王辰爾 船首王後の墓誌

6世紀中ごろの百済からの渡来人。「船首王後墓誌」には「船氏の中祖・王智仁首」とある。『続日本紀』延暦9(790)年条の百済王仁貞の上表文には百済の貴須王の孫王孫王が応神天皇のときに渡来し,その曾孫の午定君の3子のひとりに辰爾の名がみえ,この時から葛井,船,津の3氏に分かれたという。『日本書紀』欽明14(553)年条には蘇我稲目の下で王辰爾が船の賦を数え録し,その功で船長となり船氏の氏姓を与えられたとする。敏達1(572)年条によると高句麗の使がもたらした鳥の羽に書かれた国書を王辰爾のみがよく解読できたので天皇に近侍するようになったという。

 船首王後の墓誌は、大阪府柏原市国分松岳山の古墳から江戸時代に発見されたらしい。

金銅製で、長さ29.4センチ、幅6.7センチである。
銘文は、表に4行86字、裏も4行で76字、計162字が刻まれている。大変端麗な字である。

文意

 「船氏の故、王後の首は、船氏の中祖であった王智仁の子である那沛故首の子である。敏達天皇の世に生まれ、推古天皇の朝廷で仕え(6世紀末から7世紀初)、舒明天皇の代に至った。天皇がその才能の卓越さと功績の高さを知って、大仁の官位(12階のうちの第3位)を賜った。舒明天皇の末年、辛丑(641年)12月3日に死亡した。そこで戊辰年(668)12月、松岳山の上に葬った。夫人の安理故能刀自と墓を同じくし、その長兄である刀羅古首の墓のとなりに墓を作った。これは『即ち万代の霊基を安保し、永劫の宝地を牢固にせんと欲し』てのことである」

 船氏は百済からの渡来人である。「続日本記」延暦9(790)年7月条によれば、津連(菅野)真道らが、自分たちは百済人で、「貴須王の5世の子孫である午定君には、味沙、辰爾(智仁)、麻呂(牛)の三子があり、それぞれ白猪(葛井)、船、津の祖先である」、との上表文を残している。

 ここに見える「辰爾」は、「日本書記」敏達天皇元(572)年、誰も読めなかった高句麗の国書を読み解いたことで有名である。

 この辰爾は、船の賦を正確に数え記録したので、それにより史と称するようになった。

 集住していた地域は、大和川と石川の合流地点より南西の羽曵野丘陵北端(大阪府羽曵野市西部一帯)で、葛井寺、野中寺、大津神社、善正寺跡などがその関連社寺として残る。

江戸時代、墓誌が大阪府柏原市国分市場から出土した。「船氏王後」墓誌といわれるものである。墓誌の表 裏に次の文が刻まれている。
(表)
惟船氏故王後首者是船氏中祖王智仁首児那沛故首之子也 生於乎娑陀宮治天下天皇之世奉仕 於等由羅宮治天下天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲勅賜 官位大仁品為第三
惟うに船氏の故王後(おうご)の首(おふと)は、是れ船氏の中祖(なかつおや)王智仁(おうちに)の首の 児(こ)那沛故(なはこ)の首の子也。乎娑陀宮(おさだのみや)に天下(あめのした)治(しろしめしし)天 皇(敏達)の世(みよ)に生まる。等由羅(とゆら)の宮に天下治らしめしし天皇(推古)の朝(みかど)に 仕え奉り、阿須迦宮(あすかのみや)に天の下治らしめしし天皇(舒明)の朝に至る。天皇、照見して、 其の知才を知り、仕えて功勲有り。勅(みことのり)して官位大仁を賜い、品第三と為す。
(裏)
三殞亡於阿須迦天皇之末 歳次辛丑(641)十二月三日庚寅 故戊辰(668)年十二月殯葬於松岳 山上 共婦安理故能刀自同墓 其大兄刀羅古首之墓並作墓也 即為安保万代之霊基牢固永劫 之宝地也

阿須迦の天皇の末に殞亡す。歳は次辛丑(かのとうし)に次(やど)る十二月三日庚寅(かのえとら)。 故(かれ)、戊辰(つちのえたつ)の年十二月、松岳山の上に殯葬す。婦(つま)安理故能刀自(ありこのと じ)と共に墓を同じくし、其の大兄刀羅古(とらこ)の首の墓と並びて墓を作る也。即ち為安保万代(よろ ずよ)の霊基を安保し、永劫の宝地を牢固にせんとすなり。 (大阪府立「近つ飛鳥博物館」)

王後は、船氏の中祖王智仁の子、那沛故の子といわれる。乎娑陀(おさだ)天皇の世に生まれ、等由羅天皇 の朝に仕え、阿須迦天皇の時、冠位十二階のうち第三位の大仁を賜った。阿須迦天皇の辛丑の年(641)12月3 日に亡くなり、戊辰の年(668)12月に「松岳山」の上に葬られた。墓は婦の「安理故能刀自」と共にし、兄の「刀羅 古」の墓と並んで作られた。

推古紀・船手王平とは船氏王後
6月15日、客ら難波津に泊まれり。この日に、飾り船三十艘をもって客らを江口に迎えて、新しき館に安 置する。ここに中臣宮地連烏摩呂、大河内直糠手、船手王平をもって掌客とす。 (日本書紀)

船史については、『書紀』には王辰爾を祖とするとあるが、王辰爾は『続日本紀』延暦九年(790)七月の条に、百済の貴須王の孫辰孫王の後とある。
『新撰姓氏録』でも、船連は菅野朝臣同祖とあり、菅野朝臣は「出自百済国都慕王十世孫貴首王也」とある。貴首王は貴須王のことであろう。

553年
欽明きんめい天皇十四年(553)七月の条に「蘇我大臣稲目宿禰、勅を奉りて王辰爾を遣わして、船の賦みつぎを数へ録しるす。即ち王辰爾を以て船長とす。因りて姓を賜ひて船史とす。今の船連の先なり」とある記事について

572年
敏達びたつ天皇元年(572)五月の条の、高麗こまからの国書を諸史が三日かかっても誰も読みとれなかったのに、ひとり船史の祖王辰爾のみ解読したことから、天皇が王辰爾を大いに賞讃し、一方東西の諸史に「汝ら習う業、何故か就ならざる。汝等衆おほしと雖も、辰爾に及しかず」と叱責している。

645年
『日本書紀』皇極天皇四年(645)条の蘇我蝦夷そがのえみしが殺されたとき、船史恵尺ふねのふびとえさかが焼かれようとした国記をとり出して、中大兄皇子に奉献した記事がある。

上宮法皇の墳墓は叡福寺にある。玄室には王・妻・母の三つの石棺が存在する。法隆寺釈迦三尊光背銘 が記録しているように、621年に王母、622年2月21日に王后、622年2月22日に上宮法皇の三人が相次 いで亡くなった

実在が確かめられる王は上宮法皇である。上宮法皇の実在は法隆寺釈迦三尊像光背銘・隋書俀国伝・唐 国書・西方院・広隆寺縁起等が証明する。法興元年(591)に即位、法興22年(622)に亡くなった。上宮法皇 とは法名である。実名は不明である。隋書は「其王多利思比孤」と書く。国際思想であった仏教を國教として 導入したのは、この王であった。

日本國の有力な豪族は蘇我氏・小野氏・物部氏であった。上宮法皇が誕生した時、その養育係として三人 の姫が撰ばれた。その三人はこれら豪族の娘だった。上宮法皇が622年亡くなった後、三人は出家して尼と なりその菩提を弔った。上宮法皇の養育姫の墓は磯長陵の向かいの丘に存在する。この三人の尼の伝記は 日本書紀の説話と大きく異なる。

冠位12階制定は、この王の政治改革であった。有力氏族だけでなく、有能な人材を求めたのである。「百 済」「新羅」「高句麗」から多くの人材が渡日して政権の中枢を担った。京都・太秦の広隆寺を建てた秦河勝 もその一人だった。

日本書紀のみが上宮法皇を天皇家の皇太子として描く。

上宮法皇の墳墓は叡福寺にある。玄室には王・妻・母の三つの石棺が存在する。法隆寺釈迦三尊光背銘 が記録しているように、621年に王母、622年2月21日に王后、622年2月22日に上宮法皇の三人が相次 いで亡くなった。

上宮法皇が亡くなった時の状況を日本書紀は次のように描写している。
(推古)29年2月5日、半夜に厩戸豊聡耳皇子命、斑鳩宮に薨りましぬ。是の時に、諸王・諸臣及び 天下の百姓、悉に長老は愛き兒を失へるが如くして、鹽酢(しほす)の味、口に在れども嘗(な)め ず。少幼は慈(うつくしび)の父母を亡へるが如くして、哭(な)き泣(いさ)つる 聲、行路に満てり。 乃ち耕す夫は耜(すき)を止み、春(いねつ)く女は杵(きぬおと)せず。皆曰はく、「日月輝を失ひ て、天地既に崩れぬ。今より以後誰を恃(たの)まむ。」といふ。是の月に、上宮太子を磯長陵に葬 る。

これほど有能な行政官でありながらその記録は推古紀にはない。
だが船氏王後の名前はないがよく似た人物が推古紀に記録されている。

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 『続日本紀』の編纂者である菅野真道は、自分を百済系の出自だと言っており、貴須王(近仇首王/十四代百済王)の「五世の子孫である午定君」の三子のひとりとして王智仁(墓誌では王「辰爾」)がいるのだということを「上表文」で世に残しています。そうして、この銘文にある「辰爾」=智仁により、王智仁の存在が脚光を浴びました。
「王後」とは、この王智仁の孫、ということです。

 船氏王後墓誌では、この王後は、「阿須迦」天皇の世の末、641年十二月に亡くなっているとあります。船氏王後墓誌は、この「阿須迦」天皇のほか、三者の天皇を記しています。
「乎娑陀」天皇
「等由羅」天皇
「阿須迦」天皇
 「等由羅宮治天下天皇」の等由羅といえば、蘇我稲目の私邸があった「豊浦」そのものであり 、蘇我稲目かもしれんし。
さらに重要なのは、舒明天皇は641年十一月に崩御しているため、船王後は「阿須迦」天皇時代末の641年12月3日に亡くなっているという記述と、少々ですが矛盾がある。この銘文の「阿須迦」天皇こそが実在した天皇で、日本書紀の舒明天皇が不在だと考えたほうがいいとの意見がある。
阿須迦天皇を、とにかく「飛鳥」となじみの深い蘇我一族のひとり「蝦夷」その人と見ることもできる。

皇極天皇4年(645年)に天皇の御前で入鹿が殺されると、蝦夷のもとに与する者が集まったが、翌日入鹿の屍を前にして、蝦夷は邸宅に火をかけ、自害した(乙巳の変)。なお、『日本書紀』によれば、『天皇記』はこの時に失われ『国記』は船史恵尺が火中の邸宅から持ち出して、難を逃れた。後に中大兄皇子に献上されたとあるが、共に現存しない。

蝦夷の没年とも合わない。一体だれでしょう。

「船王後墓誌」の九州説

大阪府柏原市の古墳から出土し、現在三井高遂氏の所蔵となっている。
その中には三人の天皇と、当人船王後との関連が語られている
関連する天皇名は
 ①おさだ(おさだ)宮 ②等由羅(とゆら)宮 ③阿須迦(あすか)宮 
 の三天皇であるが、従来当てられてきた三天皇(敏達・推古・舒明)とは、ピッタリ”対応”はしていない。
 その上、致命的なのは三天皇間の用明・崇峻・皇極・孝徳・斉明・天智(585~671)等の天皇名がすべて「無視」されている点である。この銘版は「天皇名と当人との対応」が主眼である点から見れば、不可解である。
 さらに、当の船王後が「大仁」にして「品第三」という顕官であるのに、日本書紀に一切その名が出てこないのである。

 これに反し、九州には”対応”すべき痕跡(遺跡)が多い。たとえば、
 (A)柿本人麿作歌(万葉集167)には「神下し座せまつりて」「神上り上り座しめ」と、「上座(郡)」「下座(郡)」という、九州の筑前国(福岡県)の地名を”背景”にして作歌されている。万葉集の表題「日並皇子尊の殯宮の時」と相反し、この歌の中の「天皇」は九州の筑前国に「座(いま)す」権力者なのである。
 (B)同じく、九州の「太刀洗町の下高橋官衙遺跡」出土の「正倉院」は、江戸時代の資料に、「生葉郡正倉院崇道天皇御倉一宇」とあった。それが近隣の太刀洗町から出土したのである。先述の「小野毛人朝臣」の銘版が出土した「天皇山」の崇道神社の「崇道天皇」である。(桓武天皇の弟の早良親王の追号「崇道天皇」と同名。ただ、早良親王の年時は、この数百年あとに当る。)
 (C)船王後の銘版の「おさだ・等由羅・阿須迦」は、それぞれ「曰佐(おさ・博多)・豊浦(長門)・飛鳥(筑前)」に当り、いずれも「神籠石」の”内部”に位置している。