平原遺跡 :糸島郡前原町平原
昭和40年糸島郡前原町平原(当時、現在は平原市)において、農作業の最中に多量の朱と共に大小鏡の破片等が発見された。偶然の発見であったが、福岡県教育委員会はただちに原田大六を調査団長とした発掘調査団を組織し、調査・発掘が実施された。結果、遺構は東西十八m、南北十四mの長方形の方形周溝墓で、弥生時代から古墳時代にかけての遺構であるとされた。原田大六は、2世紀中頃であるとしている。遺構の中央部には、割竹形木棺を収めていたと思われる痕跡もあった。この遺跡からは、破砕された合計39面の鏡、ガラス・メノウなどの装身具、素環頭太刀等が出土し、鏡の枚数は一墳墓からの出土数としては我が国最多であった。又、復元された内行花文鏡は直径が46.5cmもあり、これ又我が国では最大経の鏡であった。太刀等武具の少なさ、装飾品の豪華さ、それに鏡の多さなどから、原田は、この遺構を「伊都国の女王」の墓だと想定している。
平成2年には、平原方形周溝墓出土品が国の重要文化財に。さらに、平成18年には国宝に指定されました。
副葬品は銅鏡40枚、鉄刀1本、ガラス製勾玉やメノウ製管玉などの玉類が多数発見されていて、銅鏡のなかには日本最大級の直径46.5cmの内行花文鏡が5枚ありました。ひとつの墓から出土した銅鏡の枚数も弥生時代としては日本一。副葬品にネックレスやブレスレットなどのアクセサリーが多いことから、この墓に葬られた人物は女性で、特に超人的な力を持った女性ということで、卑弥呼の墓という説もあるほどです。
1号墓出土品(国宝)
大型内行花文鏡 4面(5面) 別称「内行花文八葉鏡」[3]、仿製鏡(日本製)、直径46.5センチメートルの超大型内行花文鏡である。
内行花文鏡(内行花文四葉鏡) 2面
方格規矩鏡 32面、(鋸歯文縁方格規矩四神鏡が23面、流雲文縁方格規矩四神鏡が9面)
四螭文鏡 1面
メノウ製管玉 12個
ガラス製(瑪瑙:めのう)勾玉(くだたま) 3個、ガラス丸玉 約500個
ガラス小玉 一括(約500)
ガラス管玉 一括(30以上)
ガラス連玉 一括(約886)
耳璫(じとう、耳珠)3
素環頭大刀 1振
鉄鏃10
鉄やりがんな1
鉄のみ1
鉄斧1
日本一大きな国産の内行花文八葉鏡四枚について、考古学者故原田大六(だいろく)はその図抜けた大きさと特異文様とが、伊勢神宮に関する種々の史料から内宮の御神体である八咫鏡( や たのかがみ)と同じものではないかと推察し、次のように述べている(『実在した神話』、学生社)。
「伊勢神宮の八咫(やた)の鏡と平原弥生古墳出土の大鏡は上述のように、寸法、文様ともに食い違ったところを見受けないのである。これがもし事実だとしたら、平原弥生古墳には大鏡の同型同笵鏡(どうはんきょう)が四面あることから、はじめは五面を作製したものの一面が伊勢神宮の御神体になっているといわれないことはない」
原田大六は平原遺跡一号墳の被葬者は玉依姫であり、伊勢神宮にアマテラス(大日孁貴)として祭られていると推察している。
森浩一氏も、この原田説を支持され、「原田氏の生涯をかけての、この重要な研究が基本において修正を要しないとすれば、八咫鏡は弥生時代後期に北部九州で製作され、他の同類は破砕されたけれども、一面だけがはるばる近畿地方にもたらされたということになる」と述べておられる(『日本神話の考古学』)。
豊玉姫-玉依姫-イワレヒコ(神武)の系譜から、この鏡の製作の中心にいたのは母豊玉姫を弔(とむら)ったであろう玉依姫ということになる。その玉依姫が、わが子神武の東征にあたって、鏡の一面を携帯させたとすれば、当然、大和朝廷においてその鏡は玉依姫の鏡として長らく宮中にあったに違いない。それが、「崇神五年、国内に疫病多発、人民の大半が死亡、六年には国内大混乱。その原因としてこれより先、宮中にアマテラスと倭(やまとの)大国魂(おおくにたま)の二神の並祭が、お互い神威が強すぎることにあると思えたので、別々に祭ることにし、アマテラスは豊鋤入姫(とよすきいりびめ)に託して云々」とある『書紀』に従えば、このときからアマテラスこと玉依姫の依り代である八咫鏡が、現在の鎮座地である伊勢へと至る長い巡幸が始まるのである。
その伊勢神宮内宮を見てみれば、アマテラスこと玉依姫の相殿に万幡(よろずはた)豊秋津姫こと豊玉姫が鎮座している。
原田先生の報告書は『平原弥生古墳 大日霊貴の墓』
原田大六は平原遺跡一号墳の被葬者は玉依姫であり、伊勢神宮にアマテラス(大日孁貴)として祭られていると推察している。
三雲南小路遺跡
三雲南小路遺跡(みくもみなみしょうじいせき)は、福岡県糸島市にある伊都国の遺跡。市内の細石神社の裏手に所在する。 周溝を持つ墳丘墓で、甕棺墓 2器を持つ弥生時代の王墓である。
文政5年(1822年)2月、三苫清四郎が住宅の土塀を築こうと南小路の畠の土を取ろうとして偶然発見したという。
後の1974年(昭和49年)の再調査の時に「2号甕棺」が発見された。
平成の学術調査で「周溝」を持つ事が判明し、現在は「方形周溝墓で、甕棺を2器を添える様にして設置した墓」である、とされる。
甕棺の形式は「立岩式古段階(弥生時代中期中頃)」の形状を持つ。
「2号甕棺(王妃墓)」の被葬者は北東方向に顔を向けた形で葬られていた、らしい。
「1号甕棺(王墓)」は正確には不明だが、二つの甕棺が添うように安置されている事から、同様の形式で埋葬されたと思われる。
加えて、西側の周溝に「祭祀跡」とみられる痕跡があり、東側の「高祖山系」の山並みとの関連性がうかがえる。これは後の時代の平原遺跡1号墓(平原弥生古墳)に通じるものであろう
最新の研究では、この三雲南小路遺跡と、春日市の「須玖岡本遺跡のD地点の遺跡(巨石下甕棺墓)」とは同一規模の構造を呈している可能性が示唆されている。
この遺跡は江戸時代終わりごろに発見され(1号甕棺)、出土品のうち銅鏡1面と銅剣1本が博多の聖福寺に伝えられ国の重要文化財に指定されています。
最初の発見から150年後の昭和50年(1975)、新たに2号甕棺が発見され、銅鏡22面以上、ヒスイ製勾玉、ガラス製勾玉、管玉、金銅製の四葉座飾金具などが出土しています。
墳丘は弥生時代の中期後半(約2000年前)に造られたと推定され、豪華な副葬品や墳丘の大きさから伊都国王の墓であると考えられています。
日本最古の王墓といわれ、伊都国王墓の中心の遺跡。同一墳丘上に二基の甕館が埋葬さ れていた。規模は東西 32m、南北 31mほどの(長)方形の人工の盛り土があったと推定 されている。この遺跡からは、大陸から持ち込まれた副葬品が数多く出土している。銅鏡 が1・2号甕棺から合わせて 57 面出土しており、一つ の墓から出土した枚数は最多である。中国の皇帝が王侯 クラスの人物の死に対して贈る特別な品物のガラス壁と 金銅四葉座飾金具が発見されている。
拝殿の「細石神社」の祭神は「石長姫と木之花咲耶姫」の女神二柱である
この遺跡は男女の、夫婦の墓と考えられる事から導いて、この「王墓」の主は「彦火瓊々杵尊と木花開耶姫」か?
須玖岡本遺跡
福岡県春日市岡本にある。
福岡平野に突き出している春日丘陵上の北側半分に位置する、周辺の南北2キロメートル、東西 1キロメートルの範囲の弥生時代中期から後期の大規模な遺跡群(墳丘墓、甕棺墓、青銅器鋳造跡の遺跡等)を統括して須玖岡本遺跡と呼ぶ。1986年(昭和61年)6月24日、国の史跡に指定される。
1979年(昭和54年)、1980年(昭和55年)の調査では、遺跡の最高所の標高36.3m地点を中心に、弥生時代中期~後期初頭の116基以上の甕棺墓群、木棺墓、中期後半の祭祀遺構など、あわせて約300基の墓壙が確認された。また、少し低い西側平坦地で9軒の住居跡が検出され、さらに片磨岩製小銅鐸の鋳型が出土した。
D地点の遺跡(巨石下甕棺墓)の副葬品[4]編集
銅剣 2
銅矛 4
銅戈 1
銅鏡(前漢鏡) 32面以上(方格四星草葉文鏡 1、重圏四星葉文鏡 2、蟠螭(ばんち)鏡 1、星雲文鏡 5面以上、重圏文銘帯鏡 5面以上、内行花文銘帯鏡 13面以上、不明 5面)
ガラス璧(瑠璃壁) 2個片以上
ガラス勾玉
ガラス管玉
Wikipediaより
副葬品に武器類が多い事から、この墓は「男王墓」と推定されている。
時代的には「前漢鏡」や「青銅剣」などの編年から割り出して糸島市三雲の三雲南小路遺跡と同年代の王墓であろう、と云われている。
また、近傍には「青銅器の鋳造所」の遺構などが多数発見されている事と、地名の「那珂川」「那の津」などからの推論と、伊都国は糸島市三雲が中心地であろう、という事から導いて、この須玖岡本遺跡群が奴国の中心地であろう、と云われている。 この「D地点の遺跡(巨石下甕棺墓)」の主は「奴国王」であろうと推論されるが、志賀島出土の「金印漢委奴国王」の奴国王かどうかは不明である。通説では、金印を授けられた奴国王より以前の王であろう、と云われている。