『隋書』に寄れば百済の八大姓は沙氏、燕氏、賛氏、解氏、貞氏、國氏、木氏、苗氏となっている。
【大姓八族】『隋書』百済伝 参考
行宋元嘉暦、以建寅月為歳首。國中大姓有八族、沙氏、燕氏、賛氏、解氏、貞氏、國氏、木氏、苗氏。婚娶之禮、略同於華。喪制如高麗。有五穀、牛、豬、雞、多不火食。厥田下濕、人皆山居。有巨栗。毎以四仲之月、王祭天及五帝之神。並其始祖仇台廟於國城、歳四祠之。國西南人島居者十五所、皆有城邑。
宋の元嘉暦を施行し、寅月を以て歳首(年初)とする。国には大姓が八族あり、沙氏(長沙・楚系・沙相如)、燕氏、賛氏(刀・力)、解氏(扶余系)、貞氏(陳・眞)、國氏(呉人・物部氏・石氏)、木氏(姫・呉系楚人)、苗氏(白・伯・楚)。婚礼はほぼ中華と同じ。服喪の制度は高句麗のごとし。五穀、牛、豬、雞があり、多くが加熱せずに食べる。風土は湿気ており、人々は皆が山間で暮らしている。巨大な栗がある。四仲の月ごとに王は天神や五帝の神を祭る。並びに、そこの始祖である仇台の廟を国城で年に四回祭祀する。国の西南に人の住む島が十五カ所、いずれも城邑を有している。
沙宅氏
沙宅己樓 サテッギル = 金道含 キム・ドハム 新羅の貴族 金思欽 キム・サフムの息子
沙宅積徳 = 武王時代佐平を務めた。娘が武王の王妃となる
沙宅智積 = 義慈王時大佐平を務めた
沙宅氏の存在は大佐平を務めた沙宅智積が末年に過ぎ去った日の光栄と歳月の空しさを嘆きながら作った沙宅智積碑の内容を通じて知られている。
沙宅智積碑は百済義慈王の時の沙宅智積が残した碑として、1948年黄秀永と洪思俊によって扶餘で発見され、現在国立扶餘博物館に保管されている。
武王··百済第30大王 在位600-641年
義慈王(チェ·ジェヒョン)··百済第31代、最後の王 在位641-660年
武王の長男 660 年に羅唐連合軍の侵攻を受け、階伯の黄山ヶ原の戦いを最後に百済が崩れる …
またこのころは日本に朝貢もしており、王子豊璋王と禅広王(善光王)を人質として倭国に滞在させていた。
沙宅己婁
ドラマ「薯童謡」(ソドンヨ)に登場するサテッキル(沙宅己樓)のことか
『日本書紀』巻十九欽明天皇四年(五四三)
十二月◆十二月。百濟聖明王。復以前詔普示群臣曰。天皇詔勅如是。當復何如。上佐平沙宅己婁。中佐平木州麻那。下佐平木尹貴。徳率鼻利莫古。徳率東城道天。徳率木州昧淳。徳率國雖多。奈率燕比善那等。同議曰。臣等禀性愚闇。都無智略。詔建任那。早須奉勅。今宜召任那執事。國國旱岐等。倶謀同計。抗表述志。又河内直移那斯。麻都等猶住安羅。任那恐難建之。故亦并表乞移本處也。聖明王曰。群臣所議。甚稱寡人之心。十二月に、百済の聖明王、復前の詔を以て、普く郡臣に示せて曰はく、「天皇の詔勅、是の如し。当復如何にせむ」といふ。上佐平沙宅己婁・・・(中略)・・・、同議りて曰はく、「臣等、稟性愚に闇くして、都て智略無し。任那を建てよと詔したまふ。早に勅を奉るべし。・・・(以下略)
639年 武王40年の己亥年
正月に彌勒寺西塔に舎利を奉安していて、舎利奉安の主体は王妃だった沙宅積徳の娘であったことが分かる
『舎利奉安記』には
我が百済の王侯様は佐平沙宅積徳の姫であり、極めて長い歳月の間、いい縁起となって、今生に優れた果報をいただいて万民を労って育て上げ、仏経の棟梁になって優に浄財を喜捨して伽藍を建て、己亥年正月29日に舎利を供養した。
沙宅氏家門の王妃が中心になって舎利を奉安したと記されてあった。
これまでに彌勒寺創建の主体が武王の王妃だった善花公主であるという事実とは異なる内容である。
「百済王后佐平沙宅積徳女」という一節は、「百済王后と佐平(百済の官の一つ)沙宅積徳の娘」と解釈できる。我が百済の王侯様は佐平沙宅積徳の姫であり、極めて長い歳月の間、いい縁起となって、今生に優れた果報をいただいて万民を労って育て上げ、仏経の棟梁になって優に浄財を喜捨して伽藍を建て、己亥年正月29日に舎利を供養した。
沙宅氏とは百済後期の貴族勢力であった【大姓八族】の一族である。
武王の王妃が一人ではなかったとすれば、武王と善花公主との婚姻は『薯童説話』によって認められる
孝順(法王)息子(薯童)は善花姫を娶るために、新羅宮廷に黄金を届ける使者に求愛詩・『薯童謡』の唄を広めることで、この婚姻をより確実なものにした。善花公主の愛を得るために歌う『薯童謡』は人々の間に広がり、新羅の宮中までに伝播されたのである。
百済滅亡と白村江敗戦までの間に起きた事件
583年 敏達天皇十二年、日羅の進言
大和朝廷は任那の復興計画を審議するため、大伴金村配下にて百済に派遣されていた火葦北国造阿利斯登(ひのあしきたのくにのみやつこありしと。阿利斯登は大首長を意味する称号との説有り)の子、達率日羅(達率は第二品)を召還した。
日羅は戦争よりも国力を充実することを説き、更に述べた。
『百済人謀りて言わく、「船三百有り。筑紫を請けむと欲す」という。若し其れ実に請わば、偽りて賜るべし。然からば百済、新たに国を造らむと欲さば、必ず先ず女人・小子を以て船に載せて至らむ。国家(日本)、此の時に臨みて壱岐・対馬に多く伏兵を置きて至らむを窺いて殺したまえ。却りてな欺かれたまひそ。常に要害の所に塁塞を築かむ。』
百済人の筑紫侵攻計画(詳細は不明。大量の移民で筑紫を独立国化するか、それとも非戦闘員しか載せていないと見せかけて奇襲をかけるか)を暴露した日羅は、同行の百済人に暗殺された。しかし、下手人もまた捕らえられ、日羅の一族に引き渡された。
百済は倭にとって、基本的に同盟国であった。しかし、「反覆多き国」(『日本書紀』推古三十一年)であった。
599年 遣唐使
この遣使は、「唐」に対する恭順の意志を表する目的であるが、「唐」側は二政府状態を理解してか知らずか、遣唐使を幽閉してしまった。「わが国は来年必ず海東の政をするだろう(朝鮮と戦争すること)。お前達日本の客も、東に帰ることが許されない」
601年 崇峻9年3月、大伴連囓を高麗に、坂本臣糠手子を百済に派遣して、急いで任那を救うようにいった。11月、新羅を攻めることをはかった。
602年 崇峻10年2月、来米皇子を征新羅将軍とした。軍兵二万五千人を授けた。10月、百済の僧観勒が来て、暦本・天文地理書・遁甲方術書を貢上した。
603年 崇峻11年4月、2月に筑紫で来目皇子が亡くなったので、来米皇子の兄の当麻皇子を征新羅将軍とした。
605年 崇峻 13年〔605〕4月、高麗国大興王が、日本国天皇が仏像を造ると聞き、黄金三百両を貢上した。
607年
大業三年(607)の多利思北孤の国書「日出ずる処の天子・・・・・云々」
俀国の首都 『隋書』俀国伝から大業四年(608)、俀国の多利思北孤と裴清とが会談した俀国の首都
607年(推古15年) – 608年(推古16年)第2回遣隋使、小野妹子らを遣わす。「日出処の天子……」の国書を持参した。小野妹子、裴世清らとともに住吉津に着き、帰国する。(『日本書紀』、『隋書』俀國伝)
608年(推古16年) – 609年(推古17年) 第3回遣隋使、小野妹子・吉士雄成など隋に遣わされる。この時、学生として倭漢直福因・奈羅訳語恵明、高向漢人玄理・新漢人大圀・学問僧として新漢人日文(後の僧旻)・南淵請安ら8人、隋へ留学する。隋使裴世清帰国する。(『日本書紀』、『隋書』俀國伝)
618年(推古26年)隋滅ぶ。
『日本書紀』では裴世清、『隋書』では編纂された時期が唐太宗の時期であったので、太宗の諱・世民を避諱して裴清となっている。
百済 (義慈王)の退廃
百済は642年から新羅侵攻を繰り返した。654年に大旱魃による飢饉が半島を襲った際、百済義慈王は飢饉対策をとらず、655年2月に皇太子の扶余隆のために宮殿を修理するなど退廃していた。656年3月には義慈王が酒色に耽るのを諌めた佐平の成忠(浄忠)が投獄され獄死した。日本書紀でもこのような百済の退廃について「この禍を招けり」と記している。657年4月にも旱魃が発生し、草木はほぼなくなったと伝わる。このような百済の情勢について唐はすでに643年9月には「海の険を負い、兵械を修さず。男女分離し相い宴聚(えんしゅう)するを好む」(『冊付元亀』)として、防衛の不備、人心の不統一や乱れの情報を入手していた。
(皇極天皇)
元年〔642〕正月、百済への使者大仁阿曇連比羅夫が筑紫国から駅馬で来て、百済国が天皇の崩御を聞き弔使を派遣してきたこと、今、百済国は大いに乱れていることを報告した。2月、百済弔使のところに、阿曇山背連比羅夫・草壁吉士磐金・倭漢書直県を遣り、百済の消息を訊くと、正月に国主の母が亡くなり、弟王子、子の翹岐、母妹女子四人、内佐平岐味、高名な人四十人余が島に追放されたことなどを話した。高麗の使者は難波の港に泊まり、去年六月に弟王子が亡くなり、(641年)9月に大臣の伊梨柯須彌が大王を殺した、といった。高麗・百済の客を難波郡にもてなした。大臣に、津守連大海を高麗に、国勝吉士水鷄を百済に、草壁吉士眞跡を新羅に、坂本吉士長兄を任那に使わすようにいった。3月、新羅が賀登極使と弔喪使を派遣した。5月、百済国の調使の船と吉士の船が難波の港に泊まった。百済の使者が進調した。10月、新羅の弔使の船と賀登極使の船が壱岐島に泊まった。
2年〔643〕4月、筑紫の大宰が早馬で来て、百済国主の子翹岐と弟王子が調使とともに来た、といった。6月、筑紫の大宰が早馬で来て、高麗が遣使して来朝した、といった。百済の進調船が難波の港に泊まった。
大化元年〔645〕7月、高麗・百済・新羅がともに遣使進調した。百済調使は任那使を兼ね、任那の調を進上した。
大化2年〔646〕2月、高麗・百済・任那・新羅が遣使して調賦を貢献した。9月、小徳高向博士黑麻呂を新羅に派遣して人質を出させた。ついに任那の調をやめた。
大化3年〔647〕正月、高麗・新羅がともに遣使して調賦を貢献した。この年、新羅が上臣大阿飡金春秋らを派遣し、博士小徳高向黑麻呂・小山中中臣連押熊を送り、孔雀一隻・鸚鵡一隻を献上した。春秋を人質とした。
大化4年〔648〕2月、三韓(高麗・百済・新羅)に学問僧を派遣した。この年、新羅が遣使して貢調した。
大化5年〔649〕5月、小花下三輪君色夫・大山上掃部連角麻呂らを新羅に派遣した。この年、新羅王が沙[口彔]部沙飡金多遂を派遣し人質とした。従者は三十七人いた。
白雉2年〔651〕6月、百済と新羅が遣使貢調し、物を献じた。この年、新羅の貢調使知萬沙飡らが唐服を着て筑紫に泊まった。朝廷はそれを叱責し追い返した
651年 白雉二年、新羅は倭に使者を送った。使者は唐服を着用して唐との親交を誇示したため、倭は彼らを放還し、新羅討伐の声が挙がる始末であった。倭王権内は外交を巡って二分されたが、親新羅派は不利であった。親新羅派の高向玄理は、事態を打開するために第三次遣唐使として自ら海を渡った(白雉五年、六五四)。途中で新羅に数ヶ月滞在して善後策を練り、いよいよ唐へ向かった。
655年 斉明元年、唐の高宗は倭国に国書を送り、新羅に味方して出兵するよう求めているが、これも親新羅派の働きかけであろうか(『新唐書』)。
655年 新羅 唐に援軍を頼む
新羅本紀、武烈王、二年の春正月に、伊飡の金剛を拜(め)し上大等と爲し、波珍飡(はちんさん)の文忠(ぶんちゅう)を中侍と爲す。高句麗と百濟・靺鞨は連兵し、我が北境を侵軼し、三十三城を取る。王は使を遣はし入唐し援を求む。三月に、唐は、營州都督(ととく)程名振(ていめいしん)を遣はし、右衛中郞將蘇定方(そていほう*)を左(たす)け、兵を發し高句麗を撃つ。元子(長男)の法敏(ほうびん)を立て太子と爲す。庶子の文王を伊飡と爲し、老且(ろうしょ)を海飡(かいさん;波珍飡)と爲し、仁泰(じんたい)を角飡と爲し、智鏡(ちきょう)・愷元(がいげん)の各(それぞれ)を伊飡とす。冬十月に、牛首州が白鹿を獻ず。屈弗郡が白猪を進(たてまつ)る。一首にして二身、八足。王女の智照は、大角飡の庾信に下嫁す。鼓樓を月城内に立つ。
*蘇定方は、左衛勲一府中郎将の時、程名振と高句麗を攻め、これを破り、右屯衛将軍に任ぜられ、臨清県公に封ぜられた。660年に、熊津道大総管となり、軍を率いて熊津口より百済に上陸し、百済主力軍を破る。
660年 斉明天皇六年 七月
高句麗僧道顕の「日本世記」に
春秋智(新羅武烈王)、唐の大将軍蘇定方そていほうの手を借りて、百済を挟み撃ちにして滅ぼした。しかし、百済は自滅したとも云う。百済義慈王の夫人、恩古は妖女無道であって、ほしいままに権力を握り賢き者を誅殺したので、この禍を受けたのだと。(三国史記の義慈王十六年《656年》三月の条に、官女と淫楽にふける王を諫いさめた賢将の佐平の成忠を投獄、成忠は死に望んで外敵を防ぐ戦略を上書したが、王は従わなかったとある。同記七月の条には百済王都陥落に際し王は後悔したとある)「日本世記」はこうした王の不明を放置し、政策を誤った夫人を責めたのである。また、「日本世記」の註と、三国史記とに、新羅武烈王は高句麗宝蔵王に百済追討の援軍を頼んだが断られたとある。そのあと新羅王は使いを唐に遣わし、使者に唐服を着せて、天子に媚びて、百済を併合する意志を固めたという。
660年 日本の客人を本国に放免
『斉明紀』に引用されている『伊吉連博徳の書』には、
「この年(660)八月、百済がすでに平らげられた後、九月十二日に日本の客人を本国に放免した。十九日、長安を発った。十月十六日、洛陽に帰り、はじめて阿里麻ら五人に会うことが出来た。十一月一日、将軍蘇定方らのために捕らえられた百済王以下太子隆ら、諸王子十三人・大佐平沙宅千福・国弁成以下三十七人、合せて五十人ばかりの人を、朝にたてまつるため、にわかにひきつれて天子のところに赴いた。天子は恵みを垂れて、楼上から目の前で俘虜たちを釈放された。十九日われわれの労をねぎらわれ。二十四日洛陽を発ったとある。」
660年 斉明天皇六年〔660〕秋七月 百済滅亡
百済の滅亡後、遣唐使が帰されている。
「今年七月に、新羅は力を自信とし勢いをもって、百済と親和せず、唐人を引き連れて、百済を傾け覆しました。王も臣下もみな捕虜となり、ほとんど残る者はおりませんでした。(ある本に云うには、七月十日に大唐の蘇定方は十三万人の船団を率いて、尾資びし《百済の西南、錦江の河口か》の津に軍いくさす。新羅の王春秋智しゅんしうち=武烈王は兵馬を率いて、怒受利のずり山(百済の東の堺)に進出した。西と東から百済を挟み撃ちにして、戦いあうこと三日、《七月十三日》わが《百済》王城泗沘しひ城が陥落した)
これにより西部恩卒鬼室福信さいほうおんそち(西部は百済五区画のひとつ恩卒は百済官位十六階の三位。福信は滅ぼされた義慈王の父、武王の子)は激しく怒って任射岐にざき山に陣どりました。達卒余自進(百済の王族)は中部の久麻怒利城に陣取りました。おのおの一所に陣取って、散らばってしまった兵を誘い集めたのです。兵器が前の戦になくなってしまったので、棒を以て戦いました。新羅の軍は敗れ百済は兵器を奪いました」
「兵器を奪ったうえ、兵も戻ってきたので鋭気も蘇り唐軍は進入できなくなりました。福信らは、百済の人々を集めて、ともに王城を守りました。国の人々は佐平福信、佐平自進と褒め称えたのです。福信なくしてはすでに滅んだ国を興すことはできませんでした。」天皇が言われた。「将を乞い救いを申すことは、長年聞いてきた事だ。危うきを助け絶えんとするものを継ぐべき事は当然のことだ。今、百済が極まってわれに頼るのは本国が滅んでしまって頼るところがないからである。日々悩み、必ず救いを与えよと遠くより来たりて云うのは、その志に奪いがたい決意があるからである。わが将軍にこの気持ちを分かち命じて、至る道から軍をともに進めよう。雲のごとくに再開し雷のごとく動いてともに新羅方面に結集するならば、その仇を取りそのさし迫った苦しみを助けてやれよう。役人達は王子のために十分に支度し礼をもって送り遣わせ」
十二月二十四日 天皇は難波の宮に移られた。天皇は福信の申すところによって、まずここに移って諸の軍器を用意し、筑紫に行こうと思った。この年、百済の為に新羅を討とうと思い、駿河の国に命じて船を造らせた
斉明天皇七年(661年)一月六日 斉明天皇の船は西に向かって、始めて海路についた。八日、船は大伯おおくの海(現在・岡山県邑久おおく小豆島北方)に至った。この時、大田姫皇女おおたひめみこ(中大兄皇子の娘・大海人皇子《後の天武天皇》の妃)が女の子を産んだ。生まれた場所にちなんで大伯皇女おおくのひめみこと名付けた。十四日に船は伊予の熱田津にぎたづの石湯行宮いわゆのかりみや《現・道後温泉》に泊まった。三月二十五日船は本来の航路に戻って、(筆者註・斉明天皇は一月十四日から三月二十五日まで、およそ二ヶ月半道後温泉にとどまった。百済奪還の緊急時に、こうしたのんびりとした行程をとったのは後日、天皇が亡くなることから推測すると天皇が病を得て、しばらく静養せざるを得なかったと思える)そして那大津(現・博多港)に至り、磐瀬行宮(現・福岡市三宅か)に滞在された。
四月天皇は朝倉宮(現・福岡県朝倉市・博多より30㎞東の内陸部にあり、天皇は唐・新羅の来襲を想定して内陸部に移動したと考えられている)に移られた。
七月二十四日 斉明天皇は朝倉宮で亡くなられた。皇太子中大兄皇子は長津宮(現・博多大津)に移って来られた。そこで海外に向けての水軍のはかりごとを聞かれた。
八月 前軍の将軍として 阿積比羅夫連・河辺百枝臣、後軍の将軍として阿倍引田比羅夫臣・物部連熊・守君大石等を遣わして百済を救わせた。九月 皇太子中大兄王子は長津宮におられて、百済の王子豊璋に位階の冠を授けた。
また王子豊璋は多臣蒋敷(太安万侶の祖父という)の妹を妻とした。
(古事記編纂者といわれる太安万侶の祖母とも言える人が百済王の室になっている。多氏は神武天皇の御子である神八井身耳命の後裔であるといい、いわゆる皇別の氏族のなかでも別格の重要な氏族である。神八井身耳命を租とする氏族としては筑紫の火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家《三家あるわけではない、おそらく筑紫宮家=筑紫本家=元倭国王家といった意味が含まれる氏族ではあるまいか》の連のほか多くの国造の氏族がある。)
新羅の春秋が唐の蘇定方の手を借り百済を挟み撃ちにして滅ぼした、あるいは百済は自ら滅んだ。
斉明天皇六年〔660〕十月 福信が百済王子豊璋を百済王に迎えることを乞う
同天皇七年〔661〕四月 福信が百済王子糺解を百済に迎えることを乞う 『日本世記』
扶餘豊は龍朔元年〔661〕三月にはすでに百済にいたという『旧唐書』百済伝の記録が存在するので、糺解も呼ばれたことになる。
斉明七年〔661〕十一月 福信が捕えた唐人の続守言らが筑紫に着いた。『日本世記』
天智称制〔661〕十二月 釈道顕は言う。新羅の春秋の志はまさに高麗を撃つことにあったが、まず百済を撃った。『日本世記』
斉明天皇が亡くなられたので、中大兄皇子は無地の麻の白服を着て称制しょうせい(天皇不在のまま、皇太子などが政治を司る事)した。(筆者註・中大兄皇子は斉明天皇が亡くなって以降七年に渡って皇太子のまま国の代表として政治を司った。この背景には、斉明天皇の先代の孝徳こうとく天皇の皇后であった、同じ母の妹、《つまり実妹》間人皇女と不倫関係があった事が原因として横たわっていると云われている)
釈道顕が占って、「北国の人がまさに南国につこうとしている。高麗が破れて日本につこうとしているのか」と言った。『日本世記』
662年 天智天皇元年三月 唐、新羅の軍が高句麗を討った。高句麗は日本に救いを求めた。それで日本は軍将を遣わして百済遺臣の本拠地となっている䟽留城そるさしを守らせた。これによって唐軍は、その城の領域である南の境を攻められず、新羅軍は西の境を攻めることができなかった。 天智天皇元年(662年)五月 日本の大将軍大錦中阿曇比羅夫連ら、船軍百七十隻を率いて百済に行く。先に送った王子豊璋と、比羅夫将軍が参列して就任式を開き、天皇の宣勅みことのり(言葉)を受けて、百済王の位を継がさせた。また、金策(金泥で書いた書)を百済再興を計る筆頭である福信に与え、褒めてその背をなでてねぎらい、爵位と俸禄を贈った。この百済、再興の式典に、豊璋と福信は平伏して承り、人々は涙を流したという。 六月二十八日 百済は日本に達卒(百済官位十六位の二位)万智を遣わして、調(納税品)と貢ぎを献上する。十二月 百済の王、豊璋と臣の福信らは日本の狭井連さいのむらじ朴市田久津えちのたくつと議して言った。
百済王は朴市田久津の「避城は敵に近すぎる」という、諫いさめを聞かず、避城を都としてしまった
663年 百済の苦戦と挽回、
天智二年二月二日、百済は日本に達卒金受らを遣わして調を奉った。新羅は百済の南の外れの四つの州を焼いた。(筆者註・新羅から取り返した地域だろう)あわせて、百済五地域の徳安を占領した。(筆者註・三国史記の新羅本紀文武王三年はこの年にあたるが、新羅は百済の四城を落とした。とある。これによって考えると百済王城が落とされてなお、百済は新羅との戦闘を続行している様子が見てとれる)避城は、新羅から近く、それがために、そこにいることはできなくなって、すなわち元の都、州柔に戻った。これは以前、日本の臣の田来津たくつが言った通りの事となった。
三月 日本は前将軍として上毛野君推子かみつけののきみわかこ・間人連大蓋はしひとのむらじおおふた、中将軍として巨勢神前臣訳語・三輪君根麻呂、後将軍として阿倍引田臣比羅夫・大宅臣鎌柄を遣つかわして兵、二万七千人を率いて 新羅を討たせんとした。
五月 犬上君(犬上御田鍬みたすきは推古二十三年、《615年》新興唐より帰朝。舒明二年《630年》八月の第一回遣唐使となり、同四年八月帰国した。近江国犬上郡の豪族。御田鍬が遣唐使として派遣されてからおよそ三十年後の事であるから、その息子または親璋族であると思われる)が、高句麗に急いで行き、日本が、新羅に対して出兵した事を告げて帰ってきた。途中、石城(忠清南道扶余)で百済王豊璋に会った時に、王は功臣の福信に罪があると述べたと云う。
六月 前将軍上毛野君稚子ら、新羅の紗鼻岐奴江(未詳)の二つの城を取った。 百済の王、豊璋は、福信が謀反の心を持っていると疑って、手のひらに穴を開け革を通して縛った。王にはどう処分したらよいか良いか解らなかった。つまりは諸臣に訊ねた。「福信の罪は明らかであるが、斬るべきであるか、なかろうか」達卒の徳執得(他史料に見えず)が言った。「この悪人を捨て置いて許してはなりません」福信は執得に唾を吐きかけ言った。「この腐れ犬の気違い野郎!」王は屈強な者を呼び出して福信の首を切り、さらし首にするために、首を酢漬けにした。福信が死す
663年夏5月 犬上君は軍事を高麗に告げて帰る途中、石城で糺解に会う
663年2月条によれば、豊璋は新羅軍が避城に近づいたため避城から州柔に移っており、663年5月の時点では豊璋は州柔にいた。
(天智天皇二年〔663〕)夏五月癸丑朔、犬上君【闕名】馳、告兵事於高麗而還。見糺解於石城。糺解仍語福信之罪。
犬上君は軍事を高麗に告げて帰る途中、石城で糺解に会ったという。軍事を高麗に告げるという行為もわからないが、それは別として、このとき(663年5月)糺解は石城というところにいたことになる。
天智天皇二年(663年)八月十三日 百済王がおのれの良き将を斬ったと言うことを新羅が聞いて、すぐに百済に進入して、まず州柔つむの城を落とそうと計った。百済王は新羅の謀る事を知って諸将に語った。
「今聞くに、大和の国の救いの将廬原君臣いおはらのきみおみが屈強の兵、一万あまりを率いて海を越えてやって来るであろう。もろもろの将軍達は、あらかじめそれを考慮に入れよ。私は自ら出かけて白村江はくすきのえ(韓半島西岸中央部の錦江の河口あたり熊津江とも言うから百済の王都の河口である)にて日本の軍を待つであろう」八月十七日 敵将の率いる軍がやって来て州柔つむに至って(筆者註・陸路であろうか?北から唐・新羅合同軍、東から新羅軍か)王城を囲んだ。海からは唐の軍船が百七十隻やって来て白村江に連なった。
八月二十七日 日本の先陣の船と唐の船が戦った。日本は負けて退いた。
八月二十八日 日本の諸将と百済の王は状況を見ないで、お互いに語って言う。
「我らが先を争って出撃するならば、敵は敗退するに違いない」と。日本の水軍は、すでに敗れた中軍の残った船も率いて、唐の軍船が固く守る水面に突入した。唐軍の船は進入してくる日本戦を左右から挟んで囲んだから、たちまち日本軍は敗れてしまった。日本の兵は水に落ちて溺死する者が多かった。船は密集して方向転換することもできなかった。日本の将の田来津たくつは天をあおいで激闘を誓い、歯をくいしばって奮闘し敵兵数十人を殺したが、ついに戦死してしまった。。百済王豊璋ほうしょうは数人と船に乗って、高句麗に逃げ去った。
「旧唐書・劉仁軌伝」は
仁軌じんきは倭兵と白江はっこうの口で遭遇し、四度戦って勝利した。倭の舟四百艘が焼けた。煙と炎は天に充満し、海水はすべて赤く染まった。賊衆(倭兵)は大敗北して終わった。
この倭の敗亡の原因の一つとして、唐が大型艦船百七十隻を擁すのにたいして、倭の水軍は舟四百艘(旧唐書にはこう記すが、三国史記・羅紀文武王十一年・西暦671年・七月二十六日条には千艘とある)と数だけは多いのだが、小舟に過ぎなかったという事が挙げられている。
663年 白村江の後、百済王 善光
九月七日 百済の州柔つぬ城がこうして始めて唐の軍門に下った。この時に、百済国の人々は口々に言った。「州柔城が落ちた。なんともしがたい。百済の名は今日に絶えた。墓参りに行くこともできなくなるだろう。今はただ弖礼城てれさしに行き、日本の将に会って、今後のことを相談するのみだ」
そして遂に、枕服岐城しんぷくぎさし(未詳)にいる妻、子供に、国を去る気持ちを伝えた。臣、兵は州柔つぬを出て、十一日、牟弖むて(港の名である)より出航し、十三日弖礼てれに着いた。二十四日に日本の兵と百済の将と兵と民は翌日、日本に向けて出帆した。
天智三年(664年)三月、百済王は善光に代わり、日本は善光を難波に滞在せしめた。(筆者註・百済はもはやなく、善光は元王子という立場であったと思われる。この記事は後の書き換えとも考えられている)
『天智紀四年』には「劉徳高」がやってきた。
(乙丑の年とは665年のことになろうが、書紀紀年でいう天智四年か。)
「九月二十三日、唐が朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を遣わしてきた。──等というのは右戎衛郎将上柱国百済禰軍・朝散大夫柱国郭務宗をいう。全部で二百四十五人。七月二十八日に対馬着。九月二十日、筑紫につき、二十二日に表凾をたてまつった。」
「定恵」は『孝徳紀』に引用された「伊吉博徳」(いきちのはかとこ)が言うには、「定恵は乙丑の年に劉徳高らの船にのって帰った。」ということになっている。
天智四年の別の条項に、
「この月、百済国の官位の階級を検討した。佐平福信の功績によって、鬼室集斯に、小錦下の位を授けた。」
天智四年(665年)二月 百済より避難した百済の臣の為に、百済の官位順を日本の官位に適合させ与える事を行った。百済位、佐平を日本の錦位に、達卒を山せん位に対比させた。百済の功臣でありながら殺害された佐平福信の功を以て、福信の子であろう鬼室集斯に小錦下という前年施行された和朝官位二十六階の十二位を授けた。(驚くべきである。百済国臣の優遇は大変なものである。)また、百済の民男女四百人余りを近江の国の神前郡かみさきのこおりに住まわせた。
天智六年三月
「三月十九日、都を近江に移した。このとき天下の人民は遷都を喜ばず、諷諌する者が多かった。童謡も多く、夜昼となく出火するところが多かった。」。そのあとの八月に、「皇太子が倭の京におでましになった。」
これは遷都ではない。京とは首都である。一国に二つの京はあり得ないだろう。従って近江遷都とは、近江ローカル政権の宮か。すぐに、崩壊する。
671年 天智十年一月
「この月、佐平余自信、沙宅紹明に大錦下を授けられた。鬼室集斯に小錦下を授け・・・」
葛野王
皇子の周囲には、つねに沙宅紹明、塔本春初、吉大尚、許率母(きょそつも)、木素貴子(もくそきしら)など渡来系の学者たちの姿があったようです。「懐風藻」
葛野郷は、京都市右京区西京極葛野町付近といわれています。この辺は葛野連の勢力下で物部氏と同族をいわれる一族です。
井上満郎氏によれば、河勝の居地をいう。河勝が聖徳太子下賜の仏像で建立した寺院が「蜂岡寺」で「葛野蜂岡寺」ということから、秦氏の居住地であったとしています。
671年 天智10年の官位授与
大友皇子が太政大臣就任直後の官位授与のもので、さらに詳しく紹介されています。懐風藻の作者はこれを引用しただけなのかもしれません。
日本書紀 天智紀10年1月
是月、
以、大錦下授、佐平余自信・沙宅紹明、法官大輔。
以、小錦下授、鬼室集斯、學職頭。
以、大山下授、達率谷那晋首、閑兵法。木素貴子、閑兵法。憶禮福留、閑兵法。塔本春初、閑兵法。本日比子、賛波羅、金羅金須、解藥。鬼室集信、解藥。
以、小山上授、達率徳頂上、解藥。吉大尚、解藥。許率母、明五経。角福牟、閑於陰陽。
以、小山下授、餘達率等、五十餘人也。
沙宅紹明(さたくしょうめい)
藤氏家伝に「才思頴拔、文章冠世」と評され、鎌足の碑文を作ったとあります。天武2年閏6月、大錦下の位で没。外少紫・大佐平を贈られています。
塔本春初(とうほんしゅんしょ)
百済滅亡により渡来した百済の軍人といわれています。後に塔本陽春が麻田連と賜姓され、姓氏録に「麻田連、出自、百済国朝鮮王淮也」とあります。天智4年8月に、長門国(山口県西部)に派遣され、城(き)を築いたとあります。ちなみに憶禮福留は筑紫に大野城を築いた軍人です。
吉大尚 (きつたいしょう)
任那に住んでいた倭人で、弟の少尚らとともに帰国、世々医術を伝え、文芸に通じていたようです。後に、子の宜らが吉田連に賜姓されたと氏姓録などにあります。
許率母 (きょそつも)
天武6年5月に、大山下、大博士とあり、五経に明るいとありますから学者だったようです。
木素貴子(もくそきし)
白村江敗戦に後、天智2年9月7日、百済の最後の砦、州柔城(つぬのさし)が陥落しました。そのとき妻子共々、祖国を捨て、日本の軍船で日本に向かったとあります。余自信(あぐり)、憶禮福留の名前もあることから、上記の全ての人々もこれに関連した避難民といえそうです。姓氏録に林連の祖とあり、葛野郡上林郷、下林郷などを本居としたと書かれています。
天智十年十一月十日に、「郭務宗」等二千人が来訪した。
「十一月十日、対馬国司が使いを太宰府に遣わして、『今月の二日に、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓島勝裟婆・布師首磐の四人が唐からやってきて、『唐の使人郭務宗ら六百人、送使沙宅孫登ら千四百人、総計二千人が、船四十七隻に乗って比知島に着きました。語り合って、今吾らの人も船も多い。すぐ向うに行ったら、恐らく向うの防人は驚いて射かけてくるだろう。まず道久らを遣わして、前もって来朝の意を明らかにさせることにいたしました』と申しております』と報告した。」
高句麗滅亡後、天智八年には唐が郭務ソウら二千余人を連れて来朝し、同十年正月には劉仁願が李守真らを派遣し、天智十年十一月、郭務ソウ以下六百人・沙宅孫登以下千四百人併せて二千人が比知島から大宰府に使者を派遣し、天武元年三月には来朝して書と進物を贈っている。沙宅孫登は元百済高官で、唐の朝鮮支配に協力していた者と思われる。
天智九年六月、新羅は百済故地に高句麗という傀儡政権を建てて唐に抗戦を開始したため、郭務ソウらは熊津都督府を追い落とされ、敗残兵及び白村江での捕虜を率いてきたものか(倭まで敵に回すと挟撃されるため、唐軍の進駐ではあり得ない)。
天武元年五月、朝廷は唐使に賜物を与えて帰国させた。天武四年十月、唐人三十人が筑紫より連行されているが、これも敗残兵であろう。
大伴部博麻が661年の百済を救う役に出陣したときに、筑紫君薩野馬さつやまが出陣したという記録は残されていない。しかし筑紫の君が捕虜になっていた時、博麻も捕虜になっていた事は前記の記事で明らかである。薩野馬はその姓から考えると、筑紫の君磐井の子孫の有力豪族であり、筑紫の国の造であった可能性が高い。602年に新羅追討の将軍久米王子(聖徳太子の弟)は神部かんとも・国造・伴造・軍兵二万五千を率いて出立した。神部とは神職のことで、軍事担当者でないから、諸国の造が自国の兵を、それぞれ率いた混成軍が武力の主体であった。筑紫の国も部隊を編成して、共同軍に加わったものとみえる。博麻は、前記した書紀の文中で出身が筑紫の八女郡であることが示されている。筑紫の八女郡と言えば、かの磐井の墳墓があり、かっては筑紫の国の都であったところである。これから推測できることは博麻は筑紫君薩野馬の率いる部隊の従者ではなかったと言うことである。従者であるゆえに、後日、自分の身を売って、主君につくしたと言うことではないだろうか。
672 (天武元年) 郭務宗
「夏五月十二日、鎧・甲・弓矢を郭務宗らに賜わった。この日郭務宗らに賜わったものは、合わせてふとぎぬ千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤であった。」
「郭務宗」は『天智紀』にも、幾度となく軍を率いて来訪し帰国しているように記す。ところが、このような天智紀には、具体的な贈物への言及は一切ない。
沙宅紹明 ?‐673(天武2)
百済滅亡時に日本へ亡命したもと百済貴族。官位は佐平。沙宅は沙吒,紹明は昭明とも書く。百済の柰祇城主大佐平砂宅智積(ちしやく),大佐平砂宅千福らの近親か。渡来して天智朝の法官大輔(法官は式部省の前身)となり,671年(天智10)1月に大錦下の冠位を授けられた。聡明で文学に秀で,大友皇子の賓客となり,藤原鎌足が死ぬとその碑文を製したという。673年閏6月に死んで特に外小紫の冠位と本国の大佐平の官位を与えられた。
「日本書紀」巻二七天智天皇一〇年(671)正月是月◆是月。以大錦下授佐平余自信。沙宅紹明。〈法官大輔。〉
『日本書紀』巻二九天武天皇二年(六七三)閏六月庚寅《六》◆閏六月乙酉朔庚寅。大錦下百濟沙宅昭明卒。爲人聰明叡智。時稱秀才於是。天皇驚之。降恩以贈外小紫位。重賜本國大佐平位。
高麗沙門道顯の日本世紀の原文
斉明天皇六年〔660〕)秋七月庚子朔乙卯、高麗使人乙相賀取文等罷歸。(中略)【高麗沙門道顯日本世記曰、七月云々。春秋智、借大將軍蘇定方之手、狹擊百濟亡之。或曰、百濟自亡。由君大夫人妖女之無道、擅奪國柄、誅殺賢良故、召斯禍矣。可不愼歟。々々々々。其注云、新羅春秋智、不得願於内臣蓋金。故亦使於唐、捨俗衣冠、請媚於天子、投禍於隣國、而構斯意行者也。伊吉連博德書云(以下略)】
(斉明天皇七年〔661〕)夏四月、百濟福信、遣使上表、乞迎其王子糺解。【釋道顯日本世記曰、百濟福信獻書。祈其君糺解於東朝。或本云、四月、天皇遷居于朝倉宮。】
(斉明天皇七年〔661〕天智称制)十一月(中略)【日本世記云、十一月、福信所獲唐人續守言等、至于筑紫。或本云、辛酉年〔661〕、百濟佐平福信所獻唐俘一百六口、居于近江國墾田。庚申年〔660〕、既云福信、獻唐俘。故、今存注。其決焉。】
(斉明天皇七年〔661〕天智称制)十二月高麗言、惟十二月、於高麗國、寒極[氵貝]凍。故唐軍、雲車衝輣、鼓鉦吼然。高麗士卒、膽勇雄壯。故更取唐二壘。唯有二塞。亦備夜取之計。唐兵抱膝而哭。鋭鈍力竭、而不能拔。噬臍之恥、非此而何。【釋道顯云、言春秋之志、正起于高麗。而先聲百濟。々々近侵甚苦急。故爾也。】
是歳、播磨國司岸田臣麻呂等、獻寶劒言、於狹夜郡人禾田禾穴内獲焉。又日本救高麗軍將等、泊于百濟加巴利濱、而燃火焉。灰變爲孔、有細響。如鳴鏑。或曰、高麗・百濟終亡之徴乎。
(天智天皇元年〔662〕)夏四月、鼠産於馬尾。釋道顯占曰、北國之人、將附南國。蓋高麗破、而屬日本乎。
691年 持統天皇5年
十二月戊戌朔己亥賜医博士務大参徳自珍呪禁博士木素丁武沙宅万首銀人二十両乙巳詔曰賜右大臣宅地四町直広弐以上二町大参以下一町勤以下至無位随其戸口其上戸一町中戸半町下戸四分之一王等亦准此
呪禁博士、木素丁武、沙宅万首と分け、「医博士、務大参、徳自珍」と読む。「務大参」とは天武天皇が定めた冠位四十八階の一種であり、上から二十九番目の位階である。「徳自珍」がこの医博士の名前だとされている。木素丁武は白村江の戦い(663年)以降に日本へ亡命した木素貴子(もくすきし)、沙宅万首は同じく沙宅紹明(さたくじょうみょう)の子孫かもしれない。
(神功皇后摂政)
前紀〔320〕10月、皇后は和珥の津から新羅征伐に向った。新羅王は恐れてすぐに降服し年毎の朝貢を誓い、それを知った高麗・百済も西蕃として朝貢することを誓った。そこで内官家・屯倉に定めた。これが三韓である。
46年〔366〕3月、斯麻宿禰を卓淳国に派遣した。このとき斯麻宿禰は、百済人久氐・彌州流・莫古の三人が貴国に行こうとしたが、道がわからず卓淳国に来て帰ってしまったことを聞き、使者を百済に遣った。
翌年47年〔367〕4月、百済が朝貢した。皇太后と太子誉田別尊が大いに歓喜して、先王が望んでいた国人が来朝した・・・と言った。このとき新羅が百済の貢物を横取りした。そこで、千熊長彦を新羅に遣り、百済の献物をみだしたことを責めた。
49年〔369〕3月、荒田別・鹿我別を将軍として卓淳に遣り、百済とともに新羅を討ち、比自[火本]・南加羅・[口彔国・安羅・多羅・卓淳・加羅の七国を平定した(※七国は新羅領だったことになる)。西に廻り、古奚津に至り、南蛮の忱彌多礼を屠り、百済に賜った。百済肖古王と王子貴須も来会した。時比利・辟中・布彌支・半古の四邑も自然と降服した。百済王父子及び荒田別・木羅斤資らは意流村で会った。
50年〔370〕5月、百済に多沙城を与え往還の路の駅とした。
52年〔372〕9月、百済の久氐らが千熊長彦に従ってやってきて、七枝刀一口・七子鏡一面及び種々宝を献上した。
62年〔382〕新羅が朝貢しなかったので、襲津彦を派遣し新羅を討った。(※注の『百済記』には、沙至比跪が新羅を討たず加羅を滅ぼしたので木羅斤資を派遣し加羅を回復させた、とある。)
(応神天皇)
7年〔396〕9月、高麗人、百済人、任那人、新羅人がそろって来朝した。このとき武内宿禰に命じて韓人に池(韓人池)をつくらせた。
8年〔397〕3月、百済人が来朝した。(※注の『百済記』には「阿花王が立ったが貴国に無礼だったので、貴国は枕弥多礼、峴南、支侵、谷那、東韓の地を奪った。百済は王子直支を天朝に遣り先王の好を修めた」とある。)
14年〔403〕2月、百済王が縫衣工女を献じた。この年、弓月君が百済より帰化したが、新羅人に拒まれ加羅国に留まっていた。襲津彦を派遣したが3年たっても帰ってこなかった。
15年〔404〕8月、百済王が阿直伎を派遣し、良馬二匹を貢上した。
16年〔405〕この年、百済阿花王が亡くなった。天皇は直支王に国に帰り王位を継ぐようにいい、東韓の地を賜った。8月、平群木菟宿禰と的戸田宿禰を加羅に派遣し新羅を討った。弓月の人夫と襲津彦を連れて帰ってきた。
25年(31)〔414(420)〕直支王が亡くなり、久爾辛が立ち王となった。王が幼かったので木満致が国政を執ったが、無礼な行いが多かったので召還した。(※注の『百済記』には、木満致は木羅斤資が新羅を討ったときその国の婦をめとり生まれた子であり、任那にいて百済に入り貴国と往き来し、天朝の命をうけ百済の国政を執った、とある。)
28年〔423〕9月、高麗王が遣使し朝貢した。上表文が無礼だったので菟道稚郎子は表を破った。
31(25)年〔426(420)〕8月、新羅の調使が武庫の水門で失火し船を焼いてしまった。新羅王は匠者を貢上した。
39年〔428〕2月、百済直支王が妹の新斉都媛を天皇に仕えさせた。媛は七人の婦女とともに帰化した。
(仁徳天皇)
11年この年、新羅人が朝貢した。
12年7月、高麗国が鉄の盾と鉄の的を貢上した。
17年9月、新羅が朝貢しなかったので、的臣の祖の砥田宿禰と小泊瀨造の祖の賢遺臣を派遣してその理由を訊くと、新羅人はすぐに貢献した。
53年5月、新羅が朝貢しなかったので、上毛野君の祖の竹葉瀨を派遣してその理由を訊いた。重ねて竹葉瀨の弟の田道を派遣し、新羅軍を潰した。
58年10月、呉国と高麗国がともに朝貢した。
(允恭天皇)
3年正月、新羅に遣使して良医を求めた。
42年正月、新羅王は天皇が亡くなったと聞き、調船80艘・楽人80人を貢上した。対馬に泊まって哭き、筑紫に着いて哭き、難波の港に泊まり素服を着けた。難波から京に至るまで哭き、あるいは舞い歌い、ついに殯の宮に参会した。
(雄略天皇)
2年〔458〕7月、百済の池津媛は天皇にそむき石川楯と密通した。天皇は怒り夫婦を焼き殺した。(※注の『百済新撰』には「己巳年〔429〕に蓋鹵王(455~475年)が立った。天皇は阿礼奴跪を派遣し女郎を求めた。百済は慕尼夫人女・適稽女郎を天皇に貢進した」とある。)
5年〔461〕4月、百済加須利君は適稽女郎が殺されたので、女ではなく弟の軍君を日本へ送ることにした。軍君は孕んでいる加須利君の婦を妻に求め許された。6月、孕んだ婦が筑紫の各羅嶋で児を産んだので嶋君といった。すぐに船で百済に送らせた。これが武寧王である。7月、軍君が入京した。(※注の『百済新撰』には「辛丑年〔461〕に蓋鹵王は弟の昆支君を派遣し、大倭に向い、天王に侍し、先王の好を修めた」とある。)
7年〔463〕この年、天皇は吉備上道臣田狭の妻を手に入れるため田狭を任那国司にした。田狭は新羅に助けを求めた。このとき新羅が朝貢しなかった。天皇は田狭の子弟君を百済に派遣し、新羅を討とうとするが、弟君は新羅への道が遠いのを思い、新羅を伐たずに帰国した。田狭はそれを喜び、百済に人を派遣し、弟君に百済に依拠して日本に通じないように、自身は任那に依拠して日本に通じない、といった。
8年〔464〕2月、新羅は天皇に背き、高麗と好を修めていたが、ようやく新羅王は高麗の偽りを知り、任那王に日本府の救援を頼んだ。任那王は膳臣斑鳩・吉備臣小梨・難波吉士赤目子に勧めて新羅を救いに往かせた。膳臣らは高麗軍を大破した。高麗と新羅の怨みはこの時始まった。膳臣らは新羅に対し、以後決して天朝に背いてはならないと戒めた。
9年〔465〕3月、天皇は紀小弓宿禰・蘇我韓子宿禰・大伴談連・小鹿火宿禰らに、新羅は歴代臣を称し朝貢してきたが、対馬の外に身をおき、匝羅の向こうに形跡をかくし、高麗の質を阻み、百済の城を併呑し、貢賦も納めない、新羅に天罰をおこなうようにと命じた。紀小弓宿禰らはすぐ新羅に入った。大伴談連らは戦死し、紀小弓宿禰は病死した。5月、紀小弓宿禰の子、紀大磐宿禰は新羅に行き威命をふるった。
20年〔476〕冬、高麗王が大軍をもって百済を討ち滅ぼした。高麗王は、百済国は日本国の官家として久しく仕えているので逐除はできない、といった。(※注の『百済記』には、蓋鹵王乙卯年〔475〕冬、狛の大軍が来襲し王城は陥落し、国王・太后・王子らは皆敵の手におちて死んだ、とある。)
21年〔477〕3月、天皇は百済が高麗に破られたと聞き、久麻那利を汶洲王に賜り、国を救い復興した。(※注の『日本旧記』には「久麻那利を末多王に賜った。しかしこれは誤りであろう。久麻那利は任那国の下哆呼唎県の別邑である」とある。)
23年〔479〕4月、百済文斤王が亡くなった。天王は末多王を百済国の王とした。筑紫国の兵士500人を派遣し、国に護送した。これが東城王となった。この年、百済の調賦はいつもより多かった。筑紫の安致臣・馬飼臣らが水軍を率いて高麗を撃った。
(清寧天皇)
3年〔482〕11月、海外の諸蕃が遣使進調した。
(顕宗天皇)
3年〔486〕2月、阿閉臣事代は命をうけ、使いとして任那に行った。この年、紀生磐宿禰が任那を占有し高麗に通い三韓の王となろうとし神聖を自称した。任那の左魯・那奇他甲背らの計を用いて百済の適莫爾解を爾林で殺した。百済王は怒り、帯山に出向き攻めた。紀生磐はことのならないのを知り任那から帰った。百済国は任那の左魯・那奇他甲背ら三百余人を殺した。
(仁賢天皇)
6年〔492〕この年、日鷹吉士が高麗からもどり、工匠須流枳・奴流枳らを献上した。
(武烈天皇)
6年〔503〕10月、百済が麻那君を派遣して進調した。
7年〔504〕4月、百済王が斯我君を派遣して進調した。
(継体天皇)
3年〔509〕2月、百済に遣使した。
6年〔512〕4月、穗積臣押山を百済に派遣し、筑紫の国の馬40匹を賜った。12月、百済が遣使貢調し、任那国の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁の四県を請うた。哆唎国守穗積臣押山は四県の下賜を進言し、大伴大連金村もこれを了承し、物部大連麁鹿火を宣勅使とし、百済に任那四県を賜った。
7年〔513〕6月、百済が姐彌文貴将軍・洲利即爾将軍を派遣し、穗積臣押山に副えて五経博士段楊爾を貢上し、伴跛国に奪われた百済の己汶の地の奪還を要請した。11月、己汶・帯沙を百済国に賜った。この月、伴跛国が戢支を派遣し、珍宝を献上し己汶の地を乞うたが、承知しなかった。
8年〔514〕3月、伴跛が城を小呑・帯沙に築き満奚に連ね、のろし台、兵糧庫を置き、日本に備えた。新羅を攻め村邑を略奪した。
9年〔515〕2月、百済の使者文貴将軍に物部連を副えて送った。この月、沙都島に着くと伴跛人が残虐をほしいままにしているというので、物部連は水軍五百を率いて帯沙江に向った。4月、物部連は帯沙江に泊まること6日、伴跛が軍をおこして攻めてきた。物部連らは恐れおののき、命からがら逃げ汶慕羅に泊まった。
10年〔516〕5月、百済が前部木刕不麻甲背を派遣し、物部連らを己汶に迎え労をねぎらい、国に導いて入った。9月、百済が物部連に副えて州利即次将軍を派遣し、己汶の地を賜ったことに感謝の意を表した。14日、百済が高麗使安定らに副えて灼莫古将軍と日本斯那奴阿比多を派遣し、来朝して好を結んだ。
21年〔527〕6月、近江毛野臣は兵6万を率いて、新羅に破られた南加羅と[口彔]己呑を復興し任那に合わせようとした。このとき筑紫国造磐井が火豐二国を拠りどころとし、高麗・百済・新羅・任那の年貢職船を誘致し、また毛野臣軍を遮った。8月、物部麁鹿火大連を磐井征討の将に任じた。
22年〔528〕11月、物部大連麁鹿火は筑紫御井郡で磐井と交戦し、磐井を斬り、境界を定めた。12月、筑紫君葛子は殺されるのを恐れて、糟屋屯倉を献上して死罪を免れるよう乞うた。
23年〔529〕3月、百済王が下哆唎国守穗積押山臣に、加羅の多沙津を百済朝貢の経由港に請うた。物部伊勢連父根・吉士老を派遣して、多沙津を百済に賜った。加羅王は、この港は官家を置いて以来、朝貢するときの渡航の港であるのになぜ隣国に賜うのか、と日本を怨み新羅と結んだ。加羅王は新羅王女を娶るがその後新羅と仲違いし、新羅は拔刀伽・古跛・布那牟羅の三城、北境の五城を取った。この月、近江毛野臣を安羅に派遣し、新羅に対し南加羅・[口彔]己呑を建てるようにいった。百済は将軍君尹貴・麻那甲背・麻鹵らを、新羅は夫智奈麻禮・奚奈麻禮らを安羅に派遣した。4月、任那王の己能末多干岐が来朝し、新羅がしばしば国境を越えて来侵するので救助して欲しいと請うた。この月、任那にいる毛野臣に、任那と新羅を和解させるよう命じた。毛野臣は熊川にいて新羅(王佐利遲)と百済の国王を呼んだ。しかし二国とも王自ら来なかったので毛野臣は怒った。新羅は上臣伊叱夫禮智干岐を派遣し三千の兵を率いて、勅を聴こうとしたが、毛野臣はこの兵力をみて任那の己叱己利城に入った。新羅の上臣は三月待ったが毛野臣が勅を宣しないので、四村(※金官・背伐・安多・委陀、一本では、多々羅・須那羅・和多・費智)を略奪し本国へひきあげた。多々羅など四村が掠奪されたのは毛野臣の過である、と噂された。
24年〔530〕9月、任那使が、毛野臣は久斯牟羅に舍宅をつくり2年、悪政を行なっていると訴えた。天皇はこれを聞き呼び戻したが、毛野臣は承知せず勝手な行動をしていたので、任那の阿利斯等は久禮斯己母を新羅に、奴須久利を百済に派遣して兵を請うた。毛野臣は百済兵を背評で迎え撃った。二国(百済と新羅)は一月滞留し城を築いて還った。引き上げるとき、騰利枳牟羅・布那牟羅・牟雌枳牟羅・阿夫羅・久知波多枳の五城を落とした。10月、調吉士が任那から来て、毛野臣が加羅に争乱を起こしたことなどを上申した。そこで目頬子を派遣して毛野臣を呼び戻した。この年、毛野臣は対馬に着いたが病気になり死んだ。送葬に川をたどって近江に入った。目頬子がはじめて任那に着いたとき、郷家らが歌を贈った。「韓国に いかに言ことそ 目頬子来る むかさくる 壱岐の渡りを 目頬子来る」
『百済本記』によれば、25年〔531〕3月、軍は安羅に至り乞乇城をつくった。この月、高麗がその王・安を殺した。また、日本の天皇及び太子・皇子がともに亡くなったという。
(安閑天皇)
元年〔534〕5月、百済が下部脩徳嫡徳孫・上部都徳己州己婁らを派遣し、いつもの調を貢上した。
(宣化天皇)
2年〔537〕10月、新羅が任那に侵入して荒らしたので、大伴金村大連に命じて、磐と狭手彦を派遣し任那を助けた。磐は筑紫に留まり三韓に備え、狭手彦は任那を鎮め、加えて百済を救った。
(欽明天皇)
元年〔540〕8月、高麗・百済・新羅・任那が遣使貢献した。
2年〔541〕4月、安羅・加羅・卒麻・散半奚・多羅・斯二岐・子他・任那日本府の官が百済に行き、詔書を聴いた。百済聖明王は任那旱岐らに、天皇の願いは任那復興であること、また、今新羅にだまされたのは自分の過ちであり、それを悔いて下部中佐平麻鹵・城方甲背昧奴らを加羅に派遣し、任那日本府と会い任那を建てることを誓いあったこと、[口彔]己呑や南加羅が取られたのは新羅が強かったからではなく、皆で力を合わせれば必ず任那は復興できることを説いた。7月、百済は安羅日本府と新羅が通じていると聞き、前部奈率鼻利莫古・奈率宣文・中部奈率木刕眯淳・紀臣奈率彌麻沙らを安羅に派遣し、安羅日本府の河内直が新羅と通じていたことを責めた。そして任那(安羅を代表とする諸国)に、百済と任那の昔からの関係、新羅への警戒などについて語り、百済にしたがい天皇の勅を聴き、任那を立てるようにいった。聖明王はさらに任那日本府に、(日本府の)卿らが新羅の言葉を真に受けて任那を滅ぼし、天皇を辱めるのを恐れるといった。百済が紀臣奈率彌麻沙・中部奈率己連を派遣し、下韓・任那の情勢を報告した。
4年〔543〕9月、百済聖明王が前部奈率眞牟貴文・護徳己州己婁と物部施徳麻奇牟らを派遣して、扶南の財物と奴二口を献上した。11月、津守連を百済に派遣し、任那の下韓にある百済の郡令城主を日本府に附けるように、また、任那を早く建てるようにいった。12月、聖明王はこの詔勅についていかにしたらよいか群臣に聴いた。上佐平沙宅己婁・中佐平木刕麻那・下佐平木尹貴・徳率鼻利莫古・徳率東城道天・徳率木刕眯淳・徳率国雖多・奈率燕比善那らは協議して、任那の執事、国々の旱岐らを呼んで協議するのが善策であり、河内直・移那斯・麻都らが安羅に住んでいたのでは任那を建てるのは難しい、と答えた。この月、百済は任那と日本府の執事を呼んだが、ともに元旦が過ぎてから行くと答えた。
5年〔544〕正月、百済はまた任那と日本府の執事を呼んだが、ともに祭が終わってから行くと答えた。百済はさらに遣使し、任那と日本府の執事を呼んだが、ともに身分の低いものが来たので、任那を建てる協議ができなかった。2月、百済は施徳馬武・施徳高分屋・施徳斯那奴次酒らを任那に派遣し、日本府と任那の旱岐らに、日本府・任那の執事を三回召集したが来なかったので、任那の政を図り天皇に申し上げることができなかった、日本府の卿と任那の旱岐らは百済へ来て天皇の宣勅を聴くように、といった。また別に、河内直・移那斯・麻都と河内直の先祖である那干陀甲背・加獵直岐甲背の悪行を責めた。これに対して日本府は、日本の臣と任那の執事は新羅に行って勅を聴くようにといわれており、百済に行かなかったのは任那の意向ではない、といった。3月、百済は奈率阿乇得文・許勢奈率奇麻・物部奈率奇非らを派遣し、阿賢移那斯・佐魯麻都が安羅にいると任那を建てるのは難しいこと、的臣らが天朝を欺いたこと、佐魯麻都は新羅の奈麻礼の冠をつけていること、[口彔]国と卓淳国が滅んだのは内応や二心が原因であることなどを上申した。10月、百済使者奈率得文・奈率奇麻らが帰った。11月、百済が日本府の臣、任那の執事を呼んで、百済に来て勅を聞くようにいった。日本(府)の吉備臣、安羅の下旱岐大不孫・久取柔利、加羅の上首位古殿奚、卒麻の君、斯二岐の君、散半奚の君の子、多羅の二首位訖乾智、子他の旱岐、久嗟の旱岐が百済に行った。百済王聖明は詔書を示して、どのようにしたら任那を建てることができるか、と訊いた。吉備臣、任那の旱岐らは、任那を建てるのは大王にかかっている、大王に従いたい、といった。聖明王は、①新羅と安羅の境に大川があるので、その地に拠って六城を修復し、天皇に三千の兵士を請う。②南韓は北敵の防衛と新羅を攻めるのに必要であり、郡令城主は引続き置く。③吉備臣、河内直、移那斯、麻都が任那にいたのでは任那を建てることはできないので、本邑に還るよう天皇にお願いする、という三つの策を示した。
6年〔545〕3月、膳臣巴提便を百済に派遣した。5月、百済が奈率其[忄夌]・奈率用奇多・施徳次酒らを派遣して上表した。9月、百済が中部護徳菩薩らを任那に派遣した。この月、天皇の善徳と官家の国の福を願い、百済が丈六の仏像を造った。この年、高麗に大乱があり、多数のものが殺された。(※注の『百済本記』には、「高麗の細群と麁群が戦い、細群が敗れた。狛国王香岡上王が亡くなった」とある。『三国史記』「高句麗本紀」によれば、このときの高句麗王は安原王である。)
7年〔546〕6月、百済が中部奈率掠葉礼らを派遣し、調を献上した。この年、高麗に大乱があり、二千余人が戦死した。
8年〔547〕4月、百済が前部徳率真慕宣文・奈率奇麻らを派遣し、救軍を乞うた。
9年〔548〕正月、百済使者前部徳率真慕宣文らの帰国に際し、救軍は必ず送るからすみやかに王に報告するようにといった。4月、百済が中部杆率掠葉礼を派遣し、馬津城の役で、安羅と日本府が高麗と通じ百済を伐とうとしたことがわかったので、しばらくの間救兵を停止してもらいたいといってきた。6月、百済に遣使して、任那とともに対策を練り防ぐように、といった。10月、370人を百済に派遣し、得爾辛に城を築くのを助けた。
10年〔549〕6月、将徳久貴・固徳馬次文らが帰国するとき、移那斯と麻都が高麗に遣使したことの虚実を調査し、救兵は停止する、といった。
11年〔550〕2月、百済に遣使し、北敵は強暴だと聞く、矢30具を与える、といった。4月、百済にいた日本王人が帰国しようとしたとき、百済王聖明は、任那のことは勅を固く守る、移那斯と麻都のことは勅に従うだけだといい、高麗奴六口、別に王人に奴一口を贈った。
12年〔551〕3月、麦の種一千斛を百済王に賜った。この年、百済聖明王は二国の兵(新羅・任那)を率い高麗を征伐し漢城を獲った。平壤を討ち旧領を回復した。
13年〔552〕5月、百済・加羅・安羅が中部徳率木刕今敦・河内部阿斯比多らを派遣し、高麗と新羅が百済と任那を滅ぼそうと計画しているので、兵を出し不意を攻めるよう求めた。10月、百済聖明王が西部姫氏達率怒唎斯致契らを派遣して、釈迦仏金銅像一軀・幡蓋若干・経論若干巻を献上した。この年百済が漢城と平壤を棄て、新羅が漢城に入った。今の新羅の牛頭方・尼彌方である。
14年〔553〕正月、百済は上部徳率科野次酒・杆率礼塞敦らを派遣し、軍兵を乞うた。6月、内臣を百済に遣使し、良馬二匹・同船二隻・弓50張・箭50具を与えた。また医博士・易博士・暦博士を交替させ、卜書・暦本・種々の薬物を送付するようにいった。8月、百済が上部奈率科野新羅・下部固徳汶休帯山らを派遣し、援軍の派遣(新羅と狛国が安羅を奪取し道を遮断しようとしている)、亡くなった的臣の代わりの派遣、そして弓馬を乞うた。10月、百済王子余昌が高麗と合戦した。
15年〔554〕正月、百済が中部木刕施徳文次・前部施徳曰佐分屋らを筑紫に派遣して、内臣・佐伯連らに、この年の役は前よりも危ういので正月に間に合わせてほしい、といった。内臣は、すぐに援助軍一千、馬百匹、船四十隻を派遣する、といった。2月、百済が下部杆率将軍三貴・上部奈率物部烏らを派遣して救兵を乞うた。百済は、奈率東城子言に代えて徳率東城子莫古を送り、五経博士・僧を交替し、別に易博士・暦博士・医博士・採薬師・楽人を送った。5月、内臣が水軍を率いて百済に到着した。12月、百済が下部杆率汶斯干奴を派遣し、有至臣の軍に加え(狛と新羅が協力しているので有至臣軍だけでは足りない)竹斯島の兵士の派遣を要請し、百済は任那を助けにいく、事は急である、といった。
余昌は新羅を討つことを謀った。老臣が止めるのも聞かず、新羅に入り久陀牟羅の塞を築いた。父明王は憂慮し自ら出かけていった。新羅は明王みずから来たと聞き、国中の兵を発して道を断ち撃破した。明王は新羅の奴・苦都の手で殺された。余昌は敵に囲まれたが、弓の名手・筑紫国造の働きによって逃げることができた。
16年〔555〕2月、百済王子余昌が王子恵を派遣し、聖明王が賊のために殺されたことを報告した。
17年〔556〕正月、百済世子恵が帰国するとき、大量の兵器・良馬を与え、阿倍臣・佐伯連・播磨直を派遣して、筑紫国の水軍を率い、護衛して国に送った。別に筑紫火君を派遣して、勇士一千を率いて、彌弖まで護送した。港の路の要害の地を守らせた。
21年〔560〕9月、新羅が彌至己知奈麻を派遣して調賦を献上した。
22年〔561〕、新羅が久礼叱及伐干を派遣して調賦を献上したが、もてなす儀礼が減っていたので、及伐干は怒り恨んで帰った。この年また、新羅が奴氐大舎を派遣して、前と同じ調賦を献上した。序列が百済の下だったので大舎は怒って還った。新羅は城を阿羅の波斯山に築き、日本に備えた。
23年〔562〕正月、新羅が任那の官家を攻め滅ぼした。(※注の一本には、21年に任那は滅んだとある。また総体を任那といい、個々の国は加羅国・安羅国・斯二岐国・多羅国・卒麻国・古嵯国・子他国・散半下国・乞飡国・稔礼国、合わせて十国だとある。)7月、新羅が遣使して調賦を献上した。使者は新羅が任那を滅ぼしたのを知っていたので帰国を請わなかった。この月、大将軍紀男麻呂宿禰は兵を率いて哆唎を出て、副将河辺臣瓊岳は任那に行った。紀男麻呂は新羅を破り百済に入った。河辺臣瓊岳は戦事に通暁せず、新羅に撃破された。8月、大将軍大伴連狭手彦を派遣し、兵数万をもって高麗を伐った。狹手彦は百済の計をもって高麗を打ち破った。11月、新羅が遣使して調賦を貢上した。使者は新羅が任那を滅ぼしたのを知っていたので帰国を請わなかった。
31年〔570〕4月、高麗の使者が風浪に苦しみ、越の海岸に漂着した。天皇は、山背国相楽郡に館を建て清め、厚くたすけ養うようにといった。
32年〔571〕3月、坂田耳子郎君を新羅に派遣して、任那の滅んだ理由を訊いた。4月、天皇は皇太子に、新羅を撃って任那を建てるようにといった。8月、新羅が弔使未叱子失消らを派遣した。
(敏達天皇)
2年〔573〕5月、高麗の使者が越の海岸に泊まった。高麗が頻繁に道に迷うのを疑い、吉備海部直難波に高麗使を送り還らせた。
3年〔574〕5月、高麗の使者が越の海岸に泊まった。11月、新羅が遣使進調した。
4年〔575〕2月、百済が遣使進調した。新羅がまだ任那を建てないので、天皇は皇子と大臣に任那のことを怠らないようにといった。4月、吉士金子を新羅に、吉士木蓮子を任那に、吉士訳語彦を百済に派遣した。6月、新羅が遣使進調した。あわせて多々羅・須奈羅・和陀・発鬼の四つの邑の調を進上した。
6年〔577〕5月、大別王と小黒吉士を派遣して、百済国に宰とした。11月、百済国王は大別王らに経論若干巻・律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工六人を献上した。
8年〔579〕10月、新羅が枳叱政奈末を派遣して進調した。あわせて仏像を送った。
9年〔580〕6月、新羅が安刀奈末・失消奈末を派遣して進調したが、納めずに帰国させた。
11年〔582〕10月、新羅が安刀奈末・失消奈末を派遣して進調したが、納めずに帰国させた。
12年〔583〕7月、天皇は任那復興を謀るため、百済に紀国造押勝と吉備海部直羽嶋を派遣して日羅を呼んだ。百済国王は日羅を惜しんで承知しなかった。この年、再び吉備海部直羽島を百済に派遣し日羅を呼んだ。百済国王は天朝を畏れて敢えて勅に背かなかった。日羅らは吉備児島の屯倉に着いた。朝庭は大夫らを難波館に派遣して日羅を訪ねさせ、また館を阿斗の桑市に造って住まわせた。阿倍目臣・物部贄子連・大伴糠手子連を派遣し、国政について日羅に訊いた。日羅は、百済が筑紫を請おうといっているので、壱岐・対馬に伏兵を置き、やってくるのを待って殺すべきである、だまされてはいけない、といった。日羅は難波の館に移った。百済の大使と副使は臣下に日羅を殺させた。日羅は蘇生して、これはわが使の奴がしたことで新羅ではない、といった。
13年〔584〕2月、難波吉士木蓮子を新羅に派遣した。ついに任那に行った。
(崇峻天皇)
元年〔588〕、百済国が使者とともに恵総・令斤・恵らを送り、仏舎利を献上した。飛鳥の衣縫造の祖樹葉之家を壊して、はじめて法興寺(※元興寺)をつくった。
4年〔591〕8月、天皇が群臣に、任那を建てたいと思うがどうか、といった。みな、天皇の思いと同じであるといった。11月、紀男麻呂宿禰・許勢猿臣・大伴囓連・葛城烏奈良臣を大将軍とし、二万余の軍をもって出向いて筑紫に軍を構え、吉士金を新羅に、吉士木蓮子を任那に送り、任那のことを問い正した。
(推古天皇)
5年〔597〕4月、百済王が王子阿佐を使わして朝貢した。11月、吉士磐金を新羅に派遣した。
6年〔598〕8月、新羅が孔雀一羽を貢上した。
7年〔599〕9月、百済が駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・白雉一羽を貢上した。
8年〔600〕2月、新羅と任那が攻めあった。天皇は任那を救おうと思った。この年、境部臣を大将軍とし、穗積臣を副将軍とし、任那のために新羅を撃ち、五つの城を攻め落とした。新羅王は多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南迦羅・阿羅々の六城を割いて降服した。新羅と任那は遣使貢調し、以後不戦と毎年の朝貢を誓った。しかし将軍らが引き上げると新羅はまた任那に侵攻した。
9年〔601〕3月、大伴連囓を高麗に、坂本臣糠手子を百済に派遣して、急いで任那を救うようにいった。11月、新羅を攻めることをはかった。
10年〔602〕2月、来米皇子を征新羅将軍とした。軍兵二万五千人を授けた。10月、百済の僧観勒が来て、暦本・天文地理書・遁甲方術書を貢上した。
11年〔603〕4月、2月に筑紫で来目皇子が亡くなったので、来米皇子の兄の当麻皇子を征新羅将軍とした。
13年〔605〕4月、高麗国大興王が、日本国天皇が仏像を造ると聞き、黄金三百両を貢上した。
18年〔610〕3月、高麗王が僧曇徴・法定を貢上した。7月、新羅の使者沙[口彔]部奈末竹世士と任那の使者[口彔]部大舎首智買が筑紫に着いた。9月、使を遣って新羅と任那の使者を呼んだ。10月、新羅と任那の使者が京にやってきた。額田部連比羅夫を新羅客を迎える荘馬の長とし、膳臣大伴を任那客を迎える荘馬の長とし、阿斗の河辺の館に招いた。
19年〔611〕8月、新羅は沙[口彔]部奈末北叱智を派遣し、任那は習部大舎親智周智派派遣し、ともに朝貢した。
23年〔615〕9月、百済使が大唐使の犬上君に従って来朝した。
24年〔616〕7月、新羅が奈末竹世士を派遣して仏像を貢上した。
26年〔618〕8月、高麗が遣使して方物を貢上した。高麗が隋の煬帝の三十万の兵を打ち破ったときに得たものだという。
29年〔621〕、新羅が奈末伊彌買を派遣して朝貢した。
31年〔623〕7月、新羅が大使奈末智洗爾を派遣し、任那が達率奈末智を派遣し、そろって来朝した。仏像一組・金塔・舎利を貢上した。この年、新羅が任那を伐ち、任那は新羅についた。吉士磐金を新羅に、吉士倉下を任那に派遣し、任那の事情を訊いた。しかし使いが帰国しないうちに新羅に軍を出し伐ってしまった。11月、磐金・倉下らが新羅から帰った。大臣は新羅が調を貢上しようとしているときに攻めてしまったことを悔いた。
(舒明天皇)
2年〔630〕3月、高麗の大使宴子拔・小使若徳と百済の大使恩率素子・小使徳率武徳がともに朝貢した。
3年〔631〕3月、百済王義慈が王子豊章を人質として送った。
7年〔635〕6月、百済が達率柔等を派遣し朝貢した。
10年〔638〕、百済・新羅・任那がそろって朝貢した。
12年〔640〕10月、唐の学問僧清安・学生高向漢人玄理が新羅を伝って帰ってきた。百済・新羅の朝貢使がこれに従ってきた。
(皇極天皇)
元年〔642〕正月、百済への使者大仁阿曇連比羅夫が筑紫国から駅馬で来て、百済国が天皇の崩御を聞き弔使を派遣してきたこと、今、百済国は大いに乱れていることを報告した。2月、百済弔使のところに、阿曇山背連比羅夫・草壁吉士磐金・倭漢書直県を遣り、百済の消息を訊くと、正月に国主の母が亡くなり、弟王子、子の翹岐、母妹女子四人、内佐平岐味、高名な人四十人余が島に追放されたことなどを話した。高麗の使者は難波の港に泊まり、去年六月に弟王子が亡くなり、(641年)9月に大臣の伊梨柯須彌が大王を殺した、といった。高麗・百済の客を難波郡にもてなした。大臣に、津守連大海を高麗に、国勝吉士水鷄を百済に、草壁吉士眞跡を新羅に、坂本吉士長兄を任那に使わすようにいった。3月、新羅が賀登極使と弔喪使を派遣した。5月、百済国の調使の船と吉士の船が難波の港に泊まった。百済の使者が進調した。10月、新羅の弔使の船と賀登極使の船が壱岐島に泊まった。
2年〔643〕4月、筑紫の大宰が早馬で来て、百済国主の子翹岐と弟王子が調使とともに来た、といった。6月、筑紫の大宰が早馬で来て、高麗が遣使して来朝した、といった。百済の進調船が難波の港に泊まった。
(孝徳天皇)
大化元年〔645〕7月、高麗・百済・新羅がともに遣使進調した。百済調使は任那使を兼ね、任那の調を進上した。
大化2年〔646〕2月、高麗・百済・任那・新羅が遣使して調賦を貢献した。9月、小徳高向博士黑麻呂を新羅に派遣して人質を出させた。ついに任那の調をやめた。
大化3年〔647〕正月、高麗・新羅がともに遣使して調賦を貢献した。この年、新羅が上臣大阿飡金春秋らを派遣し、博士小徳高向黑麻呂・小山中中臣連押熊を送り、孔雀一隻・鸚鵡一隻を献上した。春秋を人質とした。
大化4年〔648〕2月、三韓(高麗・百済・新羅)に学問僧を派遣した。この年、新羅が遣使して貢調した。
大化5年〔649〕5月、小花下三輪君色夫・大山上掃部連角麻呂らを新羅に派遣した。この年、新羅王が沙[口彔]部沙飡金多遂を派遣し人質とした。従者は三十七人いた。
白雉元年〔650〕4月、新羅が遣使して貢調した。(※注の或本には、この天皇の世に、高麗・百済・新羅の三国が毎年遣使貢献してきた、とある。)
白雉2年〔651〕6月、百済と新羅が遣使貢調し、物を献じた。この年、新羅の貢調使知萬沙飡らが唐服を着て筑紫に泊まった。朝廷はそれを叱責し追い返した。
白雉3年〔652〕4月、新羅と百済が遣使して貢調し、物を献じた。
白雉4年〔653〕6月、百済と新羅が遣使して貢調し、物を献じた。
白雉5年〔654〕10月、天皇が亡くなった。高麗・百済・新羅が遣使して弔った。