網、魚、鮎、鮒、風

網の初出

「日本書紀」神代・下の歌謡で、
「 天離 (あまさか) る 夷(ひな)つ女(め)の い渡らす 迫門(せと) 石川片淵(いしかはかたふち) 片淵に 網張り渡し 目(め)ろ寄(よ)しに 寄し寄り来(こ)ね 石川方淵  」
と載せている。

考古学上、網の出土例の最古のものは、北欧の中石器時代にさかのぼる。日本では縄文土器に網目の圧痕のある例が青森県是川遺跡や福島県小名浜などで発見されているほか、漁網の錘とみられるものが、縄文時代早期の函館市梁川町遺跡の石錘を最古例として、その他にも多数発見されている。

アユの風

東風(あゆのかぜ) いたく吹くらし 奈呉の海人(あま)の釣りする小船(おぶね) 漕ぎ隠れ見ゆ 

万葉集17巻4017 大伴家持

「万葉集」の末二巻の中には アユノカゼ に東風の二字を宛ている。多くの国語辞典には この語を東風と註し、それを ほかの方角の風とするものを方言と見下すらしいが、アユ は 後世の アイノカゼ も同様に、海岸に向いてまともに吹いてくる風、渚に向かって吹き寄せる風の事だった。

尾張の アユチガタ、後には郡となりまた県の名にもなったが、古くは年魚市(アユチ)とも字には書いて、越中と同じにアユと発音していた。

神功皇后の鮎と戦占い

日本書紀に

「是(ここ)ニ皇后針ヲ匂(ま)ゲテ鈎(ち)を為(つく)リ、粒(いいぼ)ヲ取リテ餌ニシ、裳の縷(いとすじ)ヲ抽取(ぬきと)リテ緡(つりのお)ニシテ河中ノ石ノ上ニ登リテ鈎ヲ投ゲテ祈(うけ)ヒテ曰ク云々」

とあり、年魚(あゆ)がみごとに釣れたので戦勝間違いなしと喜ばれ「希見(めずら)しき物なり」とおっしゃった。

万葉集の松浦の玉島川の歌

松浦川玉島の浦に若鮎釣る
妹等を見らむ人のともしさ松浦なる玉島川に年魚釣ると立たせる兒等が家路知らずも

遠津人(とほつひと)松浦の川に若年魚釣(わかゆ)つる妹が袂(たもと)を我こそまかめ

松浦川川の瀬光鮎釣ると立たせる妹が裳の裾濡れむ

芳年魚わかゆ釣る松浦の川の川波の普通(なみ)にし思もはば我戀ひめやも

春來されば我家(わぎ)への里の川門(かはど)には年魚兒(あゆ)こさ走はしる君待ち兼ねて

松浦川七瀬の淀(よど)はよどむとも吾われはよどまず君をし待たむ

松浦川河の瀬せ早み紅(くれなゐ)の裳もの裾沾ぬれて年魚釣るらむか

人皆(ひとみな)の見らむ松浦の玉島を見ずてや吾は戀ひつつ居らむ

松浦川玉島の浦に若鮎(わかゆ)釣る妹等(いもら)を見らむ人の羨ともしさ

勇魚、鯨

『古事記』(712年)や、『日本書紀』(720年)に、「久治良(くじら)」(古事記・神武天皇)・「入鹿魚(いるか)」(古事記・応神天皇
=皇子時代)・「鯨魚(くじら)」(日本書紀・敏達天皇)などのことばが見える。

「久治良=鯨」は、神倭伊波礼毘古命(神武天皇)が、九州から大和へ東征する途中、奈良の宇陀で歌った歌の中に出てきます。
宇陀能 多加紀爾   宇陀(うだ)の 高城(たかき)に
志藝和那波留     鴫罠(しぎわな)張る
和賀麻都夜 志藝波佐夜良受  我が待つや 鴫は障(さや)らず
伊須久波斯 久治良佐夜流 … いすくはし 鯨 障(さや)る …
<倉野憲司校注『古事記』(岩波文庫)>

鵜飼の初出

『古事記』に神武の東侵説話に
「島つ鳥、鵜養(うかい)が伴(とも)、今助(すけ)に来(こ)ね。」
とあり、窮地に陥った神武が「鵜養が伴」に援軍を要請している。
神武の出身地である九州(に「鵜養が伴」がいたことがわかります。

「楯並(たたな)めて 伊那佐の山の 木の間よも い行きまもらひ
戦えば われはや餓(え)ぬ 島つ鳥 鵜飼いがとも 今助(す)けに来ね。」
この奈良の伊那佐山での戦いを歌ったものである。伊那佐山の木の間を行き来しながら、
楯を並べ防戦しているが食べ物が無く飢えてしまった。鵜養(うかい)がとも(伴・供)よ早く助けに来い、
という意味である。