雄略天皇の治世下では、大和や河内の豪族等が武力で制圧され、多くの政略結婚が繰り返された事が伝えられて いる。
大草香皇子が謀殺される
安康天皇の時代の出来事です
大草香皇子は、仁徳天皇の皇子。
母は日向諸県君牛諸井の娘・髪長媛。
「大日下王」「波多ヒ能太郎子」とも書かれる。
安康天皇元(454)年
安康天皇は、大草香皇子の同母妹である草香幡梭姫皇女を、天皇の弟である大泊瀬幼武皇子(後の雄略天皇)の妻としたい旨を申し入れる。
大草香皇子はこの天皇からの申し入れをたいそう喜んで快諾し、その証しとして天皇からの使者である根使主に、自らが大切にしていた秘宝の押木珠縵を、
天皇に献上するするように託した。
大草香皇子が宝としていた押木珠縵の
あまりに見事さに根使主はこれを横領してしまい、その発覚を防ぐために、天皇には、
『其れ同族と雖も、豈吾が妹を以て、妻とすること得むや』
と大草香皇子が天皇からの申し入れを無礼にも断ったと讒言する。
この言葉を信じ激怒した天皇は、朝廷軍を差し向け大草香皇子の邸宅を攻囲し、
大草香皇子を殺す。
安康天皇は草香幡梭姫皇女を大泊瀬幼武皇子の妻とし、大草香皇子の妻であった中蒂姫を強引に奪い、自らの皇后としてしまう。
眉輪王
記紀によれば、父の大草香皇子が罪無くして安康天皇に誅殺された後、母の中蒂姫命は安康天皇の皇后に立てられ、眉輪王は連れ子として育てられた。
大草香皇子の母は、日向髪長姫。安康と雄略天皇は日向と敵対したか?
安康3年(457?)、天皇が眉輪王に暗殺されるという事件が発生する。すかさず安康天皇の実弟である雄略 は、異母兄の二皇子を疑い、眉輪王・円大臣及びその協力者である坂合黒彦皇子を攻め、更に履中天皇の第一皇 子であった政敵の市邊押磐皇子らを滅ぼし、丁酉年11月13日、泊瀬朝倉宮で自ら即位する。大伴・物部を中 心とした伴造系氏族の武力を背景とし、葛城系と見なされる眉輪王らの「葛城系勢力」を排除しての即位であっ た。それはその後、「大伴・物部系」の平群真鳥が大臣、大伴室屋・物部目が大連に任命されている事から、当 時の二大勢力に後押しされての大王就任だった事がわかる。
葛城円
曾祖父は武内宿禰、祖父は葛城襲津彦、父は玉田宿禰。娘は韓媛、雄略天皇の妃。清寧天皇は孫になる。
韓媛
- 安康三年.. 父・葛城円大臣、眉輪王をかくまい、討たれる
雄略元年.. 雄略天皇の妃に冊立
雄略三年.. 娘・斎宮稚足姫皇女、不貞を疑われ、神鏡を埋めて自刃す
清寧元年.. 皇太夫人となる
- 所生の皇子女
清寧天皇〔白髪皇子〕、稚足姫皇女(伊勢斎宮)
*第21代雄略天皇の妃。第22代清寧天皇の母で、清寧朝に皇太夫人(おおきさき)の称号を与えられました。
市辺押磐皇子
眉輪王(雄略の兄)と葛城円大臣を殺害したあと、皇位を狙う雄略にとって最大のライバルは、履中天皇と葛城黒姫の間に生まれた市辺押磐皇子だった。雄略は、皇子を近江に狩りに誘い出し、弓で射殺した。雄略は在位23年でこの世を去る。
雄略天皇と葛城韓媛との間に生まれた清寧天皇が皇位についた。清寧には子がいなかった。
明石郡の縮見屯倉首である忍海部造細目の家で、億計王と弘計王の兄弟を見つけ出した。二王は市辺押磐皇子の遺児
だった。父が雄略のために殺されて以来、ずっと同地に身を隠していたのだったが、弟の弘計王が宴席での舞で名乗りでたのである。清寧は喜び、二人を宮中にに迎え、兄王を皇太子に、弟王を皇子とした。
清寧の死後、二王は皇位を譲り合った。弟の弘計王は「皇太子である兄が皇位に就くのが当然としたのに対し、兄の億計王は、身分を明らかにして迎えられることになったのは弟の功績と譲らなかった。最終的には、弘計王が承諾して顕宗天皇となり、兄の億計王も顕宗の死後、仁賢天皇となるが、二王が譲り合っている間が長かったため、姉の飯豊青皇女が忍海角刺宮で
政治を執った。
人々は「倭辺に 見が欲しものは 忍海の この高城なる 角刺の宮」と歌った。
飯豊青皇女
古事記では、飯豊青皇女は億計王・弘計王の姉ではなく叔母だったとし、二王の発見は皇女の託宣によるものとる。
雄略天皇7年 吉備を滅ぼす
8月、吉備下道臣・前津屋(さきつや)に謀反の疑いありとして一族70人を誅殺する。
吉備上道臣・田狭(たさ)の妻・ワカヒメが美しいと聞き、田狭臣を任那国司として赴かせ、その間にワカヒメを入内させる。さらに田狭の子・弟君を百済に遣り、才芸に巧みな者を連れて来るよう命じる。
田狭は子・弟君に百済と通じるよう命じ、自分は新羅と通じ、半島で勢力を得ようと図る。
雄略天皇8年
2月、呉国へ遣使。使人は身狭村主・青と檜隈民使・博徳。
この歳、高句麗と新羅の間で大規模の戦乱が起こる。任那王は膳臣斑鳩(いかるが)・吉備臣小梨(おなし)・難波吉士赤目子を派遣して新羅を救援する。
雄略天皇9年
3月、紀小弓宿禰を大将軍とする新羅遠征軍がトク(口へんの碌)の地を獲得する。しかし大伴談(かたり)連・崗前久米連が戦死し、紀小弓宿禰も病死する。
5月、小弓宿禰の子・紀大磐(おいわ)宿禰が父の残した部隊・武器を専権的に使用したので、小鹿火(おかび)宿禰・蘇我韓子宿禰と対立し、韓子宿禰は殺され、小鹿火宿禰は一緒に帰還するのを拒絶し、「角国(つぬくに)」に留まった。
7月、田辺史伯孫が誉田陵の下を馬で通ったとき、立派な赤駒に乗った騎士に出会い赤駒と自分の馬を交換してもらうが、翌朝、その赤駒は埴輪になっていたという。
雄略天皇12年
4月、身狭村主・青と檜隈博徳とを呉に使わす
雄略天皇14年
身狭村主・青ら、呉より呉国使と才伎人の縫媛らを連れて帰る。
呉人の供宴の主宰に根使臣(ねのおみ)を選ぶが、根使臣がかぶっていた玉?(たまかずら=金の冠)を見た皇后・ハタヒヒメミコは兄・大草香皇子の所有物と見破る。
根使臣は大草香皇子から奪った物である事を白状し、逃亡するが誅殺され、子の小根使臣ものちに殺される。
雄略天皇15年
渡来人「秦人」の後裔が諸方に分散していたのを集め、秦公酒(はたのきみさけ)に付与する。酒が感謝の貢納品は朝廷にうずたかく積まれたので「ウズマサ(太秦)」姓が与えられる。
雄略天皇18年
8月、物部兔代宿禰と物部目連を遣わし、伊勢の朝日郎(あさひのいらつこ)を討たせる。不手際だった兔代宿禰の猪名部を、朝日郎を討ち取った目連(めのむらじ)に与える。
年表
457年 雄略紀元年(太歳丁酉)
458年 百済の池津媛と石河楯を殺させる(雄略2年7月)
458年 吉野宮に行幸
宍人部、史戸、河上舍人部を置く。
天下は誹謗して「太悪天皇」と言った。史部の身狭村主青と檜隈民使博徳らだけを愛顧した(雄略2年10月)
459年 栲幡皇女が阿閉臣国見の讒言で自殺(雄略3年4月)
460年 天皇が葛城山の狩りで一事主神に出会った(雄略4年2月)
(この頃倭王済=木梨軽皇子?没)
460年 倭国遣使献方物(宋書・考武帝紀 大明4年)
461年 百済の蓋鹵王(455年即位)が弟の毘支君を倭に遣わす
百済の、のちの武寧王が筑紫で誕生(雄略5年6月)
462年 スガルを少子部連とする(雄略6年3月)
462年 倭国王世子興を安東将軍になす(宋書・考武帝紀 大明6年)
詔曰:「倭王世子興、・・・ 宜授爵號、可安東將軍、倭國王。」興死、弟武立。
呉国遣使貢献(雄略6年4月)
463年 少子部連スガルに 「朕、三諸丘の神の形を見たい。捕捉して来い」(雄略7年7月)
(或云、この山の神を大物代主神、または、菟田墨坂神)
スガルが大蛇をとらえてお見せすると、大蛇は雷のような音をさせ、目を輝かせたので、天皇は畏れて、目を蔽い見ずに殿中に退却した
463年 吉備下道臣前津屋(或本云 国造吉備臣山)と同族70人を殺させる(雄略7年8月)
吉備上道臣田狭を任那の国司とする(雄略7年)
田狭の婦人の、稚媛を召し入れ妃とした。稚媛は田狭との間に、兄君と弟君を生んでいた。
(別本云、田狭臣の婦人は名を毛媛という。葛城襲津彦の子、玉田宿禰の娘)
新漢の陶部高貴、鞍部堅貴、画部因斯羅我、錦部定安那錦、訳語卯安那らを上桃原、下桃原、真神原などに移住させる(雄略7年)
463年 宋の孝武帝は高句麗の長寿王を冊封して「車騎大将軍開府儀同三司」とした。
464年 呉国に身狭村主青、隈民使博徳を遣使(雄略8年2月)
高麗と新羅の怨みが始まる
465年 紀小弓宿禰、蘇我韓子宿禰、大伴談連、小鹿火宿禰を新羅に派遣
大伴談連は戦死、紀小弓宿禰は病死 ・・・ (雄略9年3月)
466年 呉国から身狭村主青らが筑紫に到る(雄略10年9月)
水間君が献じた養鳥人らを、軽村と磐余村に安置させた(雄略10年10月)
467年 川瀬舍人を置かせた(雄略11年5月)
467年 貴信が百済国(または呉国人)から逃げ来化(雄略11年7月)
(磐余の呉の琴弾サカ手屋形麻呂らの先祖)
468年 呉国に身狭村主青らを遣使(雄略12年)
470年 呉国から身狭村主青らが呉国の使いと共に帰る(雄略14年1月)
470年 皇后の兄、大草香皇子の名誉回復。根使主の後裔が坂本臣坂本になる(雄略14年4月)
471年 秦造酒がウズマサの姓を賜う(雄略15年)
472年 漢使主が直(アタイ)の姓を賜う(雄略16年)
472年 使臣を北魏に遣わし朝貢した。このときから貢献を2倍にした(高句麗)
474年 物部菟代宿禰と物部目連を遣わし伊勢朝日郎を伐つ
菟代宿禰の所有していた猪名部を物部目連に賜った(雄略18年)
475年 穴穂部を詔置(雄略19年)
475年 高句麗(長寿王)は兵三万で百済を攻め王を殺害した
(百済)文周王が即位。熊津に遷都
476年 高麗王が百済を滅ぼす(雄略20年)
477年 百済を助けるため久麻那利を文周王に賜る(雄略21年)
478年 白髪皇子を皇太子とする(雄略22年1月1日)
478年 順帝昇明二年 (倭王武) 遣使上表
479年 百済の文斤王が亡くなり東城王が継ぐ
昆支王の第二子の末多王に兵器と兵士を与えて百済に送り届けた(東城王)
筑紫の安致臣・馬飼臣らが船軍を率いて高麗を討った(雄略23年)
479年 雄略没(雄略23年8月7日)