常陸国の三蚕神社
蚕影神社(こかげ)つくば市神郡豊浦
養蚕神社(こがい)日立市川尻町豊浦(近くに蚕飼浜)
蚕霊神社(これい)鹿島郡神栖町日川(豊良浦)
香取の古名は、「楫取」と書く。意味は不明だが、一般には舵取りの意味と考えられている。香取神宮の主祭神は、経津主神、一名、伊波比主命。伊波比主は、斎主とも書かれ、『日本書紀』では、天津甕星という悪神を征する「斎」の大人とされる。
先代旧事本紀の舵取
天津羽原(船長跡部首祖) 大麻良(舵取阿刀造等祖) 天津真浦(船子倭鍛師等祖)
天津麻占(笠縫等祖) 天都赤麻良(曽曽笠縫等祖)
天都赤星(為奈部等祖)
蚕影神社、安房忌部、
主祭神 和久産巣日神 埴山姫命 木花開耶媛命
配祀神
筑波男神、筑波女神、素盞鳴命、月読命、蛭子命、天照大神、生馬命
境内案内板:成務天皇御代(131-190年)、筑波国造阿閉色命の創祀。
筑波山地の不動峠から多気山(城山)にかけての山腹北側に鎮座する。入口は筑波山神社の表参道であったつくば道から神郡館地区に分岐する道の突き当たりにあり、社殿までは長い石段が続く。
神社がある山を俗に子飼山、蚕飼山(筑波山名跡誌)、神郡山などという。蚕影山は寺院時代の山号である。
筑波国造が創祀に関わることから、古来筑波山神社とも縁が深い。筑波山神社の御座替祭を構成する祭祀に神衣祭と神幸祭とがあり、いずれも神衣を祭器としているが、蚕影神社は神衣を織るための養蚕、製糸、機織の技術伝来の地として、養蚕の神を祀っている。
蚕影山信仰
往時、茨城県一帯は養蚕業が盛んで、境内案内板にもある通り、養蚕にまつわる地名や神社が多数残っている。河川には鬼怒川(絹川、衣川)、小貝川(蚕飼川)、糸繰川などがある。日立市川尻町の蚕養神社、神栖市日川の蚕霊神社には、蚕影神社と同様、養蚕伝来に関する伝承が伝わっている。また、結城市小森(旧下総国。小森は蚕守の変化とも)の大桑神社は、東国に養蚕を伝来した阿波斎部(忌部)氏による創祀と伝えられる。
蚕影山桑林寺は、その金色姫伝説に基づき、当地を日本養蚕技術伝来の地とし、金色姫の垂迹たる蚕影山を本尊とする「蚕影山信仰」の総本山だった。世界大百科事典に「全国各地にある蚕影山信仰は、茨城県の蚕影山神社の信仰が流布したもので、この神社の縁起として、養蚕および蚕神の起源を説く金色姫の物語が中世末から近世にかけて語られていた。御伽草子《戒言(かひこ)》もその一つである」とある。
金色姫伝説
天竺に舞台が及ぶ壮大な伝説で、「日本一社蚕影神社御神徳記」など
欽明天皇御代(539-571年)、北天竺の旧仲国の霖夷大王と光契夫人の間に金色皇后(金色姫)という娘がいた。夫人は病で亡くなり、王は後妻となる后を迎えたが、后は金色姫を疎み、王の目を盗んで、姫暗殺の奸計を巡らせた。
第一に、獅子王という獣が巣食う師子吼山に捨てさせたが、獅子王は金色姫を襲うことなく丁重に宮殿に送り届けた。第二に、鷲、鷹、熊などが巣食う辺境の鷹群山に捨てさせたが、鷹狩のために派遣された宮殿関係者が発見した。第三に、海眼山という不毛の孤島に流させたが、漂着した漁師に保護された。第四に、清涼殿の小庭に埋めさせたが、約100日も経った頃、地中から光が差したので、王が掘らせたところ、金色姫がやつれた姿で救い出された。事情を知り、姫の行く末を案じた王は桑で作った靭(うつぼ)船に姫を乗せ、海に流した。この船は常陸国の豊浦湊に漂着した。
豊浦湊に住む漁師、権太夫夫婦が金色姫を救い面倒を見たが、姫は空しく病に倒れた。ある夜、夫婦の夢枕に姫が立ったので、唐櫃を開いたところ、亡骸はなく無数の虫が動いていた。金色姫が靭船で流れてきたことから、桑の葉を与えたところ、虫は喜んで食べ、次第に成長した。ある時、虫は桑を食べず、頭を上げてわなわなと震え出した[6]。夫婦が心配していると姫が再び夢枕に立ち、この休みは継母から受けた受難の表れだと告げた。「獅子の休、鷹の休、船の休、庭の休を経て、靭船の中で繭を作ることを覚えた」という。姫が告げた通り、虫はしばらくして繭を作った。
夫婦は筑波山の「影道(ほんどう)仙人」(蚕影道仙人とも)に繭から綿糸を紡ぐ技術を教わった。さらに筑波に飛来された欽明天皇の皇女各谷姫に神衣を織る技術を教わった。これが日本における養蚕と機織の始まりという。養蚕と機織を営んだ夫婦は、靭船が辿り着いた豊浦に御殿を建立、金色姫を中心に、左右に富士と筑波の神を祀った
第13代成務朝(せいむちょう)、忍凝見命孫(おしこりみのみこと)、阿倍閇色命(あべしこのみこと)は筑波国造に赴任するや、祭政一致の政務に基づき、筑波大社に奉仕した。更に豊浦に稚産霊神を鎮座し、農業と養蚕業の振興に多大なる力を注いだ。後世、山麓にはこの霊地を守護するための蚕影山桑林寺が建立された。
額田部の系譜と筑波、甲斐国造
鈴木真年関係の系図史料から、「坂戸毘古命-国忍富命-筑箪命-忍凝見命-建許呂命-筑波使主命-久等宿祢-美呂浪宿祢」という系譜であったことが知られます
このうち、建許呂命は倭建命の陸奥遠征に従軍し、甲斐で「東国造」に任じられたと伝える者で、『常陸国風土記』にも見えます。同書には、筑波使主命がその後継とあり、「国造本紀」には茨城国造条に「筑紫刀祢」として応神朝に同国造に定められたと見えます。
久等宿祢は『播磨国風土記』揖保郡広山里条に品太天皇(応神)に額田部連久等を派遣したと記されており、美呂浪宿祢が『姓氏録』左京神別の額田部湯坐連条の記事に允恭天皇御世に薩摩に隼人平定のため派遣され御馬一匹を献上したと見える者(欠名)に当たることは、「東国諸国造系図」(中田憲信編『諸系譜』第1冊所収)に見えます。同系図には、筑波使主命の兄弟で須恵国造の祖・大布日意弥命の子孫にも、額田部が出たとされます。
要は、坂戸毘古は額田部連・額田部の祖先であり、「額田部」とは製鉄・鍛冶職掌部族であって、天孫族が管掌したものであって、坂戸毘古が額田毘道男という別称をもっていたことも肯けます。上記の名前に見える「凝、許呂」は、鉄塊の意味です。
大甕倭文神社
祭 神:武葉槌命
ご由緒を転載します。
「仰大甕の地は当社の御演技に甕星香々背男と称する屈強なる悪神が占拠していた所であったために称する地名であると伝えられております。当地は阿武隈山系の最南端に位置し、東は渺茫たる太平洋に臨み久慈川の河口を天然の良港とした久慈浜の後背地として古くから開かれ、南高野の貝塚・甕の原古墳群など歴史的な遺跡が数多く残っております。また此から海岸道が開かれ、古代における交通の起点として、奥州へ通ずる街道の要衝を占めておりました。
今も大甕山の東端の釜坂、即ち可良麿坂付近には中丸屋敷という所があり、天平の頃防人として筑紫の国に赴いた倭文部可良麿は、倭文神武葉槌命の末裔として此の地に住んでいたと伝えられております。
『万葉集』の巻の二十の防人の歌の中に可良麿の歌がある。
足柄のみ坂たまはり顧みず吾は越え行く 荒し男も立しや憚る不破の関越えて吾は行く
馬の蹄筑紫の先に留り居りて吾は斉はむ 諸は幸くとも申す帰り来までに
中世の南北朝の動乱期には、南朝方の北畠顕家に率いられた奥州の軍勢と北朝方に組していた太田の佐竹貞義との間で壮絶な戦いが繰り広げられた。今に伝わる甕の原の戦がそれである。やがて江戸時代に入り陸前浜街道も整備され、奥州の大名の参勤交 代をはじめ人々の往来も頻繁になり、社頭の茶店も大変に繁昌したとのことであります。また久慈浜をはじめとする近郷の人々は無論の事、街道を往来する旅人などの参拝者の数も多くなりました。
元禄の頃には水戸藩において大日本史の編纂が始まり、当社の由緒の重大なる事が認められることとなり、藩主自らの度々の社参を受けた記録をはじめ、奥州の大名の参勤交代の折には大名の社参並に奉納金を受けた記録などがあります
武葉槌命は、天照大御神の御命令により、鹿島神宮の御祭神武甕槌命と供にこの常陸国を平定され、た日本建国の大功神として仰がれております。
『大甕倭文縁起』には概ね次のように伝えられております。
天祖天照大御神が天孫瓊瓊岐尊を豊葦原中津国に降臨させるに当たり、鹿島・香取の二神は葦原中津国の国津神・荒ぶる神々を鎮撫あるいは掃蕩する任を負わされておりました。武神として誉の高い二神は国津神等の国攘り、荒ぶる神々の掃蕩、更には国中の草木石類に至るまで平定いたしましたが、まだ常陸国に悪神がおり、名を天津甕星、またの名を天香々背男といい、大甕山上に陣取り東国地方の陸地はおろか海上にまで一大勢力をもっておりました。さすがの鹿島・香取の神もこの勇猛なる大勢力の前に為す術がありませんでした。その時にこの武神である二神に代って甕星香々背男討伐の大任を負わされたのが、当社の御祭神武葉槌命でありました。 命は武神としてもさることながら、智恵の加味としてことに優れており、(我国において織物を始めとする組織的な産業を最初に起こされた神であります)命の智恵を駆使した巧みな戦略の前に甕星香々背男の一大勢力も敢え無い最後を遂げることになり、その様は今に様々な伝説となり伝えられております。その一つに武葉槌命が大甕山にて甕星香々背男の変じたる巨石を蹴ったところ、その一つは海中に落ちて今に伝わるおんねさま、または神磯と呼ばれる磯になり、あとの石は、石神・石塚・石井に飛んだと伝えられております。また現在の大甕神社の神域を成しております宿魂石は、甕星香々背男の荒魂を封じ込めた石であると伝えられております。斯くて、甕星香々背男の勢力を掃蕩された武葉槌命は、此の大甕の地に留まり命の優れた智恵の産物である製塩の術・織物の術をはじめ、様々な生活の術を常陸地方は無論のこと、東日本の一帯に広められ人々の生活の向上に貢献されたのであります。今に、武葉槌命はおだて山、即ち美しい山と人々から敬愛の念を持って呼ばれる大甕山上に葬られてると伝えられております。」
住所:茨城県日立市大みか町6-16-1
このご本殿が建っている岩山全体が、宿魂石と呼ばれるそうです。つまり、武葉槌命を祀る本殿が、武葉槌命に倒された甕星香々背男の上に建っているという。 岩全体が香々背男の神様なのに、祠に祀られているのは、武葉槌命なんです。つまり、退治された香々背男の神様は、その後も荒れ続け、かなりの祟りがあったのだそうです。そこで、「香々背男神を封じるのは、武葉槌命だろう」ということで、武葉槌命が、祀られたのだ、という。
倭文神社
天天羽雷命:あまのはずちのみこと
建葉槌命:たけはずちのみこと
倭文神:しずりのかみ
天棚機姫神と共に機織の神として祀られる。神綺日安命の別名とする説もある。また天日鷲命の弟神あるいは御子とする説がある。
倭文神社 鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内754
倭文神社 鳥取県倉吉市志津209
倭文神社 山梨県韮崎市穂坂町宮久保字降宮6051
倭文神社 群馬県伊勢崎市東上之宮町字明神東380
倭文神社 静岡県富士宮市星山1
倭文神社 兵庫県朝来市生野町円山字下代201
本宮倭文神社 山梨県韮崎市穂坂町柳平3195
靜神社 茨城県那珂市静字帝青山2
鍬戸神社 静岡県三島市長伏字石原1
服部神社 石川県加賀市山代温泉18-7-丁
鹿島神宮 境内 高房社 茨城県鹿嶋市宮中2306-1
大洗磯前神社 境内 静神社 茨城県東茨城郡大洗町磯浜町字大洗下6890
坐摩神社 境内 繊維神社 大阪府大阪市中央区久太郎町4-3
笹御霊神社 小田巻神社 兵庫県朝来市納座字笹山409
濱名惣社神明宮 境内 天羽槌雄神社 静岡県浜松市北区三ケ日町三ケ日大輪山122
倭文神社 伯耆國一宮 旧國幣小社
御祭神 建葉槌命
相殿 下照姫命 事代主命 建御名方命 少彦名命 天稚彦命 味耜高彦根命
御祭神 建葉槌命 別名 天羽雷命:あまのはずちのみこ
『古語拾遺』に、天照大御神が天岩屋に隠された際、 大神に献上する文布(しず)を織った神で、倭文氏の祖神。 ちなみに倭文宿禰の祖は神魂命、倭文連の祖は神魂命の子・角凝魂命。天棚機姫神と共に機織の神として祀られる。神綺日安命の別名とする説もある。また天日鷲命の弟神あるいは御子とする説がある。
本宮 倭文神社
祭神・天羽槌雄命・天棚機姫命
鎮座地・穂坂町大字宮久保字降宮六〇五一
由緒・ 甲斐国所在の延喜式内二〇社の一 甲斐国志には倭文神社降宮明神とある。 穂坂総社といい、郷中で最も格式高い神社 であった、倭文はしずおりで、麻などの繊維を 赤・青などに染めて横糸として織った古代織物である。穂坂御牧が栄えたころ、御牧の役 人の妻や娘などが中心となって織った精巧な織物でこれらの女性たちが技芸の上達を祈るために天羽槌雄命・天棚機姫命を 祀ったのが、この神社の起りである。降宮は おりみやで、織宮を意味する、江戸時代に 幕府は一二石五斗の社領を寄進。
但馬國朝來郡 倭文神社(通称 鮭の宮)
天羽槌命
式内社は但馬の国には一三一社あり、その内朝来郡には九 社あります。生野町内ではこの倭文神社一社のみです。
創建年代 和銅五年(七一二)正徳三年(一七一三)社殿を修造し遷宮式を行つた時、偶然下流から鮭が遡ってきました。村人達は、 これをめでたい前兆として喜び鮭の宮とゆぶように なりました。
創立年月不詳にして延喜式の制小社に列し町内円山字鹽谷に鎮座し中古同字下代に遷座せらる近世聖儒大明神、倭織大明神、鮭ノ宮とも称したり正徳三年社殿大破の為め再建し寛政十一年又之を再建せり明治六年十月村社に列し同十四年社殿を修造せり。
天棚機姫神
『古語拾遺』に、天照大御神が天岩屋に隠された際、大神に献上する神衣和衣(かむみそにきたへ)を織った神。 天羽槌雄神と共に機織の神として祀られる。別名は天之八千千比売命、あるいは天之八千千比売命の母神。
天之八千千比売命
天照大御神が高天原にいるとき、 桑の木を天香山に植え養蚕し、その絹糸で大神の衣を作った神。染織業の祖神。 別名は天棚機姫神、あるいは天棚機姫神の子神。
織物の神であり、天萬栲幡千幡比賣命と同神とする説もある。
天棚機姫神 を祀る神社
宇佐神宮 境内 養蚕神社 大分県宇佐市南宇佐2859
倭文神社 山梨県韮崎市穂坂町宮久保字降宮6051
坐摩神社 境内 繊維神社 大阪府大阪市中央区久太郎町4-3
太平山神社 境内 機姫神社 栃木県栃木市平井町659
服織田神社 静岡県牧之原市静波1292
濱名惣社神明宮 境内 天棚機媛神社 静岡県浜松市北区三ケ日町三ケ日大輪山122
比賣久波神社 奈良県磯城郡川西町大字唐院字教塚743
春日神社 境内 千代神社 奈良県磯城郡田原本町大字千代字中垣内1258
森市神社 境内 千代神社 奈良県磯城郡田原本町大字大安寺字西馬場199
絹巻神社 兵庫県豊岡市気比字絹巻2585-1
竹神社 三重県多気郡明和町斎宮字牛葉2757-2
本宮倭文神社 山梨県韮崎市穂坂町柳平3195
波氐神社 三重県松阪市星合町507
七夕の社 波氐神社
七夕伝説 星合の浜 白砂青松の浜だった地
多奈波太姫(天棚機姫命)
合祀 天児屋根命 天忍穂耳命 木花開耶姫命 誉田別命 不詳一座
文政二年(一八一五年)群馬県 黒熊「三木貞樹家文書」の道中 日記の中に星合村と申処七夕の社有り、拝礼いたし、それより 六軒に出て、この道廿丁ばかり と承り候処、殊の外遠し、と記 されています。
又、伊勢紀行(永享五年)等の 古文書によると、かなり昔から 七夕が祭られていたことがわか ります。波氐神社(星合神社)には多奈波太姫が祭られています。その 近くには、織姫と彦星が年に一 回出合うという天の川があり、 そこに架けられた橋は、実は鵲 という鳥であると、この地方に 七夕伝説として伝わっております。
「鵲橋・南へ200M」の袂に、明 治三十六年(一九〇三年)に建立さ れたといわれる「鵲橋之碑」が建 っております。
この碑文の中に
「鵲の渡せる橋 におく霜の、白きを見れば夜ぞ更 けにける」大供家持 の歌が刻まれており、この 地方に七夕伝説として伝わってお ります。
-社頭案内板より-
常陸國久慈郡 稻村神社
御祭神 天照皇大神 木華咲耶姫命 天手力雄命 栲幡千千姫命 瀬織津姫命 日本武尊 天太玉命 玉依姫命 玉柱屋姫命 天鈿女命 倭姫命 天兒屋根命 豊受大神
『茨城県神社誌』によると日本武尊東征のおり、常陸に入り、桜川に臨み、皇大神宮を遥拝して斎祀し、磯部大明神と称した。境内にも、鹿島社の他に幾つかの小祠がある。確認したものは以下のとおり。
境内左手から、足魂(あしたま)神社(饒速日神・玉御祖神)、蠶養(こがい)神社(稚産霊・保食大神)、多賀神社(伊弉諾尊・伊弉冊尊)、天神社(菅原道真公)、末社・伊勢神宮内宮摂社二十四社五十五座之大神、稲荷社、八雲神社(素盞嗚命)。
謡曲「桜川」 と 稲村神社
室町期、将軍足利義教 永享10年 時の関東管領 足利持氏 に、磯部大明神神主 祐行、花見物語りを献上。持氏、観世阿弥元清をして桜川を作さしむ。
物語の筋は桓武天皇5世の孫、九州相馬国司 平将平(たいらのまさひら)の一子桜児 を主体とし、九州に起こり7歳にして自ら奥州出羽の人商人に身を売り、奥州に下る途中、東国常陸の国桜川の源、磯部の宮に人商人御社参の砌(みぎり)、磯部寺の恵徳法師に買い取られ、成人し後、母人乳母(ははびとめのと)とも対面、目出度く父将平の跡を嗣ぎ、常陸、九州、相馬の国司となると云うことで纏められている。 「磯部稲村神社と謡曲桜川」(昭和50年3月25日磯部祐親発行)より抜粋
天慶2年(939)、平貞盛が将門追討祈願をしたといわれています。また、境内には「礒部寺(神宮寺)跡」があり、謡曲「桜川」の舞台でもあります。謡曲「桜川」の桜児は、将平の子とされていますが、将門の子との説もある。
平良将(平将門の父)「良持」(よしもち)とする記録もある。平高望の三男(あるいは四男)で、母は正室の北家藤原良方の娘。
寛平元年5月13日(889年6月14日)、宇多天皇の勅命により平姓を賜与され臣籍降下し昌泰元年(898年)に上総介に任じられた父の高望とともに坂東に下向した。良将の最初の営所は不明であるが、後に県犬養春枝の娘を妻とし、下総国・豊田郡を拠点にしたといわれる。父高望の上総介の任期が過ぎても帰京せず、前任の常陸大掾である源護の婿として常陸国に在った長兄の国香や、上総国に在った次兄の良兼とともに、良将は下総国に在って未墾地を開発し、私営田を経営、また鎮守府将軍を勤めるなどし坂東平氏の勢力を拡大、その後各地に広がる高望王流桓武平氏の基盤を固める
小手姫と蜂子皇子の伝承
小手子姫は大伴糠手(ぬかで)の娘。崇峻天皇(587~593)の妃であり 蜂子皇子と錦代皇女の母君。前の天皇、用明天皇は聖徳太子の父。崇峻天皇は聖徳太子の叔父であり、小手子姫は叔母にあたる。次の天皇 推古天皇は蘇我馬子の姪にあたり、推古天皇は聖徳太子を摂政に任命する。太子の妻は蘇我馬子の娘。
用明天皇の没後、物部氏を倒した蘇我馬子は、崇峻天皇をたてて、思いどうりの政治をめざしたができず、天皇を暗殺して妃の小手子姫を大和から追い出すよう画策した。
大和を追われた妃は、実父と皇女と共に、奥州の果てに流された息子蜂子皇子を尋ね、尋ねて、この地(川俣)まで辿りついた。左右に連なる奥羽山脈・阿武隈山地が屏風のように風を和らげ、豊かな水をたたえて流れる阿武隈川のたたずまいが、故郷大和に似ていることや、住まう人々の人情にひかれてこの地(川俣)に留まった。
『この地は蚕を育てん土地なり』と芋ヶ作に住居を構えて、桑を植え、養蚕を始め、糸を紡ぎ、糸を繰り、機を織る手わざの数々を里人に伝授した。幾年月後、息子蜂子皇子に会う事が出来ないことを嘆いて大清水の池に身を投げて亡くなった。里人は大いに嘆き悲しんで、亡骸を、この里(小手郷)を見渡せる山の高台に埋葬し、魂を鎮めるため、池のほとりに祠をたて、小手子姫を祀った。
埋葬されたとされる山は、女神山で、祠のあった場所は、大清水地区の機織(服部)御前堂旧跡地です。明治時代に機織神社と改名され、現在地に移された。現在地(後庵舘)は小手子姫が後年尼になって住んでいた跡だとも言われている所です。
息子 蜂子皇子は、いみじくも山形県鶴岡市の出羽三山の開祖とされる人物です。
石城国造
石城国造の実質的な初祖は、『陸奥国風土記』逸文の八槻郷(福島県東白川郡棚倉町八槻)条に見える国造磐城彦とみられるが、磐城彦は、「那須直系図」(『諸系譜』第15冊所収)には天津彦根命・天目比止都祢命(天目一箇命)の後で崇神前代の人として記載される。那須国造の同族として、磐城国造、磐瀬国造が同系図に見える。磐城彦の存在を認めたとき、石城国造は茨城国造の祖・建許呂命の後としては考えられなくなる。
天津彦根命の後裔には伊豆国造や服部連も出ており、その同族であった石城国造一族にも機織りなどの衣服製作技術が伝えられたものとみられる。『万葉集』の「可刃利(かとり、香取)乙女」の歌(巻第14の歌番3427)で、「陸奥の香取乙女の結ひし紐」は、香取(磐城郡片依郷、現いわき市四倉町片寄一帯)の地で織られた紐で、それを結んだ紐と解される。
天目一箇命の子の意富伊我都命(三上祝・凡河内国造など三上氏族の祖)の系統でも、崇神朝の筑箪命の後が筑波・茨城などの諸国造となっている。
天夷鳥命は一般に天穂日命の子とされますが、実態は天津彦根命の子の天目一箇命(天御影命、櫛明玉命)と合致するとみられます。また、その子の伊佐我命については、櫛八玉命の別名をもち、その弟とされる出雲建子命が櫛玉命の別名をもつとされますから、櫛八玉命と櫛玉命とは所伝通りの兄弟なのか同人なのかも判断がつきにくいところです。さらに、出雲建子命は玉作部の祖の天湯津彦との関係も不明で、同人の可能性があります。
菊麻国造
市原市の村田川から南の養老川にかけての地域は、古代の菊麻国造の領域。
この国造は「国造本紀」に拠ると、「志賀高穴穂朝(成務)御代、无邪志(武蔵)国造祖兄多毛比命児大鹿国直定賜国造」と記事がある。市原・木更津の辺りは東京湾の交通・軍事的拠点として早くから中央政権が重視した地域であったと思われ、そこに相模・上総(上海上)・武蔵の諸国造と同族という系譜の一族が勢力を持っても不思議ではない。
菊麻国造は歴史に現れないようだが、実は『書紀』仲哀二年正月条に早くも登場する。すなわち、仲哀天皇の妃の一人、「来熊田造祖大酒主の女・弟媛」がそれであり、「来熊」(ククマ)が菊麻のことである。鈴木真年翁の『日本事物原始』によると、大酒主とは大鹿国直と同人異名とされる。
胸刺(武蔵)・波伯(鳥取西部)・大嶋(周防大島)の国造も兄多毛比命の子とされるので、同系が他に3人存在するようだ。市原市北部~千葉南部の村田川流域を勢力下とし、その中心は市原市北部の現・菊間にあったとされ、菊間古墳群として当時の国造クラスの墓と目される古墳が現在に多く残されている。
長幡部の祖 多弖命
『常陸国風土記』久慈郡太田郷の項に
「三野から常陸へ長幡部の祖多弖命が来た。彼らの織る布は強い兵士も鋭い刃も裁ち切れない。」
長幡部神社由緒
御祭神 綺日女命。多弖命
新編常陸国誌に「久慈郡太田郷幡村ニアリ二十八社考・郡郷考・蓋長幡部遠祖綺日女命・多弖命ヲ祭ル」とあり、皇孫瓊瓊杵尊天降りの時、御服を織られるため、機具を携えて御供した神に綺日女命あり、本は筑紫の日向の二神の峰より、三野国の引津根の丘に至られた。後、崇神朝に及び其の子孫多弖命、三野より常陸に移り、此地に機殿を建て長幡を織られた。長幡とは絁の名にて之れを織作るものを長幡部と云い、以前の倭文織よりも美しく丈夫であったので、後に及ぶまで神調として奉った。即ち御祭神の子孫がその遠祖を祭ったのが当社である。今関東一円に広がる名声高き機業は実にわが御祭神の流れを伝えるものと云えます
4世紀の古墳
静岡県静岡市葵区の谷津山古墳群(やつやまこふんぐん)は、谷津山の尾根にある前方後円墳2基と円墳2基で構成されています。
山頂(標高108.1m)の谷津山古墳(谷津山1号墳、柚木山神古墳(ゆのきやまのかみこふん))は、古墳時代前期(4世紀)に築かれた県内最大級の前方後円墳です。
全長約110m、後円部径70m、後円部高さ約9m、前方部は西南西向き、前方部幅45m、前方部高さ約8m。
廬原国(いおはらのくに)の首長墓だと、考えられています。
墳丘は、前方部・後円部とも3段築成。
葺石(ふきいし)が有り、周溝・埴輪は無し。
主体部(埋葬施設)は、長さ約3.5mの竪穴式石室に朱塗りの木棺が納められていたと推測。
石室は、伊豆根府川石とおもわれるヘギ石(板状の石)を積み重ねて造り、天井を大きな板石で覆った構造。
江戸時代後期の天保年間(1830~1844年)と明治14年(1881年)に掘られており、銅鏡(神獣鏡)6面の破片・銅鏃・鉄鏃・石鏃・剣・紡錘車・巻軸形石製品・砥石、・管玉などが出土しました。
出土遺物の大半は所在不明ですが、銅鏃・紡錘車・砥石など一部は東京国立博物館が所蔵。