡に指定された。

    謎の石造物であった「酒船石」は、砂岩を用いた湧水施設で水を汲み上げ、船形をした石槽で濾過し、亀形の石槽に水を溜めて聖水としたものであり、水辺祭祀の遺構であることがわかった。さらに、酒船石のある丘陵には全体に砂岩の切石による石垣がめぐることがわかり、丘陵全体が聖域として扱われていたことが判明した。

    川原寺
    飛鳥寺(法興寺)、薬師寺、大官大寺(大安寺)と並び、飛鳥の四大寺の一に数えられた大寺院であったが、中世以降衰微した。川原寺跡は国の史跡に指定されており、現在はかつての中金堂跡に川原寺の法灯を継ぐ真言宗豊山派の寺院・弘福寺が建つ。
    正史『日本書紀』にはこの寺の創建に関する記述がない。そのため創建の時期や事情については長年議論され、さまざまな説があり、「謎の大寺」とも言われている。平城京遷都とともに他の三大寺(飛鳥寺、薬師寺、大官大寺)はその本拠を平城京へ移したが、川原寺は移転せず、飛鳥の地にとどまった。
    『日本書紀』の白雉4年(653年)条に

    「僧旻の死去にともない、追善のため多くの仏像を川原寺に安置した」との記事があるが、『書紀』の編者は「川原寺でなく山田寺であったかもしれない」との注を付しており、『書紀』編纂の時点ですでにこの話はあやふやなものであったことがわかる

    天武天皇2年(673年)3月、この時、「書生(書き手)を集めて川原寺において初めて一切経を書写した」という。
    『諸寺縁起集』には敏達天皇13年(584年)創建説を載せているが、川原寺跡からの出土遺物(瓦など)の年代から見て、そこまでさかのぼるとは考えられない。前述の『書紀』の記述から見て、天武天皇2年(673年)以前の創建であることは確かであると思われ、天智天皇が母の斉明天皇(皇極天皇重祚)が営んだ川原宮の跡地に創建したとする説が有力となっている。川原宮は、斉明天皇元年(655年)に飛鳥板蓋宮が焼失し、翌斉明天皇2年(656年)に岡本宮へ移るまでの間に使用された仮宮である。

    飛鳥寺
    宗 派 : 真言宗豊山派
    寺 名 : 安居院(あんごいん) 旧法号:法興寺、元興寺
    飛鳥寺は我が国最初の仏教寺院
    用明2年5月、蘇我馬子は政敵であった物部守屋を河内で倒した。この戦いには聖徳太子も蘇我氏の陣営にあった。この結果、蘇我馬子はほぼ全権力を手中に収めることになるが、それを確固たるものにするためにその強大な権力を皇族、豪族、民衆に誇示し畏服させる必要があった。その一つの方法として古今東西の権力者が常套手段としてきたものがある。それは人が驚きその力に畏怖するほどの巨大で斬新な建造物の造立である。それがこの飛鳥寺である。完成には約21年を要した。
    飛鳥寺は、蘇我氏と結びつきが強かった渡来人に繋がる朝鮮半島の百済国などから6人の僧、寺大工、露盤博士、瓦博士、画工などの派遣を受けたと記録(日本書紀)にあり、彼らの指導の下に建立されたと考えられている。また、聖徳太子の師といわれる高句麗の高僧・恵慈など、既に日本に渡来していた僧もその指導に加わっていたであろうとも推測されている。
    完成後の飛鳥寺は飛鳥時代の日本仏教の先導者となった。即ち、聖徳太子の師といわれる高句麗の高僧恵慈や、完成時に来朝した百済の高僧恵聡などがこの寺に住して本格的な教学研究の場となった。下って推古天皇33年(625)高句麗僧恵灌が来朝して法興寺に入り三論宗を講説して我が国に初めて体系的な仏教教学を伝へ、さらに斉明天皇7年(661)当寺の僧道昭が唐留学を終え帰朝して玄奘三蔵より学んだ唯識説(法相宗)を初めて伝えている。さらに下って天平期には当寺 (平城京元興寺)の僧智光が三論宗の「空」の概念から 、後の浄土思想の源流となる観想浄土系の浄土思想を独自に展開した。
    ・崇峻元年(588)造営開始、
    ・推古4年、一応の完成を見せ、馬子は息子の膳徳を寺司に任命し、僧を居住させる
    ・推古13年(605)、本尊の鋳造開始。高麗国、大興王から黄金三百両送られる。
    ・推古14年(606)、本尊完成し金堂に安置し完成する
    ・法号は法興寺または元興寺
    乙巳の変と飛鳥寺・・・蘇我本宗家の氏寺から官寺へ
    飛鳥寺は、乙巳の変以降は滅亡した蘇我本宗家の氏寺から官寺的性格を有する寺へと変わり、養老2年9月(718)平城京に移され元興寺なるまでの間、飛鳥、藤原京時代を代表する我が国仏教教学の中心寺院であった。
    蘇我本宗家の滅亡
    入鹿を謀殺した中大兄皇子と中臣鎌足等は、直ちに飛鳥寺に陣を構え蘇我本宗家の逆襲に備える。蝦夷・入鹿の館は飛鳥寺の西を流れる飛鳥川を挟んだ甘樫丘にあった。そのため飛鳥寺は蘇我蝦夷等の動きを察知しこれを封じるには最適な場所であった。だが、蝦夷は頼りにしていた腹心の高向臣国押(たかむくのおみくにおし)や漢直(あやのあたい)等が武器を捨てて逃亡したために、なすすべ無く館に火を放ち自沈するというあっけない結末で収束し、ここに蘇我本宗家は滅亡する。

    山田寺

    山田寺(やまだでら)は、奈良県桜井市山田にあった古代寺院。法号を浄土寺または華厳寺と称する。蘇我倉山田石川麻呂の発願により7世紀半ばに建て始められ、石川麻呂の自害(649年)の後に完成した。
    蘇我倉山田石川麻呂(? – 649年)は蘇我氏の一族に属し、蘇我馬子は祖父、蘇我蝦夷は伯父、蘇我入鹿は従兄弟にあたる。
    蘇我氏の一族でありながら蝦夷、入鹿らの蘇我氏本宗家とは敵対しており、中大兄皇子(葛城皇子、後の天智天皇)、中臣鎌足らの反蘇我勢力と共謀して、皇極天皇4年(645年)に起きた乙巳の変(蘇我入鹿暗殺事件)に加担した。
    乙巳の変後に発足した新政権では、石川麻呂は右大臣に任ぜられた。

    『日本書紀』によれば、乙巳の変の4年後の大化5年(649年)、石川麻呂の異母弟・蘇我日向は、石川麻呂に謀反の志があると中大兄皇子に密告した。そして、石川麻呂のもとへは孝徳天皇の軍勢が差し向けられた。石川麻呂は抗戦せず、一族とともに山田寺仏殿前で自害した。石川麻呂は無実であり冤罪であったとされるが、事件の真相については諸説ある。

    山田寺の創建については『上宮聖徳法王帝説』裏書に詳しく書かれており、山田寺について語る際には必ずと言ってよいほどこの史料が引用される。同裏書によれば、舒明天皇13年(641年)「始平地」とあり、この年に整地工事を始めて、2年後の皇極天皇2年(643年)には金堂の建立が始まる。大化4年(648年)には「始僧住」(僧が住み始める)とあることから、この頃には伽藍全体の整備は未完成であったが、一応寺院としての体裁は整っていたと見られる。大化5年(649年)には上述の石川麻呂自害事件があり、山田寺の造営は一時中断する。

    その後、天智天皇2年(663年)には未建立であった塔の建設工事が始められ、天武天皇5年(676年)に「相輪(仏塔の最上部の柱状の部分)を上げる」とあることから、この年に塔が完成したものと思われる。天武天皇7年(678年)には「丈六仏像を鋳造」とあり、同天皇14年(685年)にはその丈六仏像が開眼されている(「丈六」は仏像の像高。立像で約4.8m、坐像はその約半分)。なお、この丈六仏像は頭部のみが奈良市・興福寺に現存し、国宝に指定されている。発掘調査の結果や、出土した古瓦の編年から、以上の創建経緯はおおむね事実と信じられている。なお、『日本書紀』には上述の丈六仏開眼の年である天武天皇14年(685年)、同天皇が浄土寺(山田寺の法号)に行幸したとの記事がある。石川麻呂の死後も山田寺の造営が続けられた背景には、石川麻呂の孫にあたる持統天皇とその夫の天武天皇の後援があったのではないかと推定されている。
    藤原道長がこの寺を訪れている。『扶桑略記』によれば、治安3年(1023年)、山田寺を訪れた道長は、堂内の「奇偉荘厳」は言葉で言い尽くせないほどだ、と感嘆しており、11世紀前半には山田寺の伽藍は健在であったことがわかる。その百数十年後の記録である『多武峰略記』(建久8年・1197年)によると、当時の山田寺は多武峰寺(現在の談山神社)の末寺となり、伽藍は荒廃して、一部建物は跡地のみになっていたことがわかる。
    山田寺は明治の廃仏毀釈で廃寺となり、明治25年(1892年)に再興された。現在は無住で講堂跡付近に観音堂と庫裏が建つのみである。現・山田寺の山号は大化山。宗派は法相宗

    橘寺
    橘寺は、奈良県高市郡明日香村にある天台宗の寺院。正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、本尊は聖徳太子・如意輪観音。
    橘寺という名は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を取りに行った田道間守が持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。

    橘寺の付近には聖徳太子が誕生したとされる場所があり、寺院は聖徳太子建立七大寺の1つとされている。太子が父用明天皇の別宮を寺に改めたのが始まりと伝わる。出生地とされる伝承では、この地に欽明天皇の別宮があり、太子は574年(敏達3)にここで誕生したと言われている。厩戸皇子は太子の本名であるが、その名の由来は母の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのみめみこ)が宮中の見回りの際にちょうど厩戸に来たところで産気づき太子を生んだため、とされている。
    寺伝では、この地は聖徳太子が斑鳩宮に遷るまで過ごした上宮の跡であると伝える。しかし、この伝承のいわれははっきりしない。橘が誕生の地ならば、このあたりに上宮があったはずだ、との推定から生まれた伝承であろう。『日本書紀』には、父の用明天皇が磐余双槻宮で即位したとき、聖徳太子を慈しんで宮の南の上殿に住まわせたと記している。

    史実としては、橘寺の創建年代は不明で、『日本書紀』天武天皇9年(680年)4月条に、「橘寺尼房失火、以焚十房」(橘寺の尼房で火災があり、十房を焼いた)とあるのが文献上の初見である。
    ほとんどの建物は火事で消失してしまい。現存するものは、江戸時代に徐々に再建されたようです。太子堂と呼ばれいる本堂は、元々は講堂でした。中に安置されている本尊は聖徳太子35歳の像(重文)で太子の彫刻としては最も古いものです。収蔵庫には聖徳太子絵伝があり必見です。太子の生涯が屏風に描かれ8幅あるそうなのですが、その内の第3幅、第4幅が展示してあります。太子の11歳から20歳までの様子がよくわかります。
    創建された頃の寺域は、東西870m、南北650mと広大であり、四天王寺式伽藍配置で建てられた金堂、講堂、五重塔などを含め66棟の建物があったという

    岡寺

    東大寺要録』「義淵伝」、『扶桑略記』等によれば、天武天皇の皇子で27歳で早世した草壁皇子の住んだ岡宮の跡に義淵僧正が創建したとされる。史料上の初見は、天平12年(740年)7月の写経所啓(正倉院文書)である。  現在の寺域は明日香村の東にある岡山の中腹に位置するが、寺の西に隣接する治田神社(はるたじんじゃ)境内からは奈良時代前期にさかのぼる古瓦が発掘されており、創建当時の岡寺は現在の治田神社の位置にあったものと推定されている。寺跡は平成17年(2005年)に「岡寺跡」として国の史跡に指定された。

      

    橿原神宮

    初代天皇であると伝えられる神武(じんむ)天皇が、橿原宮で即位したという「日本書紀」の記述に基づき、明治23年(1890)に建てられました。本殿と文華殿は重要文化財に指定されています。

    祭神は神武(じんむ)天皇とその皇后・媛蹈韛五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)です。本殿は京都御所の賢所(かしこどころ)を移築したものです。橿原市を代表する橿原神宮(かしはらじんぐう)で、本殿と神楽殿を訪ねると日本の伝統的な建築美に出会うことができます。