継体2年 508年
・武烈天皇を片岡磐杯丘陵に葬る。12月、耽羅人が初めて百済国に通交する
3年 509年
・2月、百済に遣使。任那の日本県邑にいる百済国人で、逃亡してきた者たちを百済本国に還す。
6年 512年
・4月、穂積臣押山を百済に遣わす。このときに筑紫国の馬を40頭持参する。
12月、百済が朝貢し、任那の上多利・下多利・裟陀・牟婁の四県の割譲を申し出る。多利国守である穂積臣押山が割譲に賛成したので、物部麁鹿火大連を勅使に立てたが、アラカビの妻が大反対したため、アラカビは勅使を辞退した。だが天皇の決意は堅く、別の使いを遣って百済の意向に報いることになった。しかしそのことを後で知った勾大兄皇子は「応神天皇の時代から宮家を置いている
重要な土地を隣国に譲ってしまうとは・・・」と別使を立てて翻そうとしたが叶わなかった。
7年 514年
・6月、百済、姐弥文貴(サミモンキ)将軍、洲利即爾(スリソニ)将軍を遣わし、穂積臣押山に添えて五経博士・段揚爾(タンヨウジ)を貢献する。そして伴跛(ハベ)国が百済の己紋(コモン)地方を奪ったので元に還させてくれるよう懇願した。
・8月、百済の淳陀太子が亡くなる。
・11月、朝廷に百済の姐弥文貴(サミモンキ)将軍、斯羅(新羅)の文得至(モントクチ)、安羅の辛已渓(シンイケイ)・憤巴委佐(ホンイサ)、伴跛(ハベ)の既殿渓(キデンケイ)・竹文至(チクモンチ)らを前に、勅して百済に己紋・帯沙(タイサ)を与える。伴跛(ハベ)国は珍宝を提供して己紋を懇請したが、天皇は拒絶した。
・12月、詔して勾大兄皇子を皇太子とする。 513年
8年 ・3月、伴跛国が子呑(コトン)・帯沙(タイサ)に城を築き、日本に備えた。
9年 515年
・物部連(百済本記には物部至至連とある)を百済の使者・文貴将軍を送る使いとする。文貴将軍と別れた後、物部連は帯沙江に行く。伴跛国が攻めて来たので、物部連はかろうじて逃げ延びる
10年 516年
・百済は物部連を己紋(コモン)に迎え入れ、百済王都に連れて行く。
12年 518年
・都を弟国に遷す。
17年 523年
・百済国の王・武寧王の死。
18年 524年
・百済の太子・明が位につく。
21年 527年
・6月、近江毛野臣が衆6万を率いて任那に向かう。このとき筑紫国造・磐井が叛逆する。新羅が好機と捉え、磐井に賄賂を贈り、毛野臣の進軍を妨げるよう要請する。
・8月、物部麁鹿火大連に天皇自ら「斧鍼(フエツ)」を授けて曰く「長門より東は朕が治め、筑紫より以西は汝が治めよ。賞罰を与えるのは汝の専権事項としてよい」。
「日本書紀」継体21年(527年)、近江毛野臣おおみのけぬのおみを将軍として兵六万を任那に送ろうとした。目的は新羅に破られた南加羅、碌$己呑とくことんを任那に合わせることにあった。筑紫の磐井によって阻まれた。
22年 528年
・11月、物部麁鹿火は筑紫国御井郡で、磐井と戦った。ついに磐井を斬り、戦いは収まった。磐井の息子の葛子は父・磐井に連座することを恐れ、糟屋屯倉を献上して死罪を免れようとした。
23年 529年
・下多利国の守・穂積押山臣が「加羅の多沙津を自分の百済へのルートとしたい」旨の発言をした。すると物部伊勢連父根(カゾネ)が、多沙津を百済に与えてしまった。加羅国の王はこれを不服とし、新羅と手を結んだ。
・任那にあった近江毛野臣は、新羅・百済の両国の王を召還したが、どちらも来ずに使いを送ってきたので、毛野臣は怒り、再度召還したところ、新羅は三千の兵を送ってきた。そうこうしているうちに任那の金官・背伐・安多・委陀の4つの村を取られてしまう。
「日本書紀」継体23(529)年、任那王、己能末多干岐、来朝。
※ 己能末多干岐は、阿利斯等(安羅人)で異脳王か。「己こ」は「已い」とも考えられている。 (コの次のおつにょうの始まりが出ていないものは己コ[呉音]、途中から出ているものは已イ[慣音]、コの始まりとくっついているものは巳シ[漢音])
24年 530年
・9月、任那の使いが来て毛野臣の専横を訴える。毛野臣は2年も任那に居座り、任那王・アリシトを差し置いて、勝手に民に探湯を行ったりしていた。アリシトはついに百済と新羅に援軍を依頼した。
・目頬子(メズラコ)が使わされて、ようやく毛野臣は帰ってきたが、対馬まで来たところで、病を得て死亡する。
欽明2(541)年当時、新羅と百済は加羅取りを狙い、高句麗に警戒しつつ倭を利用した。
欽明23(562)年新羅は任那の宮家を滅ぼした。総称を任那といい10国からなる。
「三国史記」、新羅の真興王23年(562年)、加羅がそむいたので異斯夫将軍に加羅を打たせた。
※ 当時、高霊加羅(大加耶ともいう。)が指導的地位を得ていたらしい。
耽羅人・・・耽羅国人。耽羅国は韓国の済州島のこと。中国史書の『旧唐書』の「劉仁軌伝」に<倭衆ならびに耽羅国使、一時に並びて降る>とあり、西暦663年に行われた「白村江の海戦」において破れた<倭衆(倭国人)>とともに<耽羅国使>が投降したことを伝えている。継体2年(508)はそれより150年も前のことだが、その頃から済州島と倭国(九州)とは共通して百済と通じていたことが分かる。
この済州島は実は『魏志』の「韓伝」に登場する。「韓伝」は<馬韓条><辰韓条><弁韓条>から成るが、<馬韓条>に「また州胡、馬韓の西海中の大島の上に有り。その人やや短小にして、言語は韓と同じからず。みな頭をそること鮮卑の如し。ただ韋を衣とし、好んで牛および猪を養う。その衣は上のみありて下は無し。ほぼ裸勢の如し。船に乗りて往来し、韓の中において市買す」と描かれた州胡こそは済州島のことである。
穂積臣押山・・・割注の「百済本記に云う」によれば「倭・意斯移麻岐海弥(倭のオシヤマギミ)」である。すぐ後にこの押山は「多利国守」であった、とある。穂積臣は『新撰姓氏録』によれば、「石上と同祖。カム二ギハヤヒの6世の孫・イカガシコオの後」で、二ギハヤヒの後裔、すなわち物部氏の一族である。
筑紫の君・磐井・・・八女郡に王宮を構え、筑紫の大半を統治していたのが磐井であるが、その出自は不明である。八女市吉田にある巨大な前方後円墳・岩戸山古墳はその磐井の墓とされるが、22年条からはそのように読み取ることはできない。また、「筑後風土記・逸文」によれば、磐井は物部アラカビ軍に斬殺されず、「南山の嶮嶺の曲に終われり」と、嶮しい山中に逃れて行方知れずになったと書いてあるから、ここからも磐井が筑紫の君として最後は「岩戸山古墳」に祭られた可能性はほとんど無いだろう。
磐井は、半島国家では新羅に加担しようとしていたので、百済救援のために出動した倭軍と敵対したわけだが、筑紫国が記紀で「白日別」と称されているように、九州北部の筑前・筑後・豊前は魏志の時代(2~3世紀)から新羅の前代・辰韓とは通交が深かった地域である。
任那王アリシト・・・アリシトは「阿利斯等」と書くが、日本の万葉仮名の使い方とそっくりである。任那が倭人国家であることの証拠でもある。23年の夏四月七日の条に「任那王・己能末多干岐、来朝す」とあるが、それに割注が付され〔己能末多(コノマタ)と言うは、蓋し、阿利斯等なり〕とある。
垂仁天皇の時代に任那国が使いを遣わしたという記事がある(2年条)が、そこの分注に<意富加羅国=オオカラ国=大伽耶国の国王の子、名は都怒我阿羅斯等=ツヌガアラシト、またの名は紆斯岐阿利叱智干岐=ウシキアリシチカンキと曰ふ>と出てくる名と共通しており、上の割注は下の分注を参照したのかもしれない。
私見ではアリシトとアラシトはやはり同義であると考えるが、アラシトとは倭名の「タラシ」と同根で「王」を意味すると思う。