阿倍仲麻呂

旧唐書

 開元初、又遣使來朝、因請儒士授經。詔四門助教趙玄默就鴻臚寺教之、乃遺玄默闊幅布以為束修之禮、題云「白龜元年調布」。人亦疑其偽。所得錫賚、盡市文籍、泛海而還。其偏使朝臣仲滿、慕中國之風、因留不去、改姓名為朝衡、仕歴左補闕、儀王友。衡留京師五十年、好書籍、放歸郷、逗留不去。

 開元初(713年)、また遣使が来朝し、儒士に授経を請うた。詔を以て四門学の助教の趙玄默が鴻臚寺に就いて、これを教授した。玄默に修学の謝礼として大きな幅布を贈り、題して「白亀元年の調布」という。人はまたその真偽を疑った。所得錫賚、盡市文籍、泛海而還。その偏使の朝臣仲満(阿倍仲麻呂)、中国の風を慕い、因って留まって去らず、姓名を朝衡と改め、左補闕、儀王友を歴任。朝衡は京師に留まること五十年、書籍を好くし、帰郷させたが、逗留して去らなかった。

阿倍仲麻呂のことが特記されている
日本国からきた遣唐使で、中国からみると一番目立った存在は阿倍仲麻呂であった。
『旧唐書』の「倭国伝」「日本国伝」という在り方は、阿倍仲麻呂の報告によるか?

唐の国家の高級官僚となり、長安にいた。同じ記録官、起居注を書いた日常の記録官や、歴史官僚も同じ長安にいて、しかも史官や記録官よりは身分の高い仲麻呂の意見を聞いていると思われる。

701 大宝元年生誕 (698年説もあり)
716 仲麻呂16歳で遣唐使に任命される
留学生=吉備真備、玄JIS+7A37 (続日本紀)、井真成?
717 遣唐使長安へ
718 遣唐大使らは帰国
724 聖武天皇即位
733 遣唐使 栄叡、普照ら
735 玄JIS+7A37、吉備真備ら帰国
743 鑑真第一次、二次渡航失敗
748 鑑真第五次渡航失敗、海南島漂着
749 鑑真失明、祥彦没、栄叡没
750 遣唐使に藤原朝臣清河、大伴古麻呂、吉備真備らを任命
753 朝賀の際に新羅との席次問題
仲麻呂、鑑真、吉備真備ら帰国の途に
755 安禄山の乱
762 玄宗皇帝没
770 仲麻呂没
「仲満(仲麻呂)は中国の風を慕い、帰国せず留まり、姓名を晁衡(ちょうこう)と改めた。衡は京師に留まること50年、書籍を愛し帰国の許可を与えても帰らなかった。」

仲麻呂が唐朝で就いた役職から、科挙に合格していたと推定されている。最高位は秘書監で従三品、その後、鎮南都護、安南節度使、贈潞州大都督。仲麻呂が受けたと推定されているのは、科挙のうち最難関コースの進士科で、試験科目は「帖経」儒家の経典の知識を問うもの、「詩賦」詩や賦の優劣を競うもの、および「時務策」時事問題に関する論文である。唐だけでなく歴代の中国王朝は外国人、異民族、異教徒でも能力があれば重用したと言える。仲麻呂だけでなくマルコ・ポーロやイスラム教徒の鄭和なども重用されている。

玄宗皇帝、王維らが仲麻呂の帰国に際し送別詩を送り、仲麻呂はそれに答える詩を残している。また、李白は仲麻呂が帰国の途上、遭難死したと聞いて死を悼む七言絶句「晁卿衡を哭す」を残す。

天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも

この有名な百人一首にもある仲麻呂の歌は、唐土にて月を見て詠んだ歌と注釈されている。仲麻呂作とされるこの歌には、実作説、偽作説、仮託説、伝承歌説があるらしい。実作説は少数派らしい。偽作説には、そもそも中国語による漢詩だったという原漢詩説がある。仮託説と伝承歌説は、作者不明の歌を仲麻呂の作とした(仮託)というもので、それを伝承したものが伝承歌説である。この歌は905年編集の古今和歌集に収められている。

開元の初め(玄宗の時代・713~741)また使者が来朝してきた。その使者は儒学者に経典を教授してほしいと請願した。玄宗皇帝は四門助教(教育機関の副教官)の趙玄黙に命じて鴻盧寺で教授させた。

日本の使者は玄黙に広幅の布を贈って、入門の謝礼とした。その布には「白亀元年の調布(税金として納めたもの)」と書かれているが、中国では偽りでないかと疑った。

日本の使者は唐でもらった贈り物を全部、書籍を購入する費用に充てて、海路で帰還していった。

その副使の朝臣仲満(阿倍仲麻呂)は中国の風習を慕って留まって去らず、姓名を朝衡(ちょうこう)と変えて朝廷に仕え、左補闕(さほけつ・天子への諫言役)、儀王(第12王子)の学友となった。朝衡(仲麻呂)は京師に50年留まって書籍を愛好し、職を解いて帰国させようとしたが、留まって帰らなかった。

天宝12年(753)。日本国はふたたび使者を送って朝貢してきた。
(※藤原清河・大伴古麻呂・吉備真備ら)

上元年間(760~762)に朝衡を左散騎常侍(天子の顧問)・鎮南都護(インドシナ半島北部の軍政長官)に抜擢した。

貞元20年(804)。日本国は使者を送って朝貢してきた。学生の橘逸勢(はやなり)・学問僧の空海が留まった。