高句麗本紀、嬰陽王二十三年条。
隋書(大業八年)をもとにして、高句麗の伝承を加へたもの。
「二十三年(612年)の春正月の壬午に、帝は詔を下して曰はく、『高句麗の小醜は、迷昏不恭にして、勃(渤海)碣(碣石)の間に崇聚(聚集)し、遼濊の境を荐食(侵食)す。復(また)漢、魏、誅戮すると雖も、巣穴(隠れ家)暫傾(しばしば滅び)、亂離多阻し(人々離散し所を失い) 種(族)落ちては還り集ひ、川や藪に往代(かつてのように)に萃(つど)ひ、寔繁(悪人)播(ひろ)まりて以て今に訖(おは)る。彼の華壤(中華の地)を睠(かへりみ)れば、翦(た)ちて夷類(東夷のもの)と爲すこと、歷年永久にして、惡稔りて既に盈(み)つ。天道を禍淫(わざわいみだ)し、亡徴已に兆(きざ)す。常を亂し德を敗(やぶ)ること、圖るに勝(た)へるべからず。掩慝(えんとく)し姦を懷(おも)ふ。唯日不足し、移告の嚴、未だ嘗て受くに面せず、朝覲の禮(朝貢の礼)、躬に親(みづか)ら肯(がえん)ずこと莫く、亡叛を誘ひ納れ、紀極(限度)を知らず、斥(候)邊垂に充(み)ち、亟(あはただし)く烽候(烽火、のろし)に勞し、關柝(関所の警戒の拍子木)之を以て靜かならず。生人、之が爲に廢業す。昔し薄伐在(文帝が高句麗を討った)るも、已に天網に漏れ、既に前禽(前に捕へた虜)の戮を緩め、未だ即ち後に服すを誅(ころ)さざるも、曾(かつ)て恩を懷はず、翻りて惡を長(ま)して、乃ち契丹の黨と兼ね、劉、海戍に虔(つつし)み、靺鞨の服に習ひ、轍ち、遼西を侵軼し、又靑丘(東方、朝鮮)の表(新羅)、咸く職貢を修め、碧海(東海)の濱(百済)、正朔(隋の暦)を同じく稟す(授かる)に、遂に復琛賮(献貢した財貨)を敓攘し(強奪する)、往來を遏絶し、虐すること弗辜(罪なき)に及び、誠なること而して禍に遇ひ、輶車の奉使(風俗言語を調査する役人)、爰(ここ)海東に曁(およ)び、旌節(使者の持つ節)次ぐ所、途藩境を經るに、而して道路を擁塞し、王人を拒絶し、君の心に事(つこうまつ)ること無し。豈に臣之禮を爲すや。此にして忍ぶ可くんば、孰くか容れるべからず。且つ法令苛酷にして、賦斂(租税の取立)煩しく重く、強臣や豪族は、咸く國鈞を執り、朋黨は比周(徒党を組み)し、これを以て俗と成し、貨を賄ふこと市の如く、寃枉(無実の罪や冤罪)申すこと莫し。歳を仍(かさ)ねるを以て災凶重く、屋を比(なら)びて饑饉し、兵戈息(や)まず、徭役に期無く、力を轉輸に竭(つく)し、身を溝壑に填(はま)る。百姓愁ひ苦しみ、爰に誰か適從(主君として従う)せん。境内では哀惶(哀恐)し、其の弊に勝(た)へず。首を廻りて内に面し、各おの性命之圖を懷ひ、黄髮稚齒(老人と長寿老人)、咸く酷毒之歎を興す。俗を省み風を觀るに、爰に幽(州)・朔(州)に屆(登)りて、人を弔し罪を問ふこと、再び駕(行)して俟つこと無し。
是に於て、親(みずか)ら六師を摠べ、九伐を用申し、厥の阽危(崖っ縁)を拯(すく)ひ、天意に恊從し、玆の逋穢(賊)を殄(たや)し、先謨(文帝)を剋く嗣ぎて、今、宜しく律を授り啓行(先導)し、麾(指揮権)を届路(登路)に分け、渤海を掩(おほ)ひて雷震し、扶餘を歷(こ)すこと以て電掃す。戈(ほこ)を比(なら)べ甲(よろひ)を按(しら)べ旅を誓(いましめ)て後に行く、三令して五申せよ。必勝にして後に戰へ。左の十二軍は、鏤方(ろうほう)・長岑(ちょうしん)・溟海(めいかい)・蓋馬(がいば)・建安・南蘇(なんそ)・遼東・玄菟(げんと)・扶餘(ふよ)・朝鮮・沃沮(よくそ)・樂浪(らくろう)等の道に出ず。右の十二軍は、黏蟬(てんぜん)・含資(がんし)・渾彌(こんび)・臨屯(りんとん)・候城・提奚(ていけい)・踏頓(とうとん)・肅愼(しゅくしん)・碣石・東暆(とうし)・帶方(たいほう)・襄平(じょうへい)等の道に出ず。絡繹引途し(人馬往来絶え間なく引き続く) 平壤に摠集すること、凡そ一百十三萬三千八百人、二百萬を號し、其の餽輸者はこれに倍す。南桑乾水の上に宜社し(土地の神を祭り)、上帝を臨朔宮の南に類し(米、犬牲で祭る)、馬祖を薊城の北に祭る。帝は親ら節度を授け、毎軍に上將・亞將各おの一人、騎兵四十隊、隊百人、十隊を團と爲し、歩卒は八十隊、分けて四團と爲し、團に各おの偏將(副將)一人有り。其の鎧(よろい)胄(かぶと)纓拂(ひも)旗旛(はた)、團毎に色を異にし、日に一軍を遣し、相去ること四十里、營を連ね漸進し、終に四十日にして發ち、乃ち盡く。首尾相ひ繼ぎ、鼓角相ひ聞き、旌旗は九百六十里に亘る。御營内は、十二衛・三臺・五省・九寺を合せ、内外、前後、左右の六軍を分隷し、次後して發ち、又八十里に亘る。近古の出師の盛なること、未だこれ有らざる。
二月に、帝は師を御し、進みて遼水に至り、衆軍摠會す。(遼)水に臨みて大陣と爲す。我(高句麗)が兵阻水(険しい遼水)にて拒守(堅守)す。隋兵は濟(わた)ることを得ず。帝は工部尚書の宇文愷(うぶんがい)に命じて、浮橋三道を遼水の西岸に造らせ、既に成りて、橋を引きて東岸に趣くも、短にして丈餘り岸に及ばず。我が兵大きに至り、隋兵の驍(たけ)し勇者は、爭ひて水に赴き接戰す。我が兵高きに乘りて(高地より)これを撃ち、隋兵は登岸することを得ず、死者甚だ衆し。麥鐵杖(ばくてつじょう)躍びて岸に登り、錢士雄(せんしゆう)・孟叉(もうさ)等と、皆戰死す。乃ち兵を斂(おさ)め橋を引き、復た西岸に就き、更に少府監の何稠(かちゅう)に命じて橋を接がしむ。二日にして成り、諸軍相ひ次ぎ繼ぎて進み、東岸に大きに戰ふ。我が兵は大きに敗れ、死者は萬を計(かぞ)ふ。諸軍、勝に乘りて、進みて遼東城を圍む。則ち漢の襄平城なり。車駕遼に到り、詔を下し天下に赦し、刑部尚書の衛文昇(えいぶんしょう)等に命じ、遼の左の民を撫して、復十年を給ひ、郡縣を建置し、相を以て統攝(統領)せしむ。
夏五月に、初めて、諸將の東に下るなり。帝はこれに戒めて曰く、凡そ軍士の進止は、皆須ず奏聞し報を待て。專擅を得ること無かれ。遼東數(たびたび)出て戰ふこと不利にして、乃ち嬰城(籠城)して固守す。帝諸軍に命じてこれを攻めしめ、又諸將に勅す。高句麗、若し降せば、即ち宜しく撫して納れ、兵を縱つを得ず(攻撃してはいけない)。遼東城將に陷ち、城中の人輒(すなは)ち言ひて降を請ふ。諸將旨を奉じて敢へて期に赴かず、令を先して奏を馳し、報に比(したが)ひて至る。城中の守禦亦備はる(伝令が往来する間に攻撃がなく防御態勢が回復した)。隨出づも拒みて戰ふ。かくの如きこと再三にして、帝は終に悟らず。既にして城久しく下らず。
六月己未に、帝は遼東城の南に幸し、其の城池の形勢を觀て、因りて諸將を召して、これを詰責して曰く、公等は自ら官の高きを以て、又家世(代々続いてきた家柄)を恃(たの)みて、暗懦を以て我を待たんと欲すや。都に在りし日に、公等皆我が來るを願はざるは、病を見敗るを耳にするを恐る。我は今此に來て、正に公等の所爲を觀れば、公輩を斬らむか。公今死を畏れ、肯(がえん)じて力を盡すこと莫きは、我公を殺すこと能はざるを謂ふや。諸將は咸く戰懼失色し、帝は因りて城の西數里に留止し、六合城に御す。我(高句麗)が諸城は堅守にして下らず。左翊衛(さよくえい)大將軍の來護兒(らいごじ)は江・淮の水軍を帥し、舳艫(船首と船尾)數百里にして、海に浮びて先進し、自水に入り、平壤を去ること六十里にして、我軍と相遇す。進撃して大きにこれを破る。護兒は勝に乘りて其の城に趣くを欲す。副摠管の周法尚(しゅうほうしょう)これを止め、諸軍を俟ち至りて倶に進むを請ふ。護兒は聽かず。精甲數萬を簡(わ)け、直に城下に造(いた)る。我が將は羅郭内の空寺の中に兵を伏し、兵を出し、護兒と戰ひて僞りて敗れ、護兒逐に之(ゆ)きて入城し、兵を縱ち俘掠し、復部伍する(隊列を戻す)こと無し。伏兵發して、護兒大きに敗れ、僅かにして免るを獲て、士卒還る者、歩(兵)は數千人に過ぎず。我軍は追ひて舡(ふね)の所に至る。周法尚陣を整へてこれを待つ。我が軍は乃ち退く。護兒は兵を引きて還りて海浦に屯す。復た留りて諸軍と應接すること敢へてせず。
左翊衛大將軍の宇文述(うぶんじゅつ)は扶餘道に出で、右翊衛大將軍の于仲文(うちゅうぶん)は樂浪道に出ず。左驍衛(さぎょうえい)大將軍の荊元恒(けいげんこう)は遼東道に出で、右翊衛大將軍の薛世雄(せつせいゆう)は沃沮道に出ず。右屯衛(うとんえい)將軍の辛世雄(しんせいゆう)は玄菟道に出で、右禦衛(うぎょうえい)將軍の張瑾(ちょうきん)は襄平道に出ず。右武侯將軍の趙孝才は碣石道に出で、涿郡太守、檢校、左武衛將軍の崔弘昇(さいこうしょう)は遂城(すいじょう)道に出ず。檢校、右禦衛、虎賁(こほん)郞將の衛文昇は增地道に出で、皆、鴨淥水の西に會す。述等は、瀘河・懷遠の二鎭より(出)兵す。人馬皆に百日の糧を給し、又甲(よろい)・槍(やり)矟(さく、矛の一種)并せて衣資(衣料材料)・戎具(従軍器材)・火幕(火「10人」毎のテント)を給して排し、人別に三石に已に上り、重きこと能く勝へて致すこと莫し。令を軍中に下し、米粟を遺棄する者は斬り、士卒は皆、幕の下に坑を掘りこれを埋む。行きて中路に及ぶに纔(さい)して、糧已に將に盡(つ)く。
王(高句麗王)大臣の乙支文德(いつしぶんとく)を遣し、其の營に詣で詐りて降す。實は、虚實を觀むと欲す。于仲文は先に密旨を奉りて、若し王及文德が來たるに遇へば、必ずこれを擒へむとす。仲文將にこれを執る。尚書右丞の劉士龍(りゅしりゅう)は慰撫使を爲し、固くこれを止む。仲文遂に聽(ゆる) し文德は還る。既にしてこれを悔む。人を遣して文德に紿(いつは)りて曰く、更に言ふこと有るを欲す。復た來る可し。文德は顧ず、鴨淥水を濟(わた)りて去る。仲文と述等、既に文德を失ふ。内に自ら安んぜず、述は糧は盡くを以て還るを欲す。仲文は議して精鋭を以て文德を追ふ。以て功有る可し。述は固くこれを止む。仲文は怒りて曰く、將軍が十萬の衆に仗(よ)りて、小賊を破ること能はずんば、何の顔を以て帝に見(まみ)ゆ。且(また)仲文はこれを行ひて、固より功無きを知る。何すれぞ則ち古の良將能く成功するは、軍中の事、決すること在るは一人、今、人各おの心有り。何ぞ以て敵に勝たむ。
時に帝は仲文を以て計畫有り。諸軍に令して節度を諮稟(判断を仲文に仰ぐ)せしむ。この言有るが故に、是に由り、述等は已むを得ずこれに從ふ。諸將と水を渡り文德を追ふ。文德は述の軍士に饑色有るを見て、故にこれを疲れさせんと欲す。戰ふ毎に輒(すなは)ち走(にげ)る。述は一日の中に七たび戰ひて皆捷(か)つ。既に驟勝(突然の連勝)に恃みて、又群議を逼(せま)りて、是に、遂に東に進み薩水を濟り、平壤城を去ること三十里にして、山に因りて營を爲す。文德復使を遣して詐りて降す。請ひて述に曰く、若し旋師(兵を戻す)せば、當に王を奉りて、在所に朝行せむ。述は士卒が疲弊し、復戰ふ可からず、又平壤城の險固にして、猝(にわか)に拔くこと度し難きをを見て、遂に其の詐に因りて還る。述等は方陣を爲して行き、我が軍は四面に鈔(かす)めて撃ち、述等は且つ戰ひ且つ行く。
秋七月に、薩水に至り、軍は半ば濟り、我が軍は後より其の後軍を撃つ。右屯衛將軍の辛世雄が戰死す。是に、諸軍倶に潰れ、禁止す可からず、將士奔(に)げて還る。一日一夜にして、鴨淥水に至る。四百五十里を行き、將軍で天水の王仁恭(おうじんきょう)が殿(しんがり)と爲り、我が軍を撃ちこれを却(しりぞ)く。來護兒は述等が敗れるを聞きて、亦引き還る。唯衛文昇の一軍獨り全し。初に、九軍遼を度ること、凡そ三十萬五千。還りて遼東城に至るに及ぶは、唯二千七百人。資儲する(もちたくわへた)器械は巨萬を計ふも、失亡し蕩盡す(使い果たす)。帝は大きに怒り、述等を鎖に繋ぎ、癸卯に引き還る。初めて、百濟王の璋(しょう;武王)は使を遣はし、高句麗を討つを請ふ。帝は之を使して我が動靜を覘(うかが)はす。璋は内(々)に我(高句麗)と潛通す。隋軍將に出で、璋は其の臣の國智牟(こくちむ)を使とし、隋に入りて師期すを請ふ。帝は大きに悅び、厚く賞賜を加へ、尚書起部郞の席律(せきりつ)を遣はし、百濟に詣(ゆ)き、以て會する期を告げしむ。隋軍が遼を渡るに及び、百濟は亦嚴兵を境の上(ほとり)にし、隋を助くと聲言す(いいふらす)も、實は両端を持つ(二股をかける)。
是の行たるや、唯遼水の西におけるのみ、我が武厲邏(ぶれいら)を拔き、遼東郡及び通定鎭を置きたるのみ」。