『住吉大社神代記』の「長柄船瀬本記」
右。船瀬泊。欲遣唐貢調使調物積船舫造泊天皇念行時。大神訓賜。我造長柄船瀬進矣。
天皇が遣唐貢調使の船の泊を造ろうと思った時、(住吉)大神が、長柄に船瀬の泊まりを造って進(奉)じた。
遣隋使は600年(推古八年)、遣唐使は630年(舒明2年)が初発で、それは長柄の港からとあります。長柄は現在の天神橋六丁目付近で、河内湖の西側の港です。この頃には住吉津は使われていなかったと云うことです。
荷物は長柄で積み、それから住吉に航行して住吉の神に航海成就を祈願してから遣唐使など人々を乗せて出航したのでしょう。
河内湖に土砂が堆積してきたので、全面的に住吉津に移ったと云うことではないでしょうか。
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和気清麻呂の上町台地の開削:続日本紀によれば
延暦7年(788)3月
中宮大夫従四位上兼民部大輔摂津大夫和気朝臣清麻呂言、河内摂津両国之境、
掘 川 築 堤 自荒陵南、導河内川、西通於海、然則沃壌益廣、可以墾闢矣、
於是便遣、清麻呂 勾當其事、應須 單功ニ十三萬余人 給粮従事矣
延暦18年(799)
二月和気朝臣清麻呂薨 云々、清麻呂為摂津大夫、鑿河内川、直通西海、
擬 除水害、所費巨多、功逐不成
書紀は「四天王寺を難波の荒陵に造る」と書いています。
平安初期の『暦録』
推古元年四天王寺、始めて壊し移し、難波の荒陵の東下に建つ。
仁徳紀58年に
「荒陵の松林の南の道に当りてたちまちに二つの歴木(クヌギ)生えたり、道を挟みてふたつは合えり」
とあります(推古とこれ以外に荒陵は登場しません)。
万葉0065
霰打つ安良礼松原住吉の弟日娘女と見れど飽かぬかも