野見宿弥
新撰姓氏録や続日本紀(天応元年六月条)によると、天穂日命(あめのほひのみこと)の十四世の孫であり、崇神紀六十年の条に出て来る飯入根(いいいりね)(甘美乾飯根(うましからひね))の子、鵜濡渟(うかつくぬ)(宇賀都久怒(うかづくぬ))の子である。
垂仁天皇は菅原の伏見の陵に葬られた。古事記は菅原の御立野の中にありと記す。
播磨風土記は揖保郡の条に、野見宿弥がここで死亡し、出雲の人たちが来て、その墓を作った地であると伝承される「立野(たちの)」(現在の竜野市竜野町に比定)を記している。
土師氏、土師宿禰
日本書紀は垂仁三十二年の条に、日葉酢(ひばす)皇后が薨じた時、天皇が殉死の風に代わる方法を群臣に諮ったところ、野見宿弥が代わりに埴輪(はにわ)を置くことを奏し、出雲の国から百人の土器作りを呼び寄せ、彼らを指揮し、自らも埴をもって人馬や種々の物の形の埴輪を作って献上したので、天皇はその功を嘉して「土部臣(はじのおみ)」の姓を賜い、土部(はじべ)を置いてそれを統べさせたとある。かくて、野見宿弥の一族は「土師連(はじのむらじ)」「土師宿弥(はじのすくね)」を称したが、後には更に、菅原、秋篠、大枝などの姓を称し、和泉の百舌鳥、河内の古市・丹比、大和の秋篠・菅原などに分布した。
出雲神宝の検校、出雲振根を誅殺
日本書紀崇神天皇六十年の条に、出雲の神宝を検校する話がある。
すなわち、崇神天皇は天穂日命の子武夷鳥が天から持ってきたと伝えられ、出雲大神の宮に納められている出雲の国の神宝の提出を出雲に要求する。神宝を司っていた出雲振根(いずもふるね)が筑紫へ出かけて留守の間に、弟の飯入根(いいいりね)は神宝を我か子鵜濡渟と弟の甘美韓日狭に持たせて朝廷に貢上する。筑紫から帰ってこのことを知った出雲振根は怒って弟飯入根を止屋(やむや)の渕でだまし打ちで殺してしまう。飯入根の子鵜濡渟と弟甘美韓日狭がこのことを詳さに朝廷に奏上すると、朝廷は軍を派遣して出雲振根を誅殺すると云う話である。
野見宿祢は朝廷に出雲の神宝を献上した鵜濡渟の子である。
出雲振根は出雲西部にあって杵築大社を戴く杵築勢力を統べる王。
一方、飯入根は熊野大社を奉ずる出雲東部意宇(おう)の王。
五輪塔
野見宿禰の墓と伝えられる五輪塔
野見宿禰の墓
墓と伝えられる五輪塔が現在、桜井市出雲にある十二柱神社の境内に建っている。その野見宿禰の塚が、明治16年(1883)まで五輪塔の西南約150mのところにあった。直径20m以上もある豪壮な塚で、その上に巨大が五輪塔が置かれていた。大昔から近在の人々や力士が常々お詣りしていたが、明治16年に突然取り壊されることになり、五輪塔はそのとき現在の場所に移されたという。
塚を壊したとき、塚の中にあった朱を近くの初瀬川に捨てたところ、川は三日三晩赤く染まったという伝説が今も残っている。また、子持ち勾玉や埴輪、直刀、土器なども出土したという。野見宿禰の塚があったあたりからは、昭和42年(1967)に縄文土器や弥生式土器、須恵器などの破片が多数出土した。このため、縄文の昔から人が住んでいたと推察されている。この付近は古代の市場「君殿荘(きみどのしょう)」があったとされる伝承地の西の端にあたる。纒向から延びてきて、出雲を通り狛峠を越えて菟田へ続く古道がこのあたりを通っていた。
垂仁の后狭穂姫は、垂仁に対して謀反を謀る兄狭穂彦を見捨てることができず、兄に殉じて兄と共に稲城の中で焼き殺される。
この時、彼女は自分の後継者とし丹波道主の娘である日葉酢媛姉妹を指名している。
妻選び
美知能宇斯王の女等、比婆須比売命、次に弟比売命、次に歌凝比売命、次に円野比売命、并せて四柱を喚上げたまひき。然るに比婆須比売命・弟比売命の二柱を留めて、その弟王二柱は、いと凶醜いきによりて、本つ土に返し送りたまひき。
サホビメが言うとおりに垂仁天皇は美知能宇斯王(ミチノウシノミコ)の娘の、
比婆須比売命(ヒバスヒメ)
弟比売命(オトヒメ)
歌凝比売命(ウタゴリヒメ)
円野比売命(マトノヒメ)
全部で4柱を妻として迎えました。
四姉妹のうち、二人を返還
サホビメが死にその後に使える妻として
「旦波比古多々須美智宇斯王(タニハノヒコタタスミチノウシノミコ)の女、名は兄比売(エヒメ)・弟比売(オトヒメ)」が提案されたはずでした(参考:サホビメの死)が、何故か4柱の女神が垂仁天皇に嫁ぎます。そして4柱のうち、2柱が不細工であるという理由で送り返されます。
サホビメが提案したのはエヒメとオトヒメだった。
にも関わらず、妻として迎えたなかにオトヒメは居てもエヒメは居ない。
日本書紀では垂仁天皇が丹波道主の娘5人を娶って長女のヒバスヒメ(日葉酢媛)を皇后としたとあります。また末娘の竹野姫が不細工を理由に送り返され、死んでいます。
杵築の大社と本牟智和気王
古事記は、その皇子の名を本牟智和気(ほむちわけ)王と記す。
山辺の大鷹(おおたか)に鳥を捕らえることを命じたところ、彼は紀伊、播磨、因幡、丹波、但馬と追って行き、更に近江、美濃、尾張、信濃を経て、遂に越の国で捕らえて献上したが、やはり皇子は言葉を発しないままであった。
すると、天皇の夢の中に出雲の大神が顕れて「これは私の崇(たた)りである。その皇子に吾が社を拝ませ、吾が宮を天皇の宮と同じように壮大に作り直せ」と語った。そこで、曙立王と菟上王を着き添わせて、皇子を出雲に遣わし出雲大神を拝ませると、皇子は初めて言葉を語った。
出雲の王岐比佐都美(きひさつみ)は皇子のために斐伊川のほとりに仮宮を作り、また一宿肥長比売(ひとよひながひめ)という美人を献じたが、彼女は実は蛇であったので、皇子は驚いて逃げ帰ったと記している。
ここでは、日本書紀よりももっと決定的な形で出雲が出てくる。
日本書紀の垂仁紀
その最後で、但馬が天日槍の神宝を朝廷に奉献したことを述べる。
さらに、天日槍の末裔で但馬の王たる田道間守(たじまもり)が十年間も常世(とこよ)の国を訪ね歩いて、やっと「ときじくの香ぐの木の実」を手に入れて持ち帰り天皇に奉献する物語を記している。
開化天皇が丹波の実力者の娘のと間に産んだのが彦湯産隅で、それと同一人物視される彦坐王の子、道主王は丹波攻略に働き、丹波の実力者の娘を娶って「五姉妹(四姉妹)」をもうけた。また道主王の異母兄弟、伊理泥王(イリネ)は丹波の阿治佐波毘売(アジサハ)との間に迦邇米雷王(カニメイカヅチ)をもうけ、彼と丹波の遠津臣の女・高材比売(タカキヒメ)との間に息長宿禰王をもうけ、彼と葛城の高額比売(タカヌカヒメ)との間にもうけたのが、息長帯比売=神宮皇后である、と『古事記』にある。この高額比売というのは、遠く・天之日鉾の子孫で、田道守の姪っ子であった。
石津神社
所在地 大阪府堺市堺区石津町1丁15-21
主祭神 八重事代主神
大己貴神
天穂日神
社格等 式内社
創建伝 孝昭天皇7年8月10日
式内社石津太神社(いわつのおおじんじゃ)に比定される。石津太神社については、同市西区浜寺石津町の石津太神社(いわつたじんじゃ)も論社となっており、元々はどちらかが本社、どちらかが御旅所か分社であったと考えられている。両社とも八重事代主神(戎神)降臨の地として、「日本最古の戎宮」を称している。
八重事代主神、大己貴神、天穂日神を主祭神とする。境内社に、野見宿禰を祀る宿禰神社と菅原道真を祀る天満宮がある。
社伝では、八重事代主神が五色の石を携えてこの地に降臨したとしており、そこから石津の地名ができたという。孝昭天皇7年8月10日に勅願により創建され、垂仁天皇の時代に天穂日命の子孫である野見宿禰を神主としたとしている。
葛上郡
鴨都味波八重事代主命神社二座
御祭神
都味波八重事代主命 下照比売命
配祀 建御名方命 大物主櫛
賀茂一族系図(三輪高宮家系譜)
建速素盞嗚命─大国主命─都美波八重事代主命─天事代主籖入彦命─奇日方天日方命・・・
天孫降臨に際して、父の大国主命(桜井市の大神神社御祭神)に代わって国譲りを決 定した大神として、御祭神の事代主命の名がみえます。また、事代主命の御子のヒメ タタラ五十鈴媛命は神武天皇の皇后、五十鈴依媛命は綏靖天皇の皇后に天日方命から 加茂君が出ておられます。
民族学を研究されておる鳥越憲三郎先生は、葛城王朝の存 在と「天孫降臨は葛城王朝に鴨族が併合されたこの地の歴史的事実を伝承されたもの 」そして葛城王朝の、神武、綏靖、安寧の三代の天皇の皇后となったのは、事代主神 を奉斎してこの地を領地していた鴨王の娘であるといわれる由縁であります。
そうし た由縁から、その後も本社の御祭神は皇室の御守護神とされ、宮中八神の一つとして 崇拝されて来ました。