古代の天皇の都には、「磐余」をその名前に冠したものが多い。第17代履中天皇の磐余稚桜宮(わかざくらのみや)、第22代清寧天皇の磐余甕栗宮(みかぐりのみや)、第26代継体天皇の磐余玉穂宮(たまほのみや)などである。
磐余の稚桜宮
日本書紀によると、「神功皇后三年春正月磐余に都したまう。これを稚桜宮という。また履中天皇元年春二月壬午のついたちに皇太子(履中天皇)磐余に都つくり十一月に磐余の池をつくりたまう。」とある。桜井の名のゆかりであり、桜が舞いちって天皇の盃に入ったという市磯(いちし)の池での宴遊もこのころのことだ。
市磯の池については稚桜宮の内裏の前といい、現神社東側の水田がその跡にあたる。ちなみに『古語拾遺』ではさきの神功皇后の世を磐余稚桜朝と称し、あとの履中天皇の世を後の磐余稚桜朝としるしている。(桜井風土記より)
神功皇后
夫の仲哀が崩じたあと神功皇后は、身重の体でありながら海を押し渡って新羅を討ち平らげ、帰国してから誉田別尊(応神)を生んだ。神功皇后は、その誉田別皇子を擁して、重臣の武内宿禰(たけしうちのすくね)らとともに大和に凱旋する。だがその大和入りはすんなりとは運ばなかった。仲哀の遺児であり、誉田別にとって異母兄にあたる香坂(かごさか)、忍熊(おしくま)の二王が抵抗したのである。この二人を討って大和に入った皇后は、稚桜宮において六十九年間摂政をつづけて百歳で崩じた。そして誉田別が即位して応神天皇となったと伝えられる。応神天皇は飛鳥へ、その子仁徳天皇は難波へ都を遷すが、つぎの履中天皇は曽祖母神功皇后の宮であるこの稚桜宮をふたたび都とするのである。
稚桜神社縁起『日本書紀』履中天皇の条。
元年春二月一日、皇太子は磐余の稚桜宮に即位した。二年十一月、磐余の池をつくった。三年冬十一月六日、天皇は
両股船を磐余の市磯池(いちしのいけ)にうかベた。妃とそれぞれの船に分乗して遊ばれた。膳臣の余磯(あれし)が酒を奉った。そのとき、桜の花びらが盃に散ってきた。天皇は怪んで、物部長真胆連(もののべのながまいのむらじ)を召して、詔して「この花は咲くべきでないときに散ってきた。どこの花だろうか。お前探してこい」と命じた。
良真胆運はひとり花を尋ねて、掖上の室山で、花を手に入れて奉った。天皇はその珍しいことを喜んで、宮の名とした。磐余若桜宮というのはこれがそのもとである。この日、長真胆達の本姓を改めて、稚桜部造とし、膳臣余磯を名づけて稚桜部臣とした。
日本書紀に磐余の地に営んだと伝承されている、磐余稚桜宮(神功皇后・履中天皇)延喜式神名帳に、城上郡に若桜神社がみえているので、磐余稚桜宮と関係があるものと思われる。しかし現在若桜神社は桜井市の谷と池之内の二か所にあり、どちらも小字は「稚桜」となっている。現在、谷の若桜神社に、稚桜部朝臣を祭神として祀っており、近くに「桜の井」という井戸が伝承されている。これが桜井の地名のおこりの一つともなっている。
春日神社
春日神社の境内
用明天皇は磐余(いわれ)池の畔に新しい宮を造営した。宮の前にケヤキの大木が二本そびえていたので、磐余池辺双槻宮(いわれいけのべのなみつきのみや)と呼ばれた。ところが、現在この宮跡の所在がはっきりしない。磐余池は磐余の里に造られた大池のことで、『日本書紀』履中天皇2年11月に「磐余池を作る」とある。磐余とは、現在の桜井市南西部の池之内、橋本、阿部から橿原市の東池尻町を含む同市南東部にかけての古地名である。だからこれらの地域のどこかに灌漑用の池が造られたものと思われる。古代の天皇の都には、「磐余」をその名前に冠したものが多い。第17代履中天皇の磐余稚桜宮(わかざくらのみや)、第22代清寧天皇の磐余甕栗宮(みかぐりのみや)、第26代継体天皇の磐余玉穂宮(たまほのみや)などである。これらの宮は磐余池の畔に営まれた。用明天皇もまた磐余池に面して宮を営んだ。
伝承では、桜井市吉備にある春日神社あたりに磐余池辺双槻宮あったとされている。しかし、確証がある訳ではない。春日神社の横に「磐余邑」の碑が立っている。このあたりは神武天皇と長髄彦(ながすねひこ)が決戦した故地でもある。春日神社の近くにため池がある。残念ながら磐余池ではなくて、吉備池と呼ばれている灌漑用の池である。最近の発掘調査で池の底から寺院跡が発見された。「吉備池廃寺」と名付けられたが、舒明天皇の時代に建立された百済大寺ではないかと推測されている。
継体天皇 磐余玉穂宮跡
磐余稚桜宮跡(いわれのわかざくらのみやあと)である稚桜神社から約300メートル西南、池の内の村はずれに土
地の人々が「おやしき」と呼んでいる小高い丘がある。東側半分は畑地で西の半分は櫟林(くぬぎばやし)だ。そし
て北側の傾斜地は孟宗薮となっている。つまり橘街道へ出るまでのいわゆる「磐余の池跡」の西南に当たる台地だ。
ここが継体天皇磐余玉穂宮跡だという。
やまとは くにのまほろば たたなづく あおがき やまごもれる やまとしうるはし・・・
古事記
夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯
やまとは くにのまほらま たたなづく あおがき やまごもれる やまとしうるはし・・・
日本書紀
夜麻苔波 區珥能摩倍邏摩 多々儺豆久 阿烏枷枳 夜麻許莽例屡 夜麻苔之于屡波試
倭建命の倭や、倭姫命の倭、后や御子が坐している倭を「やまと」としていますが『古事記』でのヤマト表記は「夜麻登」等の表音文字であって、もともと、倭は「やまと」とは読めません。
古事記に見る淡路島
古事記中巻二安寧天皇
師木津日子の命の御子二王ます。一の子孫は、伊賀の須知の稲置、那婆理の稲置、三野の稲置が祖なり。 一の子の和知都美の命は、淡道の御井の宮にましき。かれこの王、女二ましき。兄の名は蠅伊呂泥。またの名は意富夜麻登久邇阿礼比売の命、弟の名は蠅伊呂杼なり。