蘇我氏は天皇と姻戚関係を持ちながら蘇我稲目、馬子、蝦夷、入鹿の四代にわたり政権を掌握していた。
中大兄皇子は、蝦夷・入鹿に批判的な蘇我倉山田石川麻呂(蘇我石川麻呂)の娘と結婚。石川麻呂を味方にし、佐伯子麻呂、葛城稚犬養網田らも引き入れる。正に敵方を打つために敵方を利用したのである。
そして、皇極天皇4年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮にて中大兄皇子や中臣鎌足らが実行犯となり蘇我入鹿を暗殺。
翌日には蘇我蝦夷が自らの邸宅に火を放ち自殺。蘇我体制に終止符を打った。
壬申の乱のときに大海皇子(天武天皇)を武力支援したのは、尾張氏と蘇我氏であった。
石川麿呂は後に暗殺されますがそれを謀った中大兄皇子は石川麿呂の娘二人を娶っています。
その娘がのちの持統や元明という女帝を産み、元明は元正を産みましたから、中継ぎと言われる女帝達が何で帝位を譲らなかったのかそれは蘇我の血が流れる男子の即位を待つ為と言って良いでしょう。
山田寺は蘇我倉山田石川麿呂の屋敷跡あるいは悲願の氏寺です。
蘇我本宗家の氏寺がいわゆる飛鳥寺です。
飛鳥寺
法号は「法興寺」または「元興寺」(がんごうじ)であり、平城遷都とともに今の奈良市に移った寺は「元興寺」と称する
昭和三十一年から継続的な発掘調査の結果、塔を中心に三方に金堂を置き、その外側に回廊をめぐらし、さらに北側に講堂、南側に中門、南大門の跡があり、壮大な伽藍であることが判明した。寺域は、南北290m、東西200~250mの規模をもち、飛鳥では大官大寺とともに最大規模の寺院であった。
この伽藍配置は、多くの影響にあった百済には存在せず高句麗の古都平壌にある清岩里廃寺・上五里廃寺・定陵寺に見られる。
680年(天武9)に官寺となる飛鳥元興寺は,もと蘇我馬子の建立にかかる蘇我氏の氏寺であった。元興寺に保管されていた建材の年輪の調査で、588年直後の伐採と判明。
奈良市内にある元興寺塔跡及び元興寺極楽坊は飛鳥寺(法興寺)が平城に移ったものである。これに対して、飛鳥寺は本元興寺(もとがんこうじ)と称される。現在の本堂(今の安居院)は、江戸時代に中金堂跡に建てられた。しかし、本尊の釈迦如来坐像(重文 飛鳥大仏)は、創建時の位置に鎮座している。
推古天皇13年(605)に飛鳥寺は蘇我馬子(?~626)によって建立された日本最古の豊浦寺と並ぶ蘇我氏の氏寺で、(飛鳥寺と豊寺は、僧寺・尼寺がセットで建立された。他には聖徳太子が建立した法隆寺・中宮寺の2例だけ。)
三つの金堂や五重の塔が並ぶ壮麗な伽藍が配置されており、飛鳥寺式と呼ばれるようになった。また、本格寺院私寺。
その後に建立された大阪の四天王寺(日本最古の官寺、)や再建の法隆寺伽藍より大きい。
『書紀』によれば、推古天皇13年(605年)、天皇は皇太子(聖徳太子)、大臣(馬子)、諸王、諸臣に詔して、銅(あかがね)と繍(ぬいもの)の「丈六仏像各一躯」の造立を誓願し、鞍作鳥(止利)を造仏工とした。そして、これを聞いた高麗国の大興王から黄金三百両が貢上されたという。『書紀』によれば、銅と繍の「丈六仏像」は翌推古天皇14年(606年)完成。丈六銅像を元興寺金堂に安置しようとしたところ、像高が金堂の戸よりも高くて入らないので、戸を壊そうと相談していたところ、鞍作鳥の工夫によって、戸を壊さずに安置することができたという挿話が記述されている。一方、『元興寺縁起』に引く「丈六光銘」(「一丈六尺の仏像の光背銘」の意)には乙丑年(推古天皇13年、605年)に銅と繍の釈迦像と挟侍を「敬造」したとあり、造像開始の年は一致しているが、挟侍(脇侍)の存在を明記していること、大興王からの黄金が三百二十両であることなど、細部には相違がある。「丈六光銘」によれば、戊辰年(608年)に隋の使者裴世清らが来日して黄金を奉り、「明年」の己巳年(609年)に仏像を造り終えたという。つまり、『書紀』と「丈六光銘」とでは、銅造の本尊(飛鳥大仏)の完成年次について3年の差がある。福山敏男は、仏像の完成年は裴世清らの来日の「明年」であるところ、『書紀』の編者が発願の「明年」と誤認したため、このような違いが生じたものと考証した
当時の技術水準で、丈六の銅仏が1年足らずで完成するとは考えにくい点などから、福山の言うように、本尊(飛鳥大仏)の完成は609年とするのが通説となっている。
大化の改新による蘇我氏宗家滅亡以後も飛鳥寺は尊崇され、文武天皇の時代には大官大寺・川原寺・薬師寺と並ぶ「四大寺」の一とされて官寺並みに朝廷の保護を受けるようになった。これに関連して飛鳥寺近くの飛鳥池遺跡からは大量の富本銭が発見されている。
出雲大社の素鵞社
出雲大社の裏手にある摂社で祭神のスサノオを祀る神社が「素鵞社(ソガノヤシロ)」という。スサノオとソガはどういう関係があるのであろう。
入鹿神社
奈良県橿原市小綱町(しょうこちょう)にある神社である。
蘇我入鹿とスサノオを祀る。スサノオは明治時代より祀られたものである。
蘇我入鹿の木造坐像を神体とする。現在の橿原市周辺は蘇我氏ゆかりの地であり、「蘇我」、「曽我」といった地名も残る。
小綱町の隣の曽我町には、蘇我馬子が創建した宗我都比古神社があり、蘇我氏の始祖を祀っている。
明治時代に、皇国史観に基づいて逆臣である蘇我入鹿を神として祀るのは都合が悪いとして、祭神をスサノオに、社名を地名からとった「小綱神社」に改めるように政府から言われたが、地元住民はそれを拒んだという。
日本書紀に基づいた「蘇我氏逆臣説」が日本史に通説となっている今に至るまで、地元の人々から崇敬を集めている。
境内には神宮寺としてかつて仏起山普賢寺があり大日如来が祀られていた。神仏分離の際に普賢寺は廃寺となったが、建物と本尊の仏像は残されて成等山正蓮寺の管理となり、「大日堂」という名称で現存している。大日堂および大日如来木像は国の重要文化財になっている。
宗我坐宗我都比古神社
推古天皇の御宇(6世紀末から7世紀前葉)に当地を拠点とする蘇我馬子が蘇我氏の氏祖である蘇我石川宿祢夫妻を祀ったことを起源とする。『延喜式神名帳』では大社(官幣大社)に列し、朝廷からの崇敬を受けていた。
蘇我比咩神社
千葉県千葉市中央区にある神社である。式内社で、旧社格は郷社。
蘇我比咩大神と千代春稲荷大神を主祭神とし、天照皇大神・春日神(経津主神・武甕槌神・天児屋根神・天児屋根比売神)・八幡神(応神天皇・比咩大神・神功皇后)を配祀する。
中世には春日神が信仰の中心となっており、春日大明神と称していた。
創建の年代は不詳である。紀記神話によれば、日本武尊の東征の際、相模から総国に渡ろうとしたとき暴風雨に遭い、それを鎮めるために日本武尊の后の弟橘姫が入水した。社伝によれば、そのとき弟橘姫に付き従ってきた5人の女性も一緒に水に入ったが、そのうちの一人、蘇我大臣の娘の蘇我比咩だけは浜に打ち上げられ、里人の看護により蘇生し、都に帰った。後に里人は、日本武尊が帰途に亡くなったことを聞き、その霊を慰めるために社を建てて祀った。応神天皇はその行為に感激し、蘇我一族をこの周辺の国造として派遣した。蘇我氏は春日大社と比咩神社を信仰しており、両社を勧請して蘇我比咩神社を創建したという。
ただしこれには別の伝承もあり、浜に打ち上げられ蘇生したのは弟橘姫であり、弟橘姫が「我、蘇(よみがえ)り」と言ったので「蘇我」という地名となったともいう
蘇我神社
安芸国虎のご先祖は、壬申の乱で敗北したので土佐に流された蘇我赤兄だといわれています。 安芸氏の祖先を祀った。
君津の『小櫃村誌』
君津市の小櫃地区には、壬申の乱に敗れた大友皇子が逃れてきたという伝説が残っている。
明治期には、小櫃地区の白山神社古墳を、弘文天皇の墓だと申請した事実が、『君津郡誌』に記されている。
小説(『大友の皇子東下り』豊田有恒著 講談社)の題材になっていのである。
木更津市の「鎌足」は、藤原鎌足が生まれた地だという言い伝えも『君津郡誌』に紹介されている。
大友皇子は、672年に起こった古代史上最大の争乱であった壬申の乱で、天智天皇の弟の大海人皇子と争い敗れ、滋賀県大津付近の「山前」というところで自害したことになっている(一説には、山城国であったともいうが)。その大友皇子が、蘇我赤兄等とともに小櫃地区に逃げてきたというのである。そもそも、「小櫃」という地名自体が、大友皇子の亡骸をおさめた棺からついた地名だというのだ。
伝説によれば、大海人皇子に敗れた大友皇子は、海路房総に逃れ小櫃地区俵田に御所を営んだ。しかし、この地まで追ってきた大海人軍によって追い詰められ、ついには自害に追い込まれたという。白山神社の北を流れる小櫃川の支流「御腹川」は、大友皇子が腹を切って自害したところから名づけられたという。白山神社(田原神社ともいう)は、後に、天武天皇となった大海人皇子の命により、大友皇子の霊を鎮めるために建立されたとも伝えられている。
小櫃末吉地区にある末吉神社には、大友皇子に従って逃げてきた蘇我赤兄が祀られている。
白山神社の祭神は、『君津郡誌』に、「大友皇子」と「菊理媛命」とあった。また、神仏習合の考えから、明治初年まで境内に神宮寺が置かれ、「白山大権現」と呼ばれ、毎年正月29日には、氏子より寄進された大般若経を神前で転読したともあった。ちなみに、「菊理媛命」を祀るようになったのは、明治の神仏分離によって「白山大権現」が「白山神社」となった際に、「白山神社なのだから、菊理媛命を祀らなければならない」という理由から始まったようです。