笠沙の岬は、何処か
<古事記>
此地は空国に向ひ、笠沙の岬に真来通(まきとほ)りて、朝日の直刺(たださ)す国、夕日の日照る国ぞ、かれ、此地はいと吉き地
<日本書紀>
吾田の長屋の笠沙の碕に至ります
阿多津比売木花之佐久夜毘売
「阿多」は、薩摩国阿多郡阿多郷{鹿児島県加世田市から野間半島にかけての地域}といわれる。「阿多」は鹿児島の阿多ではなくて、宮崎県の吾田(あがた)との説もある。
『日本書紀』神代紀下に「吾田長屋笠沙之碕」とあり、阿多隼人の本拠地です。
神代紀下は神吾田鹿葦津(かむあたかしつ・かむあたかあしつ)姫、別名 木花開耶姫。
天孫[天迩岐志国迩岐志天津日高日子番能迩迩藝命]の求婚に応じ、父 大山津見神は、姉 石長比売とともに貢りますが、姉は醜いとして帰されます。後に[木花之佐久夜毘売]は妊娠しますが、[迩迩藝命]が一夜の交わりで妊娠するわけがないと疑ったので、姫は出入り口のない「八尋(やひろ)殿」を建てて中に篭もり、「私の産む子が国津神の子であれば無事には生まれない。天神の子であれば無事に生まれるだろう」と言ってその産屋に火を付けて子を産みます。
その火が盛んに燃える時に生まれた子は火照命、次に火遠理命{亦の名は天津日高日子穂々出見命]です。
大和國添上郡 和尓坐赤坂比古神社
御祭神 阿田賀田須命 市杵嶋比賣命
境内式内社 和尓下神社二座
春日社および八幡社
『日本書紀』の神武天皇即位前年の箇所に「和珥の坂下に居勢の祝(はふり)という者がいる」とあり崇神天皇十年に武埴安彦の謀反を討つために大彦命が派遣され「和珥の坂に到着した」とあり、さらに大彦命と和珥氏の祖・彦国葺が派遣され忌瓮(神祭りに用いる酒などを入れる容器)を和珥の武鐰(すき)坂の上に据え、精兵を率いて奈良山に登って戦ったとある、和珥の坂、和珥の武鐰坂は、当社の赤坂のことらしい。
吾田片隅命 大国主命の6世孫。
「新撰姓氏録(右京神別下)」に「宗形君、大国主命六世孫、吾田片隅命之後也」とあり、「同(大和国神別)に「和仁古、大国主命六世孫、阿太賀田須命之後也」とある。つまり、宗像氏と和邇氏は同族あるいは主従関係ということになる。
飛鳥坐神社
加美郷鳥形山尾前に「飛鳥坐六箇處神社四座」があったという伝承があり、 ここでは、主神4神の他に、境内に加夜奈留美命と宇須多伎比売命とが祀られ ていたとされている。このことから見て、飛鳥坐神社(四座)には、主神4神の他に、後裔神である 加夜奈留美命と宇須多伎比売命を含め、合計6神が祀られていたのではないか。
このように考えると、出雲國造神賀詞に「賀夜奈流美命は飛鳥の神奈備に坐す」と あるのと、延喜式神名帳の飛鳥坐神社とは整合性がとれることになります。
吉備津彦命より五代目の加夜臣奈留美命が、吉備の中山の麓の茅葦宮という斎殿の跡に社を建立し、祖神である吉備津彦命を祀り相殿に八柱 の神を祀ったのが吉備津宮正宮の始まりであるという。
吉備津彦命が7代天皇孝霊の息子だとすると、カヤナルミその5代目と云う事は11代天皇垂仁の頃の人?
飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社
飛鳥川上流の丘陵上に鎮座する。祭神は本来一座であったが三座となり、中央に宇須多伎比売命、右に神功皇后、左に応神天皇を配祀している。
主神は宗像神で、天照大神と素戔鳴命との誓約の間に生れた神として事代主命や賀夜奈流命の母神である。
俗に宇佐宮と呼ばれているが、神社の沿革は詳らかでない。拝殿両脇の石灯籠に「八幡宮」とある。延喜式神名帳にその名が見えるが、後に八幡神を祭祀し、宇佐八幡と呼ばれるようになった。
大和志にはこの神社について「在稲渕村、今称宇佐宮、与栢森、入谷、畑村共預祭祀」とし、太玉、櫛玉、賀夜奈流美、宇須多伎の四神を合祀するとある。後世応神天皇、神功皇后を配祀し、さらに仁徳天皇、武内宿禰を併祀したものである。
延岡市が吾田か? 吾田之長屋之笠沙ノ碕
延岡市の中心にそびえる山、現在名「愛宕山」日本書紀及び古事記に記載の笠沙の岬ではと言われています。愛宕山は昔は笠沙山と呼ばれていましたが、1601年高橋元種氏が亀井城を築城に際し、亀井城跡の愛宕神社を移転をせざるを得なくなり、現地(愛宕山)に神社をお移しになられたおりから、愛宕山と称するようになったと謂われています。
記紀伝説では、には天孫ニニギの尊が「吾田之長屋之笠沙之碕二留リ住シ」とあり、現在も安賀多と言う地名は残ります。古来よりこの地はあがたと呼ばれており、1614年 有馬直純がこの地に移封されます時に、県(あがた)城を延岡城と呼ぶまで、延岡の地は県(あがた)と呼ばれていました、字は英多郷、吾田、縣、現在の安賀多等と色々な当て字が使われていたようです。
奈古神社(なごじんじゃ)宮崎市南方町御供田1192番地
天津彦々火瓊々杵尊 鵜葺草葺不合尊 神日本磐余彦尊(神武天皇)
由緒
創建 奈古神社の創建は古く、成務天皇の御代と伝えられる。
由来 奈古神社は古く権現と称され、その後神武天皇を宇佐八幡と崇めたことから奈古八幡宮の勅号を得、また、古来より吾田長屋という地名にちなんで長屋神社とも呼ばれ明治4年に奈古神社と改称されている。
明治7(1874)年、維新政府は日向3代の神陵を定めた
それは旧薩摩藩の学者の主張を根拠に、明治初めの鹿児島の政治力を背景に同県内に定めたから、以後、南九州各地に伝わる3代の神陵の伝承地についての活発な反論が出されることになった。「アマツヒコヒコホノニニギノミコト」の御陵「可愛山陵」についても同様で、政府はその反論に逆らえず、同29(1896)年、北川町俵野可愛を「御陵伝承地」、西都市西都原を「御陵墓参考地」と定めた。
地勢をみると、可愛山東面から3筋の尾根が延び、中央の地は字で「可愛良」、山は可愛山とも、「エン嶽(えんだけ)」とも呼んでいる。
同じような伝説が、西都市(都万神社=つまじんじゃ)、鹿児島県南さつま市(旧加世田市、笠沙町など1市4町が合併)の笠沙町、北九州市八幡西区岡田町などにもある。
岡田の宮 福岡県北九州市八幡西区岡田町
崗地方(旧遠賀郡)を治めていた熊族が洞海・菊竹浜(貞元)に祖先神を奉斎した地主神にて、岡田の宮と称し、この地を熊手と号す。神武天皇日向国より東征の途次、当宮に詣り天神地祇の八神(八所神)を奉斎し、この地に留まり給う由「古事記」にある。
仲哀天皇8年(199年)、神功皇后、三韓征討の折、崗県主祖・熊鰐の案内で熊手出岬(皇后崎)に到り、当宮に詣り八所神を親祭する由「日本書紀」にある。
中殿(岡田宮)神日本磐余彦命[神武天皇]
右殿(熊手宮) 大国主命、少彦名命、県主熊鰐命
左殿(八所宮) 高皇産霊神、神皇産霊神、玉留産霊神、生産霊神、足産霊神、大宮売神、事代主神、御膳神
大宮売神、事代主神、御膳神を祀っている。
膳の神 安曇宿禰継成(あづみのすくねつぐなり)
延暦11(792)年3月18日、内膳奉膳であった安曇宿禰継成は、高橋氏との内膳たる勢力争いに敗れる。勅命を承けず人臣の礼無しとして、絞刑に処せられるべきところを特旨をもって死一等を減ぜられ、佐渡に配流された。
789年(延暦8)に家記、792年に太政官符を付加して提出された、阿倍・膳氏系の「高橋氏文」に象徴されるように、当時、12月11日の月次祭(つきなみまつり)の夜に行われる神今食(じんごじき・かんいまけ)の神事に際し、両氏はしばしば行立の前後を争っていた。しかしながら、高橋氏が天皇の膳夫として奉仕し始めたのは、12代景行天皇に仕えた磐鹿六雁命であるのに対し、阿曇氏は15代応神天皇に仕えた大浜宿禰が最初であり、膳氏系高橋氏が先だという「高橋氏文」の主張で、阿曇氏は常に敗退の辛酸をなめた。かくして、阿曇氏は内膳たる正当性を失い失脚する。
阿曇比邏夫・ 安曇連比羅夫命(あづみのひらぶ)
大和朝廷水軍の長官。662年、新羅と唐とに攻められた百済を救うために水軍を率いて出征したが、翌年白村江で唐軍に敗北し、軍を収めて帰国した。穂高神社の祭神の一柱。有名でありながら、阿曇氏の系図には登場しない。名前が酷似し、経歴も似ている阿倍比羅夫(あべのひらぶ)とある。阿倍氏は、阿曇氏と奉膳を分け合い、後に、阿曇氏との勢力争いを有利にするため「高橋氏文」という自家の由緒書を朝廷に提出して、内膳としての正統性を主張した高橋氏と同族。
神功皇后は、阿曇氏の海人と同時に、阿倍氏の吾瓮海人烏摩呂(あへのあまおまろ)も新羅への偵察に出しており、阿曇磯良のことという「あとへのいそら」という。
日本書紀(皇極紀)では姓(かばね)を安曇山背連(やましろのむらじ)としている。穂高神社のお船祭りの日(9月27日)は安曇連比羅夫命の命日というから、山背国(京都府南部)から、なんらかの理由(白村江の敗北で左遷か?)で同族の住む安曇野に移住したのかもしれない。そして安曇野をさらに開拓する。穂高神社の創始は天武朝とうから、この人なのかもしれない。
原初の阿部氏
この時代、記紀には、崗県主熊鰐と吾瓮海人烏摩呂(あへのあまおまろ)
また、記紀伝承にはないものの、神楽の「塵輪」や「八幡宮縁起(島根県那賀郡雲城村八幡宮所蔵)」に登場する仲哀天皇の腹心、安倍高(竹)丸と助丸がいる。この高丸、「塵輪」では英雄なのに、「諏訪大明神絵詞」などには、坂上田村麻呂をてこずらせた悪者として登場している謎の人物だ。蝦夷の王という観点から、奥州の安倍氏の人だとも言うが??
神功皇后(14代仲哀天皇皇后)が新羅を征して凱旋し、大嘗会を行なった時、安倍氏の祖先が「吉志舞」を奏したという。舞を奏し、内膳として仕える。阿倍氏は吉師部を統率していた伴部と考えられる。
安部難波吉師と焼き物
吉師氏は、大阪府吹田市に本拠を持つ豪族で、吹田駅の一つ京都よりに「岸部(きしべ)」とう地名が残っている。岸部駅北西の吉志部神社が奉斎社で、祭神は、天照大神・八幡大神・素戔嗚大神・稲荷大神・春日大神・住吉大神・蛭子大神の七神。
吉志部神社の社家は「岸氏」。社伝には、崇神天皇56年、大和瑞籬(大和の布留の社の石上神社・社家物部氏)より奉遷し、「太神宮」として創建されている。
津守氏の住吉区に近い阿倍野からはかなり離れているにもかかわらず、彼らは「安部難波吉師(あべなにわきし)」と呼ばれ、紫金山麓に一大瓦工房を造り、難波宮や平安京の瓦を作り続けた。吹田は淀川水運の要所で、継体天皇ゆかりと思われる「三国」の地名もある。同じ「吉志」の地名が、和布刈神社の北九州市門司区にある。
記紀は、難波の吉師氏の祖は、仲哀天皇の長男忍熊王(おしくまのみこ)の腹心の部下で、応神&神功の軍に攻められて一緒に入水自殺した、五十狭茅宿禰(いさちのすくね)としている。
大彦命の子に、波多武日子命(はたたけひこのみこと)という人がいて、この方が難波吉士(なにわきし)三宅人の祖となっている。
出雲の天穂日の子孫の五十狭茅宿禰
この阿倍氏の波多武日子命の妹、御間城姫命が産んだ11代垂仁天皇の和風謚号は、なんと「活目入彦五十狭茅命」という。当時の皇子は、母方の乳部の名をもらうことが多く、垂仁天皇は「五十狭茅」という名を阿倍氏から貰った可能性が高い。五十狭茅宿禰と阿倍氏の波多武日子命の関係は?
海上五十狭茅(うなかみいさち)が吉師氏の五十狭茅宿禰の子である。この人を祖とする生田神社社家は、海上(うなかみ)氏を名乗った。兵庫区に生田神社の祭主家・海上五十狭茅の子孫が住んでいたという。
和邇氏族の春日市河を祖とする物部氏系の高橋氏
高橋氏には、この阿倍氏の支族とは別系統として、高橋神社(祭神:栲幡千千媛、奈良市八条町菰川)の「高橋」邑から出て、弥彦神社(祭神:天香語山命、新潟県西蒲浦郡弥彦村弥彦)の越後彌彦大宮司家をはじめ、特に北関東・東北の八幡社や山王社の神職についている、この阿倍氏とよく同族とされる和珥氏の春日市河を祖とする物部氏系の高橋氏がある(注:「古代豪族系図総覧(東京堂出版)」の越後彌彦大宮司家・高橋氏の項には、「高橋祝というのは他に徴証なく、出自は不明。弥彦社を創建した高橋祝の祖、光孝の5世孫、光任は大宅光任らしいが、そうだとするとこれは大宅氏(和珥氏支族)の後から出た高橋氏を知って、ここに紛れ込ませたもののようである。」と注釈があり、高橋祝氏と和珥氏系の高橋氏は別系等という説もある。)という。
その証拠に、大和国添上郡の延喜式内社「高橋神社」は、上記の八条町菰川の高橋神社の他に、和爾下神社・上治道天王神社の項に記載されることから、現在の所在地として、和邇氏の奉斎する和爾下神社(奈良県天理市櫟本町宮山)にも比定されている。
阿倍氏と和珥氏には、高橋氏という支族がいるという共通点があるのだ。和珥氏系の高橋氏も、北関東&東北に多いというのが安東氏を思わせるし、両者が混同されている。