目弱王、眉輪王の変、葛城氏滅亡

雄略天皇


安康3年(475?)、天皇が眉輪王に暗殺されるという事件が発生する。すかさず安康天皇の実弟である大泊瀬皇子(雄略)
は、異母兄の二皇子を疑い、眉輪王・円大臣及びその協力者たちを攻め、更に履中天皇の第一皇子であった政敵の「市邊
押磐皇子」らを滅ぼし、丁酉年11月13日、泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)で自ら即位する。

目弱王(まよわのおおきみ、允恭天皇39年(450年) – 安康天皇3年(456年)8月)は、記紀に伝えられる5世紀頃の皇族(王族)。

「目弱王」とは「武内宿禰」の異母兄である「大毘古命」の孫 、「大日下(おおくさか)大王」の実子。

「目弱王」は父「大日下大王」の仇である「安康天皇」を暗殺し、同じ「武内宿禰」の血脈である「都夫良意富美(円大臣)」の居住地に逃げ込みます。

「安康天皇」の弟である「大長谷命(後の雄略天皇)」が報復行動に出ることを予想、また「都夫良意富美」の娘が「大長谷命」の后になることを知って「都夫良意富美(つぶらおおみ)」を頼ったのでしょう。

結局、「都夫良意富美」は「目弱王」を見殺しにすることはできず、「大長谷命」と戦う前に自分の娘である「訶良比賣(からひめ)」に自分の領地 五つ所の屯倉(みやけ)を副えて差し出し上で「大長谷命」に立ち向かい、その後「目弱王」を刺し殺し自分も頸を切って自害する。

父は大日下皇子(おおくさかのみこ。仁徳天皇の皇子)、母は中蒂姫命(なかしひめのみこと。履中天皇の皇女)。記紀によれば、父の大日下大王が罪無くして安康天皇に誅殺された後、母の中蒂姫命は安康天皇の皇后に立てられ、目弱王は連れ子として育てられた。安康天皇3年(456年)8月、年幼くして(記に7歳とする)楼(たかどの)の下で遊んでいた王は、天皇と母の会話を残らず盗み聞いて、亡父が天皇によって殺されたことを悟り、熟睡中の天皇を刺殺する(これを目弱王の変という)その後、坂合黒彦皇子と共に「都夫良意富美(つぶらおおみ)」の宅に逃げ込んだが、「大長谷命(おおはつせのみこと: 後の雄略天皇)」の兵に攻められ、「都夫良意富美」の助命嘆願も空しく、諸共に焼き殺されたという。

 大日下王(オホクサカノミコ)を殺して、その妃の長田大郎女(ナガタノオホイラツメ)を奪った穴穂御子は、その連れ子である目弱王のことを心配します。目弱王が将来、その父親を殺したのが自分だと知ったら、反逆心を起こすのではないか、というわけです。
たまたま床下で遊んでいた目弱王は、穴穂御子と長田大郎女のそのようなやりとりを聞き、事実を知ってしまいます。そのときの目弱王の年齢は7歳だったということです。
そして目弱王は、睡眠中の穴穂御子を襲い、刀でその首を切って殺したということです。
古事記には、目弱王が事実を知ってすぐに、昼寝をしている穴穂御子を襲ったかのように書かれていますが、7歳の子供にはたして、ほんとうにそのようなことができるのかどうか疑問です。もしも目弱王が、事実を知ったのが穴穂御子の治世1年のことで、暗殺したのが治世3年のことであれば、その治世3年には目弱王は、9歳になっていたことになります。

都夫良意富美
曾祖父は武内宿禰、祖父は葛城襲津彦、父は玉田宿禰。(岩波文庫『日本書紀』の注には『公卿補任』によると記述)
履中天皇2年(401年)、国政に参加する。安康天皇3年(456年)、眉輪王が安康天皇を殺した時、眉輪王と同時に疑いをかけられた坂合黒彦皇子(さかあいのくろひこのみこ)を屋敷にかくまう。しかし、雄略天皇に屋敷を包囲され、娘の韓媛(からひめ)と葛城の屯倉(みやけ)7ヶ所を差出して許しを乞うたが、認められず焼き殺される。(『日本書紀』)

『古事記』では、坂合黒彦皇子は逃げこむ前に討たれ、差出した屯倉も5ヶ所になる。また、焼き殺されたのではなく眉輪王を殺して自害したことになっている。

目弱王の変での悪役
安康天皇」と「大長谷命(雄略天皇)」。その二皇子の父である「允恭天皇」の諱は「雄朝津間稚子宿禰(おあさづまわかごのすくねのすめらみこと)」。
諱の中にある「おあさづま」とは「大麻津澗(おあさづま)」のことで、これは鳴門市大麻町一帯の津澗(舟の碇泊する場所)からつけられたものであります。
そして日本で唯一、允恭天皇をお祀りした「允恭天皇神社」が鳴門市大津に残されております。(現在は「天皇神社」)

葛城円は葛城襲津彦の孫にあたりますが、雄略の為に武内宿禰以来繁栄を誇った葛城本家が滅びてしまいます。

葛城首長一族が没落した後、葛城は天皇直轄領となり渡来系の忍海氏が台頭します。葛城本家が滅びるなかで忍海氏が生き残ったのには忍海郎女つまり飯豊女王の存在が大きいと考えられます。