近江と吉備、三上祝、日本武尊

近江の一宮、三宮は、日本武尊ゆかりの神社である。琵琶湖の東岸一帯は、古代、日本武尊の一族や東国遠征に従った吉備などの関係者が拓いた可能性がある。犬上の建部、安の建部、穂積物部(御上祝)など

彦坐王3世孫は、大陀牟夜別 …… 淡海国造。安国造の祖。。娘の両道入姫命は日本武尊に嫁いで稲依別王を産んだ
 稲依別王 – 犬上君、建部君の建部君は、日本武尊の子・稲依別王から発した犬上建部君と、おなじく日本武尊の子・稚武王を祖とする近江建部君がある。

ヤマトタケルは近淡海、吉備、山代、と婚姻関係を持っていた。子の稲依別王を祖とする犬上君は近江国犬上郡を領していたのだろう。東国遠征の関係者が多い。

また、安国造の一族の御上祝は天御影命を奉斎する。三上氏族は、天津彦根命を遠祖としており、物部氏族とも同族です。

穂積物部と御上祝

神武天皇から崇神天皇にいたる中間四代の うちで、三代も続けて物部氏が近江の三上祝の娘と婚姻を重ねます。これが記されるのが『諸系譜』第28冊所載の「三上祝家系」であり、中田憲信編の『諸系譜』のなかで、この系譜記事が同書で数少ない鈴木真年翁の自筆でなされているという特徴があります。

神武天皇の孫世代にあたる三上祝家の①川枯彦・川枯姫、次の世代の②坂戸彦・坂戸由良都姫、その次の世代の③国忍富・新河小楯姫という三代が引き続いて、物部氏の「①大祢-②出石心-③内色許男」の三代に各々世代対応し、いずれも三上祝家の姫が物部(穂積)氏の男に嫁いで、物部氏の次世代の長を生んでいます。具体的には、川枯姫が大祢命に嫁して出石心・大矢口根を生み、新河小楯姫が出石心に嫁して内色許男・内色許売を生み、坂戸由良都姫が内色許男に嫁して大水口宿祢を生んだと記されます。

三上氏  

天津彦根命—-天御影命—-天麻比止都禰命—-意富伊我都命—-彦伊賀都命—-天夷沙比止命—-川枯彦命—-坂戸毘古命—-国忍富命—-天加賀美命(亦名・天世平命、更名・天水與気命)—-鳥鳴海命—-八倉田命—-室毘古命

三上氏の血族はニギハヤヒに始まるとされる物部諸氏とも深いつながりを持つ。
① 彦伊賀都命の兄弟が凡河内直(彦己曾根命)および山背直(阿多根命)の祖先となっている。
② 川枯彦の姉妹・川枯比売命が穂積氏の祖である大禰命に嫁いで出石心大臣命と大矢口宿禰を生んでいる。また、もう一人の姉妹・御食津媛命は恩地神主の祖である御食津臣命に嫁ぎ伊賀津臣命を生んでいる。
③ 坂戸毘古命の姉妹・坂戸由良都媛命が物部氏宗家の出石心大臣命の妻となり内色許男命、内色許売命(孝元皇后、開化帝の母)を生んでいる。

ヤマトタケルの子孫・系譜

ヤマトタケルは 
伊玖米天皇(垂仁天皇)の娘の布多遅能伊理毘売命を娶った生んだ子が 
帯中津日子命(仲哀天皇)です。 

また海に身を投げてヤマトタケルを救った弟橘比売命を娶って生んだ子が若建王です。 

近江の安国造の祖先の、意富多牟和気の娘の布多遅比売を娶って生んだ子が稲依別王です。 

吉備臣建日子の妹の大吉備建比売を娶って生んだ子が建貝児王です。 
山代の玖々麻毛理比売を娶って生んだ子が、足鏡別王です。 
またある夫人が生んだ子が息長田別王です。 
ヤマトタケルの子供は合わせて6柱。 このうち帯中津日子命(タラシナカツヒコ)が天下を治めました。

ヤマトタケルはミヤズヒメに「ミケ」を捧げられていましたし、オトタチバナヒメは「后」とされました。

ヤマトタケルは垂仁天皇の娘の間に仲哀天皇を設けます。また近江・吉備・山代の娘とも結ばれています。

近江一宮 官幣大社 建部大社

創祀年代は不詳。社伝では、景行天皇46年稲依別王(日本武尊の子)が勅を奉じて、神崎郡建部郷千草嶽に、日本武尊を奉斎し、天武天皇白鳳4年、勢田郷へ遷座したという。

祭神は、現在、日本武尊を主祭神とし、相殿に、天明玉命を祀り、天平勝宝7年、大和三輪より大己貴命を勧請し、権殿に祀る。

祭神に関する考証は古来多く行われ、日本武尊説、大己貴命説、稲依別王説の3通り。建部大社が、建部君がその祖神を祀ったと考えられ、大己貴命は、後から勧請されたと考える説が有力。建部君は、日本武尊の子・稲依別王から発した犬上建部君と、おなじく日本武尊の子・稚武王を祖とする近江建部君があり、どちらが、当社の創祀にたずさわったかによって、稲依別王とする説も、考えられないことではないが、どちらにしろ、日本武尊で良いのではないかと思う。

稲依別王

古事記では、日本武尊と安国造の祖・意富多牟和気の女・布多遅比売との間に生れた子。日本書紀では、両道入姫との子。

稚武王

『古事記』では倭建命は、弟橘比売命との間に若建王をもうけた。『日本書紀』では日本武尊は、 第十一代・垂仁天皇の皇女である両道入姫皇女(布多遅能伊理毘売命)を娶って、 稲依別王、足仲彦天皇(第十四代・仲哀天皇)、布忍入姫命、稚武王をもうけた。


近江三宮 官幣大社 多賀大社

式内社 近江國犬上郡 多何神社二座

御祭神  伊邪那岐大神 伊邪那美大神

境内式内社 近江國犬上郡 日向神社

通称、お多賀さま。鎌倉以降は、多賀神社と称されることが多いが、昭和22年、多賀大社と改称し、現在に至る。『古事記』に「坐淡海多賀也」と記されている。創祀年代は不詳。

社伝では、鎮座の仔細を以下のように伝えている。伊邪那岐大神が、多賀宮に鎮まり坐そうとして杉坂の急坂にさしかかった時、土地の老人が、栗の飯を柏葉に包んでさし上げた。大神は、その志を愛でて、食後に箸を地に挿した。後に、この箸が大杉となって杉坂となった。また、山路の途中に疲れて「くるしい」と言った場所が、栗栖という地。そこには現在、御旅所の調宮がある。当社の神紋は三つ巴だが、虫くい折れ柏の紋も使用している。

和銅5年(西暦712年)編纂の『古事記』の一部には「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」と当社の記載がある。日本書紀』には「構幽宮於淡路之洲」、すなわち「幽宮(かくれみや)を淡路の洲(くに)に構(つく)りて」とあり、淡路島に「幽宮」を構えたとされる。


近江三宮 官幣中社 御上神社

御祭神・天之御影神が孝霊天皇六年、三上山に降臨され、その後、御上祝によって三上山を磐境として祀られたという。つまり、社殿を持たず、神奈備山を祀る古代の信仰形態が本来の形だったらしいく、現在地は、当時の遥拝所。「御上」の社名は、御神であり、三上山の上に坐す神という意味でもある。元正天皇養老二年(718)三月十五日、藤原不比等が勅命を拝し、飛騨工を造営使として当地に社殿を造営し、三上山(奥宮)に対する里宮とし、現在の形になった。

当社の祭祀氏族は野洲郡一帯に君臨した安国造。御上祝もその一族だと言われている。近江國三宮として『神祇史大系』に多賀神社と並んで併記されているらしいが、根拠は不明。


勝部神社
守山市勝部町339 JR東海道線守山駅北西300m
祭神 物部布津神、火明神、宇麻志間知命

大化五年649年物部宿禰広国別人連が祖神として、上記三神を祀った。宇麻志間知命は饒速日命の子である。 大蛇に見立てた松明の祭りは近江の奇祭「勝部の火まつり」として有名である。

三上祝は凡河内国造・山背国造や桑名首などと一族(三上氏族)であり、古代近江に三上一族は繁衍し、蒲生郡の蒲生稲置や犬上郡の犬上県主・川上舎人などが見られます。三上氏族は、天津彦根命を遠祖としており、物部氏族とも同族です

南方の伊勢国桑名郡にも養老山系の最南端の多度山があり、式内社の多度大社が鎮座して、三上氏族の桑名首氏が三上・物部氏族の祖たる多度神(天津彦根命)を祀っています。

倭宿禰命と天御蔭命

勘注系図』では倭宿禰を建位起命の子とする記述が在る。
建位起命は海神綿積の後裔である。こちらの倭宿禰は神武東征で活躍した椎根津彦で、倭の国造となる倭氏の祖である。

三世孫倭宿禰命について『勘注系図』は次のように記す。
『またの名御蔭命(みかげのみこと)、またの名天御蔭志楽別命(あめのみかげしらくわけのみこと)、母伊加里姫命(いかりひめのみこと)なり。神日本磐余彦(かむやまといわれひこ)天皇【神武】御宇參赴(まいりおもむき)、しこうして祖神より傳へ来る天津瑞神寶(あまつみずかんだから)(息津鏡・邊津鏡是也)を献じ、もって仕え奉る。彌加宜社(みかげしゃ)、祭神天御蔭命、丹波道主王之祭給所也
この命、大和國に遷坐(うつりいます)の時、白雲別(しらくもわけ)神の女、豐水富命(とよみずほのみこと)を娶り、笠水彦命を生、笠水訓宇介美都(かさみずよむうけみず)