紀伊三所神、伊太祁曽神社、五十猛、大屋毘古

『日本書紀』巻一第八段一書第五

 素盞嗚尊の子の五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命の三柱の神がよく種子を播いた。紀伊国にお祀りしてある。

続日本紀大宝二年二月二十二日条に見える
「是日、分遷伊太祁曾・大屋郁比売・都麻都比売」という記事がある。
大宝二年の伊太祁曾三神分遷の記事については、古くは本居国学の後継者である本居内遠が考察を行っている。
内遠は『先代旧事本紀』に伊太祁曾三神に関して、「已上三柱、並坐紀伊国、則紀伊国造斎斉祠神也」とある点に注目する。さらに、永享五年の「高大明神雑掌申状案」(湯橋家文書、『和歌山市史』第四巻所収)に、「雑然今神宮領葦原千町者、為当手力雄尊敷地鎮座之処、日前・国懸影向之刻、去進彼千町於両宮、御遷座山東」とある点に着目する。この史料によって、伊太祁曾三神の旧社地が、日前宮の現在社地であったとする。

さらに、日前宮の現在社地から現在の山東に遷座した年代が『続日本紀』大宝二年の分遷記事であると理解する。また、伊太祁曾社の古伝に、和鋼六年に伊太祁曾神社が移転を果したとしている点にも言及し、政府の命令が大宝二年に発令され、その命令を受けて移転を完了したのが和銅六年であろうと推定している。『続日本紀』に見える「分遷」という用語についても、「分遷といへるは、只日前宮の社地に一所にましヽを、今の地へ三神共に分れましヽ事にて、三神各所を異にし給ふとのみもさだめかたき文也」と述べ、伊太祁曾三神が一括して山東に遷座したのであり、分割されたものではないと主張する。
伊太祁曾三神の旧社地が、日前宮の現在社地であることを指摘した点は、評価されるべき考察であろう。また、分遷をめぐる時間的経緯を整合的に整理した点も評価されるべきであろう。しかし、「分遷」を一括移転であると主張する点については、多少牽強付会の観をぬぐえない。したがって、時間的経緯も整合性があるものの、「分遷」の評価によって大きく理解が異なってくるであろう。すなわち、「分遷」はいかに考察を施そうとしても、「分かち遷す」でなくてはならないだろう。大宝二年に伊太耶曾三神が分かち遷されたのであれば、日前宮現在社地から山東に伊太祁曾三神一括して遷座した年代は、大宝二年以前に求められなくてはならないはずである。

紀伊国の神
天武天皇の病の回復を祈って紀伊国国懸神に奉幣されている。王権から奉幣された紀伊国の神の初出である。当時の紀伊国を代表する神は日前国懸神宮に坐す神であろう。 この頃の日前神は地域の太陽神だったようだ。国懸神は紀伊國を代表する大神であり、日神を出す太力男神であり、風の神であり、木の神だったのだろう。

摂津大田付近の古墳の石は紀の国の石
名草の大田の東側に日前国懸神宮が鎮座している。摂津の大田は中臣氏の拠点である。ここから揖保に移ったのは中臣氏であったのかも知れない。先に述べたように飾磨郡因達郷に中臣印達神社が鎮座しているのはこの故なのかも知れない。 更に、日前国懸神宮を祀るのは紀氏と中臣氏に限定されていた。
紀伊三所神
伊達神は伊太氏神であり、五十猛神のことである。他の神々も大屋姫、抓津姫にあてる説もある。まとめて紀伊三所神と言う。
伊太祁曽神社の創建当時は大屋彦神を祀っていた古社であった。奈良時代以前に国懸神にも天照大神を祀ることになり、従来の国懸神である日を抱く手力男神、風の級長津比古神、植樹の五十猛命三兄妹を伊太祁曽神社に遷した。

伊太祁曽神社
『延書式』神名帳の紀伊国名草郡の項に、日前神社国懸神社につづいて「伊太祁曾神社 名神大。月次相嘗新嘗」とある。祭神は素戔嗚尊(すさのおの)の子神で木神・植林神とされる五十猛命(いたけるの)である。神位は高く、大同元年(八〇六)に神封五十四戸を充てられ(『新抄格勅符抄』)、嘉祥三年(八五〇)従五位下(『文徳実録』)、貞観元年(八五九)従四位下、元慶元年(八七七)従四位上(『日本三代実録』)、延喜六年(九〇六)正四位上(『日本紀略』)に叙せられている。旧官幣中社。なお、当社のさまざまな中世文書には「紀州一宮伊太祁曾神社」などと記されており、紀伊一の宮が当社か日前・国懸神宮かをめぐつて論議もあったが、実際はどうであれ、中世の当社が日前・国懸神宮に並ぶほどの威勢をもっていたことはたしかであろう。
紀伊国は古くは「木の国」といい、文字どおり樹木の豊かな国であった。当社はこの木の国の守り神として紀伊国造家に奉斎されたが、日前・国懸神宮とは違って、現実の植林や製材とも結びついていた。
五十猛命の妹神とされている神に大屋津比売(おおやつひめ)と都麻津比売(つまつひめ)があり、現在当社では、中央に五十猛、左脇に大屋津比売、右脇に都麻津比売が三殿ならんでまつられている。平安はじめの 『先代旧事本紀』地神本紀には、このイタケルとその二人の妹オホヤツヒメ、ツマツヒメの三柱の神は、「紀伊国造の齊き祀る神なり」と記されている。この三神は、伊太祁曾神社の古縁起によると、いま日前・国懸神宮の神域のある宮郷で一所にまつられていたが、垂仁天皇十六年に日前・国懸大神がこの地へ遷座するに及んで山東庄(現在の「亥の森」という地)に移り、そこから和鋼六年(七一三)現在地に遷座したという。この「亥の森」には現在、イタケル兄妹三所神を祭神として摂社三生神社(みぶ)がまつられている。

大己貴と大屋毘古
『古事記』には、兄の八十神(やそがみたち)に迫害された大己貴命(おおなむち)が木の国の大屋毘古(おおやぴこ)神を頼って行ったとあるが、この神とイタケルとが同一の神であることは多くの学者が承認するところである。妹のオホヤツヒメに対して、兄をオホヤビコと呼んだのであろう。いうまでもなく、オオヤは大きな家を意味し、やはり木材とは不可分の関係にある。

伊太祁曾の近くの鳴神(なるかみ)や井辺(いんべ)などの地は、古くは紀伊忌部の居住地であった。『古語拾遺』は、紀伊忌部の祖先たちを率いて山の材を採り、神武天皇のために宮殿を造営した天富命(あめのとみ)(忌部氏の祖)の子孫が紀伊国名草郡の御木(みき)・麁香(あらか)二郷にいると伝えているが、この伝承は大和朝廷の宮殿建築の用材を伐採して造営を行なう工人の部曲(かきべ)が、忌部氏の配下として古くからこの地に居住していたことを示している。