讃留霊王伝説、讃岐の大魚退治

讃留霊王伝説については桂孝二氏が「讃留霊王伝説考」として『香川叢書』所載の讃留霊王伝説 について詳細なまとめを発表している。 桂氏は嶋田寺本の口語訳を試み、物語の重要要素として
1魚胎中で火を出すこと、
2酔い伏すこと、
3霊水のこと、の三点を挙げて解説している。
讃留霊王伝説の理解には全体像の把握が必要であると思われるので、以下漢文体で記載されている『香川叢書』所収の九本全てを書き下し、内容を確認したい

現時点で成立年が判明しているものを年代順に 並べてみると、
1承応元年(1652年)『讃岐大日記』
2享保三年(1718年)『南海通記』「讃留霊記」
3享保二十年(1735年)嶋田寺本「讃留霊
公胤記」
4明和五年(1768年)『三大物語』
5文政十一年に(1828年)『全讃史』「霊王記」
6安政五年(1858年)『西讃府史』
7不明 豊原道隆寺本「讃留霊公胤記略」 8不明 中尾本「異本讃霊記」
9不明『讃陽綱目』
となる。

讃留霊王神社
飯山南小学校の西側、前方後円墳(讃留霊王古墳)の丘にある神社。
見晴らしの良い開けた場所にある。
地名の法勳寺は、この近くにあったようで、平安時代の創建と推定されている。
この地一帯は、綾氏が開発とされたといわれている。

本居宣長の古事記伝に「讃留霊王」という人物 についての伝説が記されている。

讃岐国鵜足郡に讃留霊王と言う祠あり、そ れは彼の国に讃留霊記と言ふ古き書ありて記 せるは景行二十三年、南海の悪しき魚の大な るが住みて、往来の船を悩ましけるを、倭建 命の御子、此の国に下り来て、討ち平らげ賜 ひて、やがて留まりて国主となり賜へる故に、 讃留霊王と申し奉る、それを綾氏和気氏等の 祖なりと云ことを記したり、
或いは此を景行天皇の御子神櫛王なりとも、 又は大碓命なりとも云ひ伝へたり、讃岐の国 主の始めは倭建命の御子、武卵王の由、古書 に見えたれば、武卵王にてもあらむか、
今とても国内に変事あらむとては、此の讃留霊王の祠、必ず鳴動するなりと、近きころ、 彼の国の事ども記せる物に云へり、
今思ふに、讃岐の国造の始めならば、神櫛 王なるべし、然れども倭建命の御子と云、又 綾君和気君の祖と云るは武卵王と聞ゆるなり、 さてさるれいと云は、いかなる由の称にかあ らむ、讃留霊と書くは、後人の当てたる文字 なるべし。

讃岐大日記本
1景行天皇の二十有三年、一の大魚有り。 2其の大きさ嶋巒の如し。 3其の去来電の如くして、西海に周流し、四国を
匝廻す。
4以て波瀾を動かし、船舶を沈す。 5且つ好みて人肉を食ふこと切なり。 6故に旅客の往来、貢物の運送已に絶す。 7天子之を愁ひ、官士を以て之を殺さんと欲す。 8然るに悪魚船翼を砕き、官士を亡す。 9天子驚駭して、小碓皇子〈日本武尊と号す。〉に勅して曰く「速かに西海に至り、悪魚を殺し、泰平の思いを為さしむべし。」 10小碓答へて曰く「我凡子にして英雄の士にあらず。霊子〈時に年十五歳。〉を召して之に命ずべし 。」 11天皇之を喜び、霊子をして西方四国に入らしめ、国吏に命じて、嶋々浦々に兵士を置きて、悪魚の有無を見る。 12或は土国の南海に来たり、或は阿国の鳴門に来たる。 13然れ雖も波狂い風烈くして、舟行すること能はず。
14唯茫然として霊子土国に居す。 15明くる年三月一日、悪魚讃岐の椎の途に来たる。 16霊子、之を聞く、而して四月三日此の国に至り、工を集めて船を作り、一千余の士を率ゐて、五月五日悪魚に向かふ。 17悪魚口を開きて船を呑む。 18霊子・官士魚胎に入りて、暑きこと火の如し。 19官士酔ひ伏して、皆尸の如し。 20霊子、独り心正く身健なり。 21而して剣を以て魚肉を切り破り、五日に及んで天日を見る。
22是に由りて悪魚死す。 23而して讃の福江の浦に寄る。 24是に於て神童一人瓶水を持ち、来て霊子に奉る。 25霊子之を呑むに心潔し。 26神童に問ひて曰く「此の水何処にか在る。」 27答へて曰く「安場の水是なり。」 28霊子、之を汲みて、官士の口に入るに、悉く皆
蘇生す。
29又邑人集ひ来て、魚屍を切分す。 30而る後に霊子、官士を率ゐて鵜足津の邑に入る。 31時に五月十有五日なり。 32神童は横汐明神なり。 33天の王道を守るに依り、神力を加ふること見つ
べきなり。 34悪魚の一霊福江の浦に残り、人民を困むること年尚し。 35後に一箇の伽藍を建て、魚の御堂と号すと今に至るまで泯へざりき。 36霊子都城に帰らずして、讃地に留まる。 37故に讃留霊公と名づけ奉る。 38後に城を香西の邑に築き、当国の司と為る。 39仲哀帝の八年九月十有五日、齢百二十五にして薨す。

南海通記本「讃留霊記」
1景行天皇の二十三年に、西の海に舟呑む大魚有り。
2其が形は鰕魚の如くにして、其の大きさ嶋崖の如くなり。
3常に土佐の南海に住めるが、阿波の鳴門、讃岐 の椎の門、及伊予の水崎に往き来ひ、西州より 船舸往還する所を覘ひつつ、波濤を動し舟楫覆 して、人物を食むこと劇なりき。
4故旅客之を苦しみて、海路已に絶たりき。 5是に於て西州の宰吏、天皇に告しけらく、「西 の海に悪魚有りて、酷く世を害為む。疾く之を
殺りて民間行客の患難を救ひたまへ。」 6天皇、即ち播磨武夫に命せて之を遂に猟らしむ。 7焉に武夫大魚の形勢の之殺得がたきことを知り
て、即ち啓しけらく、「吾儕らは、唯人の人に 敵あふことは知れども、人の大魚に敵あふこと を知らず。伏願ふは赦宥したまへ。」
8是に於て小碓尊に詔り曰く「西の海に悪魚有り て、数く旅客の舟を悩乱す、子行きて之を攘り て、以て世民の安寧を為すべし」
9尊答へて曰く「吾大魚を水中に猟ることを察らず。然れども吾は反命に忍びず。故に先に往き て大魚の形勢を視ひ、以て其の変動に従ふべき か。」
10天皇之を喜び、即ち命を授けたまふ。 11尊、命を受け、二十四年春正月一日、西海に赴 き、数十日を経て、吉備の穴の海に到りて大魚の消息を検察ふ。 12大魚讃岐の椎の門に棲みて、王船の動静を覘ひ、将に以て却りて之を呑まんとす。 13尊、挍討の処に有りて、舟を翅けて之を遁去す。 14是に於て艨艟を造り、鋒刃を設け、火攻めのものを具へ之に対ふ。 15大魚南の海に入りて、其の拠る所を知らず。 16故に讃州の宰吏に命せて、遠候を海濱に置きて、其の去来を望ましむ。 17尊、暫し此に止まり、吉備武彦の女吉備の穴戸
武媛を妃して、王子を胎姓しむ。 18秋八月、大魚阿波の鳴門に来て、災害を為す。 19然るに秋天風烈れば、舟行くことを得ず。 20是に於て年を踰ゆる。 21二十五年季春三月一日、大魚讃岐椎の門に来たり。 22尊、之を聞き、夏四月三日、讃岐に至り、阿野川の上に止まり、諸司と与に相議りて、以て巧 匠を集め、円木の其の中を虚ろに刳らして、艇艡を造り、以て器械を備ふ。
23兵士六十三人を率いて、尊自ら之に乗り、烈火 を舟の中に蔵し、兵各鋒刃を携り、以て其の掌 る所を守り、海嶋に出て、大魚に向かひ、計り て之に呑ましむ。
24大魚即ち噛み研がむと欲するに、焃炭水の勢に 過れ、猛火発し、胎中を焚く。
25兵士鋒刃を以て、其の骨内を刺く。 26是に於て大魚転動して斃れるが、阿野の福江に漂ひ寄りき。 27然るに官兵毒気に中りて、胎中に酔臥す。 28尊は特健心正なれば、魚胎を截破り出て、日光
見るを得る。 29是に於て小吏務・邑人集ひ来て、魚胎を刳剔き
て官士を執り抱き之を出しき。 30維の時、鬢津羅に結ひたる一童子有りて、瓶子を持ち来て、尊に飲ましむ。 31之を飲めば性心清明なり。 32即ち童子に問ひて曰く「此の水は何処に在る
か 。」 33童子対へ曰く「此は是樵夫が休み場の水なり。」34尊曰く「吾の卒の死亡も救へんや。」 35童即ち諾ひて、邑人に其の清水を汲ませて其の
面に灑ぎ其の口に飲ましむ。 36是に於て毒気醒めて、悉く蘇生を得る。 37故に其の水を号けて八十甦の水と曰ふ。 38童子は是地主横汐の大明神なり。 39固に天の王道を佑くるに依りて、神力を加ふると見るべきなり。 40五月十五日、尊官士を率ゐて陸地に入る。 41時に平山漁人、餉を献じ尊供す。 42故に地を称して御供所と曰ふ。 43吏務・有司集ひ来て、其の治め平げしことを悦
ぶ。
44邑人粮食を負ひ担ぎ来て、官卒に饗す。 45尊、使价を馳せ、以て天皇に告ぐ。 46天皇、其の勲を感づること深し。 47是に於て吉備の穴戸武媛に生ましむ王子、是れ武殻王なり。 48即ち讃岐に止めて、之に其の地を守らしむ。 49故に讃留王と曰ふ。 50其の官士六十三人、亦福江山に登りて、各嫩松を携へ、一人ごとに一株を樹ゑしめて、後世の証と為せり。 51故れ其の遠裔、植松を以て姓と為し、又其の船
長を祝ひて、楫取の大明神と曰ふ。 52亦大魚の尸を集め、白沙に埋め、木を植て之の証と為せり。
53後の人魚霊堂を建つ。 54彼此の名実、今に至るまで泯へざりき。 55仲哀天皇の八年秋九月十五日、讃留王薨す。 56寿一百二十五歳なり。

3嶋田寺本「讃留霊公胤記」
1神武天皇より十二代、景行天皇の御宇二十三年癸巳、南海土佐国の奥海に大魚有り。 2其の姿鰕の如し。 3船舶を飲み人肉を食し、南海諸国の年貢公物を 4覆没すること勝て計ふべからず。 5古今無双の朝敵なり。 6是に於て天皇驚き、悪魚誅戮の為に、官兵を差遣すに、官兵悉く悪魚の為に 食せられて、曾て誅すべき拠無し。 7爰に天皇御子小碓皇子に詔して曰く「我生す所の男子、年齢十五、強力勇士、号けて霊子と曰ふ。請ふ宣命を牒しめ下したまへ。」 8天皇叡歎極まり無し。 9忽ち宣命す。10之に因て霊子西海に赴向す。 11僅か十日にして土佐国に到着す。 12而して大魚猶土佐の海に棲む。 13霊子土佐国に止住す。 14故に官軍等止土霊公と称し奉る。 15又悪魚南海に周廻して、阿波国鳴途の海に棲む。 16同二十四年甲子正月一日、西海に下行す。 17同年三月一日、当国槌途の海に棲みて、船舶及び官物を飲み人肉を食ふなり。 18霊子又同四月三日当国に踰移し、軍船を造作らしめ海に浮かべ、一千余人の官軍力士等を募集
するなり。 19同二十五年乙未五月五日、彼の船に乗り、大魚に漕ぎ向かふ。
20大魚口を開け軍船を飲む。 21之に依て軍兵等魚胎に酔臥して死体の如し、而
して猶生存す。 22然れども霊子身心悩むこと無し、冷然として宛も瑠璃閣に遊戯するが如し。 23十日十夜を経て尚心明朗、総て痛きこと無し。 24霊子魚胎に於いて火を出して之を焼く。 25大魚苦悩して遂に斃れる。 26爰に霊子剣を振りて其の肉を破り、胎中より出
て魚屍の上に乗り、天を見るに日光赫奕たり。 27乃ち当国福江の浦に漂寄す。 28時に童子一人忽然として汀濱に影向して、霊子に謁し、瓶を持ち水を献ず。
29霊子之を服す。
30味美にして甘露の如し。 31霊子童子に問ひて曰く「天童我に与ふる甘水は、
何処に之有るか。」 32童子答へて曰く「安庭の水是なり。」 33霊子又曰く「天童早く我を伴ひ、水を斟みて魚
胎に酔臥せる軍兵に与へ、服せて活命しめよ。」 34童子即ち瓶に水を斟みて、霊子を相伴ひて魚屍 在る所に遷り来、胎中を剖破し、則ち水を以て
酔臥せる官兵等に与へて之を服ましむ。 35軍兵等即ち醒寤す。 36霊子彼の軍兵等を伴ひ、陸地に上着す。 37時に同年五月五日午の剋なり。 38是れ則ち霊子の威勢、偏に医王善逝を懸憑れ奉
りて、而して頂上に安置する薬師如来の威神力にあらずや。 39故に明に知りぬ、瑠璃光尊十二悲願妙像法転の
時、能化の教主、除病延命、九横の患難を悉く 除せんと誓ひたまふこと斯れ新なり。40是を以て霊子此の浦の陸地に於いて一宇の精舎 を創造しめ、件の像を安置し、法勲寺と号く。 41爾より人民遂に貢物を進済し、而して船舶及び
海人等敢て以て煩うこと無きを得る。 42所謂童子は日光大士応化の身、横塩明神なり。 43故に浦を兒濱と号け、水を瑠璃水と曰ふ。 44瓶は是薬壺なり。
45故に名けて薬壺水と曰ふ。 46又霊子当国鵜足の畻に移住して、星霜を送り歳
月を経るの間、軍兵等讃留霊公と称え奉る。 47彼の軍兵の中に四人の将軍有り。 48而して当国の四箇所に居住す。 49所謂井戸の行部、田比の里布、師田の宇治、坂本の秦胤等なり。
50土人四天王と謂ふ。 51霊子生む所の子、一女三男有り。 52現在国郡開墾の首領、郡司、戸主、長者等、皆其の胤子なり。
53又霊子胸に阿耶の黒點あり。 54故に子孫綾を以て氏姓と為す。 55計り知ぬ、此の皇子は阿閦仏の応化なり。 56時に十四代仲哀天皇の御宇八年己卯九月十五日、霊子年齢百二十三にして薨去す。

4三代物語
1景行帝の二十三年、南海に大魚有り。 2恒に土佐の海南に居む。 3時に阿波の鳴門、讃岐の椎の門、伊予の水碕の間に出遊し、突兀として涛を起こし、舟を覆へして人を食ふ。
4是に於て舟行殆ど絶えぬ。 5南海の刺史、闕に詣りて奏す。 6帝迺ち播磨の武夫に命じて曰く「汝往け。維持懋よや。」 7武夫、倭武尊に譲りて曰く「神武雄略臣皇子に如 か ず 。」
8帝曰く「兪。」 9迺ち倭武尊に命じて曰く「往けや、其れ能く勲有 れ 。」 10越に明年春正月、尊、京師より歩かして吉備の穴の海に至り、大魚の動静を噉ふ。 11時に大魚椎門に居て、尊の舟を覘ひ之を呑まんとす。
12遽てて之を遁避く。 13是に於て艨艟を造り、兵刃を設け火攻を具へ、
而して之を待つ。 14大魚南溟に入りて、其の所在を知らず。15廼ち諸刕に命じて、其の去来を察せしむ。 16尊、穴の海に次して以て之を待てり。 17吉備武彦が女穴戸武媛、尊に寵せられて武鼓王を生む。 18秋八月、大魚鳴門を出て、暴を為すこと已甚し。 19是の時風悪く湓流雷の呴凌がごとく、涛山の頽
るるがごとく、以て舟すべからず。 20二十五年春三月、大魚椎の門に至る。 21尊、之を聞きて、来て綾川の上に次す。 22迺ち壮士八十人を率ゐて艨艟に乗り、又潜かに猛火を舟中に匿して、誘ひて大魚をして之を呑ましむ。
23火腹中に炎て、腹胃倶に焚けぬ。 24且つ刺すに兵刃を以てすれば、大魚遂に漂ひて、 25安益の市福江の浦に至る。 26八十人の者皆毒に触れて、酔へるが如く死ぬるが如し。
27尊、独り自若たり。
28童子有り。
29瓶水を持ち来て尊に献す。 30尊之を飲むに形愈清明なり。 31八十人をして之を飲ましむれば、則ち須臾に咸
蘇す。
32因て名づけて八十蘇の水と曰ふ。 33天皇に在り。 34向の童子は、蓋し地主横潮の神なり。 35迺ち人を馳せて慶を告げしむ。 36帝之を聞きて、大いに喜ぶ。 37尊、遂に功を武鼓王に譲りて、之をして留めて
是の邦を守らしむ。 38邦人之を称へて讃留王と曰ふ。 39二十八年、詔して封して讃岐の国造と為し、改めて武明王と曰ふ。 40実に綾の公の始祖なり。 41寿一百二十五にして薨す。 42玉井に葬む。 43南海の民、廟を立て歳時に之を祀る。 44号づけて綾の讃留大明神と曰ふなり。

5全讃史
1景行帝の時、南海に大魚有り。 2其の大きさ嶼の如し。
3常に往来の舶を害す。
4是に於て帝之を患ふ。 5迺ち武鼓王に命じて〈倭武王の第五子なり。〉
之を征す。 6帝の二十二年、王、迺ち軍士を率ゐて四国に来たり、大魚の所在を覘ふ。 7翌年三月の朔、大魚椎の門に来たる。 8王、之を聞き、兵を班へしめ土佐従り来る。 9五月五日、兵士千人をして船に乗せ之を討たせ
しむ。
10大魚口を張り、悉く其の船を呑む。 11兵士八百人皆其の気に中りて死す。 12独り王の侍士二百人、剣を抜きて其の腹を屠る。 13蓋し五日にして誅に伏すと云ふ。 14之を福江の浦に埋む。 15邦人其の魚を謂ひて江と曰ふ。 16故に其の頭の所在を謂ひて江口と曰ひ、其の尾
の所在を謂ひて江尻と曰ふ。
17時に天童有り。
18霊泉を持ちて来る。 19王、之を飲み、神気即ち快し。 20八百人の死者に之を濯ぐ。
21死者忽ち蘇す。
22其の水の所在を問ふ。
23則ち金山の東辺なり。 24因て其の水を名づけて八百蘇波と曰ふ。 25今八十蘇と曰ふは省言なり。 26其の天童の祠を立つ。
27横潮大明神是なり。 28時に漁人飯を以て王に供す。 29其の地を名づけて御供所と曰ふ。 30王、状を以て之を奏す。 31帝其の功を賞め、綾の郡を以て封するに、是を以て讃岐に留まる。 32因て以て讃留霊王と号く。 33其の兵士六十三人福江山に登り、各松一株を殖へ、以て後世の信と為す。 34王姓を賜ひ殖松と曰ふ。 35其の魚征する時の舟子の祠を立つ。 36揖師大明神是れなり。 37其の後、大魚の霊妖を為し、国中屢水旱す。 38民以て患と為す。 39因て堂を立て、以て其の霊を安す。 40之を名づけて魚霊の御堂と曰ふ。 41王、寿百十五歳にして、仲哀帝の八年九月十五日を以て、薨す。 42之を城山の東辺に葬る。 43今鼓丘と曰ふ是れなり。

6西讃府史
1景行天皇の二十三年、土佐の海に悪魚棲居して、時々讃岐の国に出遊す。たり、大魚の所在を覘ふ。 7翌年三月の朔、大魚椎の門に来たる。 8王、之を聞き、兵を班へしめ土佐従り来る。 9五月五日、兵士千人をして船に乗せ之を討たせしむ。
10大魚口を張り、悉く其の船を呑む。 11兵士八百人皆其の気に中りて死す。 12独り王の侍士二百人、剣を抜きて其の腹を屠る。 13蓋し五日にして誅に伏すと云ふ。 14之を福江の浦に埋む。 15邦人其の魚を謂ひて江と曰ふ。 16故に其の頭の所在を謂ひて江口と曰ひ、其の尾の所在を謂ひて江尻と曰ふ。
17時に天童有り。
18霊泉を持ちて来る。 19王、之を飲み、神気即ち快し。 20八百人の死者に之を濯ぐ。
21死者忽ち蘇す。
22其の水の所在を問ふ。
23則ち金山の東辺なり。 24因て其の水を名づけて八百蘇波と曰ふ。 25今八十蘇と曰ふは省言なり。 26其の天童の祠を立つ。
27横潮大明神是なり。 28時に漁人飯を以て王に供す。 29其の地を名づけて御供所と曰ふ。 30王、状を以て之を奏す。 31帝其の功を賞め、綾の郡を以て封するに、是を以て讃岐に留まる。 32因て以て讃留霊王と号く。 33其の兵士六十三人福江山に登り、各松一株を殖へ、以て後世の信と為す。 34王姓を賜ひ殖松と曰ふ。 35其の魚征する時の舟子の祠を立つ。 36揖師大明神是れなり。 37其の後、大魚の霊妖を為し、国中屢水旱す。 38民以て患と為す。 39因て堂を立て、以て其の霊を安す。 40之を名づけて魚霊の御堂と曰ふ。 41王、寿百十五歳にして、仲哀帝の八年九月十五日を以て、薨す。 42之を城山の東辺に葬る。 43今鼓丘と曰ふ是れなり。

6西讃府史
1景行天皇の二十三年、土佐の海に悪魚棲居して、時々讃岐の国に出遊す。
2而して高涛を起こし、船舶を沈め、人物を食ふ。 3是に於て海路の往来已に絶す。 4国吏頻に闕下に奏す。 5天皇驚駭して、急に彼の魚を捕り殺さんと欲す。 6即ち神櫛王に詔して、大伴健日・吉備武彦の二将を副ひて、土佐の国に発遣す。 7王、諸国に命じて、悪魚の所在を問索す。 8時に阿波の国の鳴門に在り。 9然るに彼の海は湓湧雷の響くが如くにして、船行すること能はず。 10故に王其の時日を待つ、一年を経過す。 11明年三月に至りて、国吏啓して曰く「悪魚讃岐の国の槌門に出づ。」 12王、之を聞きて、迺ち土佐の国に発して、四月三日讃岐国に来たり、千余の軍士を集め、駆逐して遂に悪魚を福江の浦に屠殺す。 13実に五月五日なり。 14其の時軍士或は噉食せられ、或は瘼毒せられ、
失命するもの夥多し。 15然れ雖も王独り身心清潔なり。 16是に於て健日・武彦の二将をして京に還らせて慶を告げしむ。 17時に王京に還らずして、讃岐の国に留まる。 18故に国人讃留王と称す。 19然り而して城郭を綾の城山に築き、留居すること久し。 20仲哀天皇八年齢百二十歳にして薨去す。 21其の子孫千摩命・能摩命・森葉摩命・小枝大別命・吉美大人・油良大人・板根麿・笠麿・小櫛 麿・海麿・浦津大人等継襲し、世々山田郡に領 知す。
22又讃岐和気・酒部等の姓氏を称すものは、皆此 の讃留王の後裔なりと云ふ

7豊原道隆寺本「讃留霊公胤記略」
1人王十二代景行天皇の二十二年、土州の南海に大魚有り。 2其の大きこと島の如く、其の形鰕の如し。 3電奔雷吼、鰐口龍尾なり。 4官艘買舶数々其の暴に苦しむ。 5天皇詔して軍士を遣すに、其の暴に触れ死者多くあり。 6天皇、復ねて小碓尊〈日本武尊なり〉の子霊公を遣す。
7勇力人を兼ぬ。〈一に云ふ神櫛尊〉 8霊公、軍士一千を帥ひて土州に到り、止ること已に日尚ふ。9故に号けて左止霊公と曰ふ。 10悪魚周流して阿州の鳴渡に到り、同二十三年三月一日讃州の槌の渡に棲みて猶ほ暴を為す。 11同四月三日、霊公追ひて讃州に到る。 12同五月五日、軍士大船に乗り悪魚を屠る 13軍士皆其の気に触れて而して酔死す。 14独り霊公死せず。 15大船自ら福江の浦に着けり。
16神童有り。 17倏然として来たりて、一箇の瓶水を奉る。 18霊公、之を飲めば、酔心頓醒。〈神童とは、横塩の明神の化す所なり。社は今魚御堂の東の山
の半腹に在り。〉 19霊公曰く「此の水は何れの処に在るや。」 20神童導きて其の水在る所に行く。 21霊公、乃ち斟みて軍士の口に洒げば、則ち八十人蘇を得たり。 22故に其の水を名け八十蘇と曰ふ。〈旧名は安場の水と曰ふ。北條郡天皇宮の辺に在り。〉 23今福江浦に魚御堂在り。其の海辺を兒濱と曰ふ。 24伝に云ふ、大魚を埋めて一宇を其の上に営す。 25故に魚御堂と曰ふ。 26霊公、終に讃州に留まる。 27号けて讃留霊公と曰ふ。 28既にして而して香川郡に城く。 29蘇るところの軍士の内、四人の将軍有り。 30刑部〈刑部の大夫の曩祖なり。〉・里布〈井田の大夫の先祖なり。〉・宇治・秦胤と曰ふ。 31分て井戸・田比・師田・坂本等の里に居しむ。 32仲哀天皇の八年九月十五日、霊公百二十二にして薨す。

8中尾本(異本讃留霊記)
1人皇十二代景行天皇の二十三年、西海土佐の海 中に一の大魚有り。
2其の姿鱣の如し。
3去来電に似たり。 4西海の四州を回り、波瀾昇降せしめ船舶を砕き、
而して人肉を食らふこと勝て計ふべからず。 5玆に因て都鄙の往来、貢物の運送、已に断絶す。 6事叡聞に達す。 7故に大魚を戮せんと為しめ、屢々官兵を彼の地に差遣し、越に之を殺さんと欲するに、却って害を得る。 8天皇、小碓皇子に詔して曰く、「汝速やかに西海に到り、大魚を戮し人民を穏やかにすべし。」 9皇子答へて曰く、「我が男有り。今年十有五。強力人に邁く。号けて霊子と曰ふ。請ふ之を以て吾に代へん。」
1 0 天 皇 曰 く 、「 善 也 。」 11是に於て霊子十日程経て土佐に到り、兵士を所
々に置いて、大魚の所在を見せしむるに、猶ほ土佐の奥海に在り。 12然り而して波高く風烈しめ、船行くこと能はず。 13故に霊子、其の時節を待つ。 14爾後大魚土佐自り阿波の鳴戸に周り、同二十五
年孟春西海に下り、同年三月朔讃岐椎の途の海 に来たりて、往来の船舶を砕き、官物及び人肉 を食ふ。
15同四月三日、霊子、讃岐に踰えて、巧匠をして 新たに艇艡を造らしめ、諸方居る所の官軍召す こと一千余人。
16同五月五日辰の刻、艤ひしめ大魚に向かふに、 大魚呼吸しめ海中を震動す。
17而して口を開きて艇艡を呑む。 18霊子官士多く魚胎に入り、酔臥すること死るが如し。
19而して霊子独り身心悩むこと無し。 20終に魚胎に在りて、火を出て之を焼く、且つ剣を以て魚肉を破るに、大魚の逼悩言ふべからず。 21而して霊子、胎中より出て、天道を礼するに日光赫奕たり。 22乃ち魚屍に乗りて、讃岐の福江の湊に到り、魚屍を陸地に寄せ、胎中の官兵を出す。 23時に汀濱に一人の童子有り。 24瓶水を持ち来て霊子に捧ぐ。 25其の水美味にして甘露の如し。
26身心清潔。 27霊子童子に問ひて曰く、「此の水何くに在るや。」 28曰く、「是れ則ち安庭の水なり。汝安庭に到りて、此の水を酌みて酔臥の官兵に飲ましめよ。皆活命することを得るべし。」 29霊子之を聞き、行きて之を酌み官兵の口に入るるに、即ち醒窹を得たり。 30此の時邑人来て大魚の肉を截分す。 31霊子之を喜ぶこと甚だし。 32而して后官軍を率て、鵜足津の邑に入る。 33時に同月十五日午の刻なり。 34憶ふに是れ童子は、日光大士応化の身、即ち横汐明神なり。 35而して後海上に往来の煩ひ無し。 36霊子、京師に帰らずして、鵜足津に居住す。 37官兵の中勇力の者四人を選び、将軍を定めて当国四箇所に居らしむ。 38所謂井戸の行部、田比の里布、師(黒)田の宇治、坂本の秦霊子。
39之を四天王と名く。 40霊子胸間に阿耶の字の點あり。 41故に綾を以て氏姓と為す。 42亦霊子諱を讃留霊公と曰ふは、京師に帰らず、讃岐に留まる。
43故に以て名く。 44国衙庁官等、此の姓に雑ふべからず。 45仲哀天皇の御宇八年九月十五日、壽百二十五歳にして薨す。 46今現に讃留霊天皇と稱す。 47毎年九月十五日祭礼有り。 48此の天皇は讃岐の国造の始祖なり。

9讃陽綱目
1讃留霊公と称へ奉るは、人皇十二代景行天皇の皇子大碓命なり。 2是大碓命・小碓命、同胞双生の皇子なり。 3則ち大碓命は西狄を征罰し、小碓命は東夷を征
罰す。
4然るに四国の海に大魚住む。 5其の大きさ嶋巒の如し。 6毎に旅泊の船を悩まし、往来の人を害す。 7是に由りて国吏闕に詣りて之を奏す。 8天皇即ち大碓命に詔して、大魚を殺さんと欲す。 9是に於て大碓命八十余の軍士を率ゐて、船に乗りて讃岐の椎の戸に至る。 10此の時大魚突兀と遊来て、大碓命の軍船を併呑
す。 11大碓命及び八十余の軍士、大魚の腹中に於て、剣を振りて割裂して出づ。 12故に大魚転輾、福江の磯辺に漂流す。 13其の屍体一の山岳と化す。
14今の松山是なり。 15初め大魚に呑まれし軍士、大碓命の外皆毒気に
触れて瘼死す。 16時に横塩明神童子と為りて出現し、瓶水を携へ来て八十余の軍士の口に注ぐに、皆忽蘇生す。 17故に其の水を号づけて八蘇場の水と曰ふ。 18大碓命を賞し、当国に留めて国主と為す。 19故に今に至るまで讃留霊公と奉るは是れ其の故なり。

大魚とは?
1では大魚について「嶋巒」のような大きさ、 「雷」のような動きが記されている。2では形が 「鰕魚」、大きさは「嶋崖」。3は姿が「鰕」。4は記述無し。5は大きさが「嶼」。7は大きさが 「島」、形が「鰕」、様子について「電奔雷吼、鰐 口龍尾」。8は姿が「鱣」、行動が「電」。9は大 きさが「嶋巒」となっている。
2・3・7で記された「鰕」は大漢和辞典によ ると「えび」「さんしょううお」であり、8の「鱣」 は「こい」「うみへび」である。3には「大魚口 を開け」の表現もあり、大魚の容姿を「えび」と 言うには無理があるだろう。

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