韓伝、百済 沙宅氏、辰王

「魏志韓伝」は約2000字で、倭人伝より20%ほど少ないが、三つの韓(馬韓・弁韓・辰韓)の歴史・風俗がよく分かり、紀元前から3世紀半ばまでの史料である。

辰王は月支国を治む。臣智あるいは加優は(辰王を)<臣雲遣支報安邪淑支濆臣離児不例拘邪秦支廉>の号で呼ぶ

馬韓の一国であるはずの「月支国」を辰韓王である辰王が統治している。まず「臣智」は馬韓の国の官(王といってよい)名だが、「加優」が不明である。しいて考えれば「夫余や高句麗の王族の称号である加」にその中でも優れた・地位の高い者を「加優」と書いたのだろうか、いずれにしても半島人の中の王者クラスの人物たちが、< >内の称号で呼んでいるという。

<辰ウン(サンずいに云)ケン(糸偏に遣)翅報>これを『謎の契丹古伝』では「シウクシフ」と読み「東の大きなクシヒ」すなわち「東の大王」と訳しており、これを是として援用すると、「東の大王で、あやしき聖に降る(お方で)狗邪(伽耶)・秦(辰韓を)を統治する大王」となる。

帯方郡と韓の滅亡
公孫氏が200年代初めに置いた帯方郡を、魏が景初年間(237~9年)に大軍を送って掌握した。そのとき韓の諸国の「臣智」らに「邑君」という称号を与えて支配下に組み入れたが、一部で手違いがあり韓は怒って叛乱を起こしたという。

 部従事の呉林(という事務官)が、「楽浪がもともとは諸韓国を統治していたのだから」とばかり辰韓(12国)のうち8国を分割して帯方郡ではなくはるかに遠い楽浪郡に帰属させてしまった。これについて事務官の説明に納得できない諸韓国の「臣智」たちは激怒し、ついに帯方郡の崎離営(という郡治所)を攻めた。時の帯方郡太守の弓遵および楽浪太守の劉茂は兵を率いて鎮圧したが、弓遵は戦死する羽目になった。
この叛乱の後、両郡はついに韓を滅亡させた。

滅亡後の辰王 ??????? 書かれていない
帯方郡の太守が戦死するほどの叛乱だったが、魏は両郡を督励して三韓、なかんずく叛意の強かった辰韓を強く叩いたであろう。その結果「ついに韓は滅亡した」という。最大の敬意を受けていた辰韓王の帰趨やいかにと思われるところだが、不思議とその記述は無い。

魏志韓伝 本文

韓は帯方〔郡〕の南にあって、東西は海をもって境界とし、南を倭と〔境界を〕接している。〔韓の〕広さは四千里四方ほどである。〔韓には〕三種があり、一を馬韓、二を辰韓、三を弁韓といい、辰韓は昔の辰国である。

魏書 馬韓伝
韓は帯方郡の南に在り、東西は海で尽きる。南に倭と接し、地積は四千里ばかり。韓には三種あり、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓。辰韓とは昔の辰国なり。馬韓は西に在る。その民は土着し、種を植え、養蚕を知っており、綿布を作る。各邑落には長帥(邑落の長)がおり、大首領は自らを臣智と称し、その次が邑借で、山海の間に散在しており城郭はない

馬韓は〔三韓の内で〕西にあって、人々は定住した生活を送り、〔五穀を〕植え蚕を飼い桑を栽培することを知っていて、錦布を作っている。それぞれ〔の国には〕長帥(権力者)がいて、権力の大きな者はみずから臣智といい、それに次ぐ者は邑借という。〔国々は〕山の間や海上に散在していて、城郭は築いていない。〔馬韓の諸国には〕爰襄国・牟水国・桑外国・小石策国・大石策国・優休牟涿国・臣濆活国・伯済国・速慮不欺国・日華国・古誕者国・古雛国・怒藍国・月支国・咨雛牟慮国・素謂乾国・古爰国・莫慮国・卑離国・占離卑国・臣釁国・支侵国・狗慮国・卑弥国・監奚卑離国・古蒲国・到利鞠国・冉路国・児林国・駟慮国・内卑離国・感奚国・万慮国・辟卑離国・臼欺烏旦国・一離国・不弥国・支半国・狗素国・捷慮国・牟慮卑離国・臣蘇塗国・莫慮国・古臘国・臨素半国・臣雲新国・如来卑離国・楚山塗卑離国・一難国・狗奚国・不雲国・不欺濆邪国・奚池国・乾馬国・楚離国などがあり、全部で五十余国になる。〔馬韓諸国のうち〕大国〔の人家〕は万余家、小国は数千家で、〔馬韓の〕総〔戸数〕は十余万戸である。

辰王は月支国〔に都をおき〕統治していて、臣智あるいは特殊な呼称として臣雲〔新国〕の遺支報、〔弁辰〕安邪〔国〕の踧支、濆臣離児(臣濆活)〔国〕の不例、〔弁辰〕拘(狗)邪〔国〕の秦支廉の号がある。その官名には魏から率善邑君・帰義侯・中郎将・都慰・伯長などを与えられている者がいる。

魏書馬韓伝
大国は万余家、小国は数千家、総計十万余戸。辰王は月支国で統治する。臣智あるいは加優と呼ばれる臣雲を(遣支報安邪踧支濆臣離兒不例拘邪秦支廉は意味不明)これを号する。その官名には魏率善、邑君、歸義侯、中郎將、都尉、伯長などがある

〔朝鮮〕侯の〔箕〕準は、以前から勝手に王を称していたが、燕からの亡命者である衛満に〔国を〕攻め奪われてしまった。
『魏略』では〔次のように〕言っている。
昔、箕子の後裔である朝鮮侯は、周が衰え、燕が自分勝手に王となり、東〔にすすんで東方地域〕を侵そうとする〔形勢を見て〕、朝鮮侯もまたみずから称して王となり、軍隊を派遣して逆に燕を撃ち、周室を尊ぶ〔自分の態度を示そうとした〕。しかし、大夫の礼が諫めたので〔出兵を〕止めた。そして〔大夫の〕礼を西に派遣して燕を説得させたので、燕もまた〔東方に〕侵攻するのを止めた。その後、〔朝鮮侯の〕子孫たちが次第に驕虐になったので、燕は将軍の秦開を派遣して朝鮮の西部を攻略し、二千里ほどの地域を奪い取り、満潘汗〔にまで勢力をのばし、そこを〕両国の境界とした。朝鮮は、その後、勢力が弱くなった。

 魏書馬韓伝
すでに侯準は王を僭称していたが、燕の亡名者の衛滿がすべてを奪い取る。
注記① 魏略に曰く。昔、箕子の後裔の朝鮮侯は、周朝の衰退を知った燕が自ら王と尊称して、東の地(朝鮮の領地)を略奪しようとしたので、朝鮮侯もまた王を自称して、周の宗室を尊んで兵をあげ、燕を迎撃しようとしたが、大夫の禮が諌言したことで止めた。
禮を西に遣わして燕を説くと、燕は進撃を止め、攻撃をしなかった。その後、朝鮮侯の子孫がやや驕慢で暴虐だったので、燕は秦開将軍を派遣して、その西方を攻め、二千余里の地を奪い取って、満潘汗を以て国境とした。朝鮮は衰弱した。

秦が天下を統一するに至って、〔秦は〕蒙恬に長城を築かせた。〔かくして秦の領域は〕遼東に及んだのである。この時、朝鮮王に否が即位した。〔否は〕秦が襲ってくることを恐れ、ほぼ秦に服属したが、秦の朝会に参列しようとはしなかった。否が死んで、その子の準が王位についた。〔その後〕二十余年して、中国では陳・項が〔秦に〕反乱して〔蜂起したため〕、天下が乱れた。〔そのため〕燕・斉・趙国の人々は愁え苦しみ、しだいにしだいに亡命して準〔の領域〕に逃れていった。準は、これらの人々を領域の西部に居住させた。

魏書馬韓伝

秦が天下を統一するに及んで、蒙恬に遼東に至る長城を築かせた。その時、朝鮮王の否が立っていたが、秦の襲撃を恐れ、秦に略服して属すも、入朝は拒んだ。否が死に、その子の準が立った。二十余年の後、「陳勝と呉項の乱」が起き、天下は戦乱となる。燕、斉、趙の民は辛苦から徐々に準(朝鮮)に逃れて行った。準はこれを西方に置いた
漢は盧綰(ろわん)を燕王に任じた。朝鮮と燕の国境は浿水と定めた。盧綰は漢に背いて匈奴に入り、燕人の衛満は胡服を着て亡命、東の浿水を渡り、準を訪れて降伏し、西界に居住して昔中国から朝鮮に亡命してきた人々を集めて藩屏(はんぺい=宗室の守護)としたいと準を説いた。準は彼を信頼して寵愛し、博士として敬い、圭の百里を食邑として授けて、西辺の令守とした。満が誘った亡命者たちが徐々に衆をなすに及んで、偽の情報を持たせた使者を準に遣わし、「漢兵が十道に至り、宿衛に入ることを求めている」と準に告げさせ、帰還した準を攻めた。準は満と戦うも、満には敵わなかった。その左右の王族を率いて海に逃れ、韓地に居を構え、韓王を自称した。
注記② 魏略に曰く、その子や親が国に留まり、韓氏の姓を犯す(易姓革命)。準王は海中にあり、朝鮮とは互いに往来しなかった。
その後、絶滅したが、今なお韓人は彼を奉じて祭祀する者がいる。漢代は楽浪郡に属し、四季に入朝してきた。
注記③ 魏略に曰く、初め右渠が破れる前、朝鮮の宰相の歴谿卿が右渠を諫めたが用いられず、東の辰国に亡命した、そのとき彼に随行して国を出た住民が二千余戸、また、朝鮮の貢蕃(属国)とは互いに往来しなかった。

〔前漢時代に入り〕漢王朝は慮綰を燕王にした。朝鮮と燕〔国〕とは●[さんずいに自が上、犬が下]水を境界としていた。〔しかし慮〕綰が〔漢王朝〕に叛き匈奴に逃れると、燕の人である衛満も〔中国を〕亡命して、胡服をまとい、東方〔にすすんで〕●水を渡り、準のもとに行った。そして準に説いて〔次のように〕言った。
〔私をご領域の〕西方境界に住まわせていただきたい。中国の亡命者を集めて朝鮮の藩屏となるためです。
と。準は衛満を信頼し、優遇して博士に任じ、〔諸侯のしるしとして〕圭を賜い百里〔の地〕に封じて、西方の境界を守備させた。衛満は中国からの亡命者を誘い集めた。その〔徒〕党に加わる人々が、しだいに多くなってきた。そこで衛満は、人を準のもとに遣わし〔次のように〕詐りを言わせた。
漢の軍隊が十方面の道から進攻して来ますので、〔王を守るため〕宿衛したいと思います。
そして〔逆に叛いて〕準を攻めた。準は衛満と戦ったが、対抗することができなかった。
〔朝鮮王準は〕身近に仕える官人たちを率いて逃れ、海に出て韓族の地域に〔入り、そこに〕住みつき、みずから韓王と称した。
『魏略』は〔次のように〕伝えている。
準の子や親〔族〕で〔逃亡せずに朝鮮〕国に留まっていた者が、〔準の一族であることがばれない〕ようにするため、姓を韓氏と詐った。準は海〔外の国〕を支配し、朝鮮とは往来しなかった。
〔準の子孫は〕その後、絶滅してしまったが、韓では今なお準の祭祀を信奉する人々がいる。
〔韓は、前〕漢時代、楽浪郡に属していて、季節ごとに〔郡に〕朝謁して来た。
『魏略』は〔次のように〕伝えている。
昔、右渠がまだ〔衛満に〕破られなかったとき、朝鮮の宰相である歴谿卿は、右渠を諫めたのが原因で〔右渠から疎まれ〕用いられなかった。〔そのため歴谿卿は〕東にすすみ、辰国に入った。この時〔歴谿卿につき〕随って〔朝鮮を〕出で〔辰国に〕居住した者は、二千余国であった。そして朝鮮に朝貢する藩〔屏国〕とは往来しなかった。王莽の地皇年間(20-22)に、廉欺の鑡は辰韓の右渠の家臣であったが、楽浪は土地が肥えていて人々〔の生活〕が豊かで楽しいと聞き、〔辰韓を〕逃れて〔楽浪郡に〕来降しようと思い、住んでいた村を出発した。途中、田の中で雀を追っている男子と出会い、彼の言葉が韓人〔のもの〕ではなかったので、問いかけてみると、その男子は〔次のように〕語った。
私は漢人で、名は戸来です。われわれの仲間は千五百人で、材木を切っていました。〔われわれは〕韓に撃たれて捕えられ、みな髪を切られて奴婢にされてしまいました。〔それから〕三年が過ぎ去りました。
〔廉欺〕鑡は、
私は漢の楽浪〔郡〕に降伏しようと思っている。お前もここを去りたいか、どうか。
と、尋ねた。戸来もまた、
去りたい。
と言うので、辰〔韓の廉欺〕鑡は戸来を引き連れて出発し、〔楽浪郡の〕含資県(黄海北道瑞興郡)に到った。〔含資〕県が〔鑡と戸来のことを楽浪〕郡に報告すると、〔楽浪〕郡は〔廉欺〕鑡を通訳に任じた。〔鑡と戸来は〕岑中より大船に乗って〔出発し〕、辰韓の地に入った。〔廉欺鑡は〕戸来に伴われて降伏して来た人々を迎えいれ、ほぼ千人の人々を獲得した。他の五百人はすでに死亡していたのである。〔廉欺〕鑡はこの時辰韓〔の人々〕に諭し告げて〔次のように〕言った。
五百人を還しなさい。もし還さなければ、楽浪〔郡〕が一万の兵を派遣し、船に乗ってやって来て、お前たちを攻撃するだろう。もし還さなければ、楽浪〔郡〕が一万の兵を派遣し、船に乗ってやって来て、お前たちを攻撃するだろう。
〔そこで〕辰韓〔の人々〕は、五百人はすでに死亡してしまった〔ので還すことができない〕。それ故、私たちは、その償いに値いする代償を出しましょう。
と答えた。そして辰韓は、一万五千人の人と、牟(弁)韓の布一万五千匹とを提出した。〔廉欺〕鑡は、これらを収め取って、ただちに楽浪〔郡〕に還った。〔楽浪〕郡は、〔廉欺〕鑡の功績を顕彰するため、冠や頭布また耕地や宅地を与えた。〔廉欺〕鑡の子孫は、数代の後、安帝の延光四年(125)の時になって、この功績の故に〔廉欺鑡は〕ふたたび官位を受けたのである。

魏書馬韓伝
王莽の地皇年間(20年-22年)、廉斯(れんし=地名)の鑡(さく)は辰韓の右渠帥となり、楽浪郡の土地が肥沃で、人民は豊かで安楽に暮らしていると聞き、逃亡して降伏することを望んだ。(そして、鑡が)その邑落を出ると、田中で雀を追い払っている一人の男と出会ったが、言葉が韓人とは違っていた。彼に問うと、男が言うには「我らは漢人で、名を戸来と言い、我らは仲間の千五百人と材木の伐採しているところを韓に襲われ、全員が断髪され、奴隷にされた。もう三年にもなるかな」と応えた 鑡は「私は今から漢の楽浪郡に降るところだが、おまえは行きたくないか?」と言った。戸来は「よし。(行こう)」と応えた。

鑡は戸来を連れて辰韓を出て、含資県に詣でると、県は郡に伝え、郡は鑡を通訳として、芩中から大船に乗って辰韓に入り、戸来を迎え受けた。とともに降った仲間の千人を奪還したが、すでに残り五百人は死んでいた。鑡は辰韓に諭して言った。「汝ら五百人を還せ。もし返還しなければ、楽浪郡は万余の兵を船に乗せて、汝を攻撃しに来るだろう」

辰韓は「五百人はすでに死に、我は人数に値する弁償をするしかない」と言った。

辰韓は一万五千人、弁韓は布を一万五千匹、それぞれが提出した。鑡は値を徴収して郡に還る。郡は鑡の功義を表し、冠幘(かんさく=帽子の名)と田と家宅を賜う。子孫は数世、安帝の延光四年(125年)に至って、故事に対して再び除を受ける。

魏書馬韓伝
桓帝と霊帝の末(146年-189年)、韓と濊が強勢となり、郡県では制することができず、多くの民が韓国に流入した。 建安年間(196年-220年)、公孫康、屯有県以南の荒野を分けて帯方郡とし、公孫摸や張敞などを派遣して後漢の遺民を集めるため、兵を挙げて韓と濊を討伐したが、旧民は少ししか見出せなかった。この後、倭と韓を帯方に帰属させた。

〔後漢時代に入り〕桓帝・霊帝時代(147-189)の末期になると、韓〔族〕や濊〔族〕が強盛となり、〔楽浪〕郡〔とその所属の〕県が〔それらを〕制御することができなかったため、〔郡県の〕住民は多く韓〔族の諸〕国に流入した。
建安年間(196-220)に、公孫康が〔楽浪郡の〕屯有県(黄海北道黄州郡)以南の非支配地に帯方郡を建てた。そして〔帯方郡に〕公孫模・張敞らを遣わし、残留していた〔漢〕人を結集して戦いを始め、韓・濊を攻撃した。〔そこで、韓・濊の地に流浪していた〕旧民たち(もと郡県に統治されていた人々)も、少しずつ出て来るようになった。この後は、倭も韓も遂に帯方〔郡〕に属するようになったのである。

景初年間(237年-239年)、魏の明帝は密かに帯方郡太守の劉昕、楽浪郡太守の鮮于嗣を派遣して、海を越えて二郡を定め、諸々の韓国の臣智らに邑君の印綬を加賜し、その次には邑長に与えた。その風俗は衣幘を好み、下戸(賤民)は郡に詣でて朝謁するときは、皆か衣幘を借り、印綬と衣幘に服する者は千余人。

部従事(官職名)呉林は楽浪を以て元の韓国を統治し、辰韓を八国に分割して楽浪に与えたが、約定が異なり、臣智は激昂、韓は憤怒し、帯方郡の崎離営を攻撃した。その時の太守弓遵、楽浪太守の劉茂は兵を挙げて討伐したが弓遵は戦死、二郡は遂に韓を滅ぼした。

〔三国時代に入り〕景初年間(237-239)に、魏の明帝(在位227-239)は、ひそかに帯方太守(長官)劉昕と楽浪太守鮮于嗣を派遣し、海を渡って〔朝鮮に軍を送り、帯方郡と楽浪郡との〕二郡を平定した。〔そして〕諸韓国の臣智には、邑君の印綬を加え賜わり、〔臣智の〕次の者には邑長の位を与えた。

〔韓の人々の〕風俗は、衣服と頭布を好み、下戸が楽浪〔郡〕や帯方〔郡〕に来て朝謁する時にも、みな衣服と頭布をもらっている。みずから〔すすんで帯方郡から与えられた〕印綬を持ち衣服と頭布とをつけている者は、千人以上もいる。部従事の呉林は、楽浪〔郡〕が以前に韓〔族諸〕国を統治していたことを理由にして、辰韓の八国を〔辰韓から〕分離して、楽浪〔郡〕の領有とした。〔その際、帯方郡の〕役人の通訳〔による説明〕が、しばしば変更した。〔この説明の変更によって、韓諸国の〕臣智だけでなく韓人たち〔全体〕が激怒し、帯方郡の崎離営を攻撃した。この時〔帯方〕太守弓遵と楽浪太守劉茂は、軍隊を率いて〔臣智たち〕を伐った。〔この戦いで弓〕遵は戦死したが、二郡はとうとう韓〔族〕を鎮圧したのである。
〔馬〕韓の習俗は、制度がととのっておらず、諸国の都には主帥(首長)がいるけれども、村落が〔整備されず〕入り乱れていたため、よく統治することができない。〔人々の間には〕跪拝の礼がない。住居としては草屋根の土室(穴)を作り、〔その外〕形は塚のようである。その戸〔口〕は屋根のところにあって、一家の者すべてが〔土室の〕中で生活している。家族の間では、長幼・男女で区別されるところがない。〔人の屍を〕葬るには、〔遺体を納める〕棺はあるが〔棺を納める〕槨はない。また牛馬に乗ることを知らない。牛馬は死体を運送することのみに使用している。また珠玉を財宝として珍重し、或いは衣服に綴りつけて飾りとし、或いは頸にかけたり耳に垂らしたりしている。金や銀また錦織りや繍などは珍重しない。〔馬韓の〕人々の性格は強くて勇ましく、頭髪を分けてぐるぐる巻きにし、髪を露わにしている。〔その姿は〕あたかも自然のままの人間のようである。兵は布製の大きな袖の衣服を着、足には革〔の草履〕を履いている。
国中をあげて行事を行なう時、または国が城郭を築かせる時には、少年で勇健な者たちは皆、自分の背の皮に穴をあけて太い縄を貫し通し、そのうえ一丈ばかりの木をその縄に挿み、一日中大きな声をあげて力づけ、〔これを〕苦痛とはしない。かくて〔村人たちがこの〕作業を励まし、そのうえで〔村人たちは少年たちを一人前の〕健児と認めるのである。
毎年五月には種を播きおわり、鬼神を祭る。人々は群がり聚まって歌舞し飲食する。〔それは〕昼夜を通じて休まず行われ、その舞は、数十人が一緒に立ちあがって調子をあわせ、地を踏むのに、足を低く又は高く挙げ、手と足とは同じような調子で動き、そのリズムは中国の鐸舞に似たところがある。十月に農耕が終われば、またふたたび同じようにする。
〔人々は〕鬼神を信仰していて、各国の都にはそれぞれ一人を立てて天神を祭らせている。この〔人物〕を名づけて天君といっている。また諸国には、それぞれ特別な地域があり、蘇塗とよばれている。〔そこでは〕大木を立てて、その木に鈴や鼓をかけて、鬼神に仕えている。さまざまな逃亡者がその地域に逃げ込めば、〔逃亡者を〕けっして外部に追い出したりはしない。〔このような風習があるので、この地方の人々は〕しばしば〔秩序に反し〕害になることを行なう。〔馬韓で〕蘇塗を作る意味は、仏教に似たところがあるが、行っていることの善悪は異なるところがある。
〔馬韓の〕北部で〔帯方〕郡に近い諸国は少し礼俗をわきまえているが、遠い地域では全く囚人や奴婢の集団のようであり〔礼俗を備えていない。この馬韓には〕珍宝の類はなく、動物や草木はだいたい中国と同じである。大きな栗を産出し、〔その〕大きさは梨のようである。また細尾鶏がおり、その尾の長さはみな五尺余もある。男子には、ときどき文身(いれずみ)している者がいる。
また、州胡がある。馬韓の西方海上の大きな島にある。そこの人は、〔馬韓の人々より〕やや体が小さく、言語も韓族と同じではない。〔彼らは〕みな頭髪を剃っていて鮮卑〔人〕のようである。ただし〔この国の人々は〕なめし皮を着、好んで牛や豚を飼育し、その衣服は、上部があって下部がなく、ほとんど裸のようである。彼らは船に乗って〔海上を〕往来し、韓〔族の居住地〕のいたるところで商売をしている。

魏書馬韓伝
その習俗には綱紀が少なく、国邑に主帥(主君)がいるけれど、邑落で雑居し、善く互いを制御することができない。跪拜の礼はない。住居は草屋根に土の室とし、形は家の如し。その扉は上部にあり、家族全員で共に暮らし、長幼男女の別はない。その葬るには槨はあるが棺はない。牛馬に乗ることを知らず、牛馬は死ぬまで使う。瓔珠(ようじゅ=玉の一種)を以って財宝となし、それを衣に縫って飾ったり、あるいは頸に懸けたり、耳に垂らしたりし、金銀や錦、毛織物を珍宝とはしない。
その族人の性質は剛胆で勇猛、大きな頭を露紒し、日光の兵の如し、綿入れの衣と足には革の草履を履く。その国中に官家があり城郭を築かせる、年少の勇健なる者は、皆、背中の皮に穴を明け、そこに大縄を貫き、また、丈許(秤)の木をこれに挿して、作力と呼んで一日中動き回るが、それを苦痛とはせず、作力を勧め、且つこれを剛健とする。
常に五月に種をまき、鬼神を祭り、群衆で歌舞し、昼夜休みなく飲酒する。その舞いは数十人でともに相手に従って大地を高低に踏み、手足の動作をあわせ、音頭は銅鐸の舞に似ている。十月、収穫をおえると、また再びこの通りにする。鬼神を信じ、国邑で各一人を天神の祭の司祭に立て、これを天君と呼ぶ。また諸国の各々に別邑があり、これを蘇塗という。大木を立てて鈴や鼓を懸け、鬼神に仕える。諸々の亡命者は逃げると、その中に入り、皆、ここから帰らず、好んで賊となる。その蘇塗を立てる儀式は浮屠(仏教)に似ており、所行の善悪には異なりがある。その北方近郷の諸国は礼俗の習熟に格差があり、その遠くに住む者達は囚人や奴婢の集団のようである。

他に珍宝はない。禽獣草木ほぼ中国と同じ。大きな栗を産出し、大は梨の如し。また細い尾長鷄を産出する、その尾は皆長さ五尺余。そこの男は時々全身に刺青がある。また馬韓の西海中の大島上に州胡あり、そこの人は背が低く小ぶりで、言語は韓と同じではなく、皆が頭を鮮卑族のように剃る。ただし毛皮を衣とし、牛や豚を上手に飼育する。その衣には上着あり下穿きはなく、ほぼ裸体である。船に乗って往来し、韓の中で商売する。