辰砂(しんしゃ)は顔料や防腐剤、水銀の原料。
中世に入ると、丹生山で朝廷や摂関家・伊勢神宮に帰属する人々が活発に採掘・交易し、全国唯一の「水銀座」が形成された。その後の室町・戦国時代には、水銀を原料とした化粧品の「伊勢白粉」が現在の松阪市射和で盛んに生産され、伊勢神宮の御師らによって全国に頒布された。丹生産の辰砂は縄文時代以降、朱・水銀・白粉などとして全国各地に知られた、三重を代表する鉱物だった。
辰砂は赤い色から朱砂、純粋なものは丹(たん)と呼ばれ珍重されてきた。
硫黄と水銀の化合物(硫化水銀)で比重約8と、ずっしり重い。
軟らかい。条痕色(粉末にした時の色)は濃赤色。
辰砂の名は、中国の辰州(現在の湖南省)から多く産出したことに、英名のCinnabarはギリシャ語のkinnabaris(赤い絵の具)に由来するという。
古来神聖な赤色顔料として好んで利用し、時には高価な漢方薬の原料になった。
古代から水銀産地として知られた丹生地域では、ほとんどが辰砂などのような硫化水銀の形で産出する。
辰砂を産出する水銀鉱床は日本列島各地に分布するが、多くは西南日本の中央構造線付近に集中している。
水銀の歴史は、縄文後期までさかのぼる。丹生池ノ谷遺跡、松阪市天白遺跡や度会町森添遺跡などからも、多数の朱彩土器や朱が付いた磨石・石皿などが出土する。
主な水銀鉱山
縄文時代から水銀朱の採掘が行なわれていた。
丹生鉱山(三重県多気郡多気町)
大和水銀鉱山(奈良県宇陀市菟田野町)
那賀郡の水井(すいい)水銀鉱山(徳島県那賀郡)
一方、「続日本紀」には698(文武天皇2)年に伊勢など五国から朱砂が献上され、713(和銅6)年に伊勢国が貢納する調を水銀とすることが記録されている。丹生地域で生産された水銀が貢納・献上され、東大寺大仏の鍍金(ときん)材などさまざまな用途に使われたと考えられている。
白粉、化粧
日本の白粉は液状の水白粉であり、西洋と同じく主な成分に水銀や鉛を含んでいた。長期的な使用者には鉛中毒や水銀中毒による肌の変色(白粉焼け)が多くみられたといわれている。
男性も、公家が古代より白粉などで化粧をする習慣が存在し幕末まで続いた。武家もやはり公家に習い公の席では白粉を塗っていたが、江戸時代中期には、化粧をして公の席へ出る習慣は廃れた。ただし、公家と応対することが多い高家の人達は、公家と同様に幕末まで化粧をする習慣を保持していたほか、一般の上級武士も、主君と対面する際、くすんだ顔色を修整するために薄化粧をすることがあったという。
明治時代には、鉛白粉の害が論じられ、1900年には国産の無鉛白粉が発売された。しかし、鉛白粉は伸びや付きに優れたものだったので、害があることが知られていたにもかかわらず、昭和初期まで使われ続けた。
銅鏡
鏡の研磨には古くはカタバミやザクロが用いられた。含まれているシュウ酸などによって曇りの原因となる汚れが取り除かれ、輝きが蘇った。元禄頃からは、水銀に錫の粉末を混ぜてアマルガムを作り、これに梅酢を加えて砥ぐようになった。クエン酸で表面の汚れが除去され、そこに錫アマルガムが付着することでメッキ状態になり、美しい鏡面が得られた。
水銀と古墳
竪穴式石室に敷き詰められていた朱(赤色の顔料)のうち、木棺中央部だけに貴重な「水銀朱」を大量に使い(厚さ4、5cm)、石室内のほかの部分の顔料はベンガラ(酸化鉄)を用い、使い分けをしていた。(奈良の黒塚古墳)
このような使い分けは、弥生中期末の北部九州地方が国内最大の出土例としてある。吉備地方(岡山県南部)の弥生末期の墳丘墓でも水銀朱を木棺内に厚く敷き詰めた例がある。
朱は死者の再生祈願の呪術としてまかれるとされる。
水銀朱は原料の「辰砂」の産地が限られ、製法も複雑なことから貴重で、これほど大量に使われた例はまれという。桜井茶臼山では200kgの水銀朱が見つかっている。
魏志倭人伝は、水銀朱について「その山は丹(辰砂)あり」と倭国の特産物とし、卑弥呼が正始四年(243年)に魏に献上したと記載。邪馬台国時代に大量に使われていた可能性が高い。
水銀と古墳
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上垣外憲一は神武東征が熊野を南部の端までおりたという『日本書紀』の記述を疑い、神武は実は紀ノ川を遡ったのではないか?と推察している。その最大の理由は紀ノ川沿線に点在する丹生地名である。丹生は「にゅふ」で、主に水銀を求めて入り込んだのではないかと、かの水銀と古代史の研究で有名な松田壽男の言葉から推察するのである