河内の志貴県主

志貴県主神社 藤井寺市惣社
 主神 神八井耳命(志貴県主の祖)
 石川・大和川の合流付近から西方一帯は古代の志貴県といわれる朝廷の直轄地で、その管掌者は神武天皇の長子神八井耳命を始祖とする志貴県主一族であり、彼らは古墳時代前期から河内地方に居住していたと推定される。

祭  神:神八井耳命 天照大神 天児根屋命 比咩大神 武甕槌命         経津主命 表筒男命 中筒男命 底筒男命 神功皇后   

説  明:境内案内板
「この神社は、河内古市から国府に至る南北約五キロに亘って連 なる洪積層の国府古市台地の北端に鎮座する、延喜式内社である。 祭神は神武天皇の長子と伝えられる、神八井耳命。綏靖天皇の 兄に当る。 主神として天照大神。春日大神の武甕槌命・天児屋根命・比咩 大神・経津主命。 表筒男命・中筒男命・底筒男命のいわゆる住吉三神と神功皇后 の各神を合祀されている。

河内では最も由緒ある神社である。
大和時代初期のころ柏原附近から道明寺付近にかけての肥沃な 水田地帯は大和朝廷直轄地として「河内の志貴の県」といわれ、これを管理する豪族は神武天皇の長子、神八井耳命を始祖と奉 る志貴県主及びその同族である志貴首らであった。これらの豪族の本拠地に祖神を祀り氏神として創建されたのが        この神社であったと考えられる。 三代実録の、清和天皇の貞観四年(西暦862年)二月の記録 によると、
「河内国志紀郡人、外従五位下、行木工助(木工寮の次官)兼右大臣(藤原基経)家令支配人、志貴県主福依ら三人、姓として 宿祢を賜い、即ち本居(本籍地)を改め左京職(平安京の左京)に隷す。 志貴県主は神八井耳命の後(子孫)多朝臣と同じ祖なり。」 という内容が記されており、平安初期の862年二月に本籍を 志貴郡から平安京の左京郡者に移したことが判るのである。        その後、村上天皇の天暦年間(950年ごろ)諸国の所経費を節減するために設けられた惣社の制により、各国々の国府(国 を治める役所)から最寄の有名社を「惣社」に充当して、その国内の有名祭神を一ヶ所に集めて祭祀されることになった為、この神社を「河内の惣社の宮」と呼称されることになり、近隣        の集落を惣社と称するようになった」とあります。
住  所:藤井寺市惣社1-6-23
神武天皇の御子は古事記によれば、先に阿多の小椅の阿比良比 売という姫との間に、多芸志美美命と岐須美美命がいたことに なっています。        ところが、神武天皇は、橿原即位を成すと、「もっと血筋の良い姫を皇后にしたい」と言い、選ばれたのは、大物主の娘・比売多多良伊須気余理比売で す。 この乙女は、血筋も良かったようですが、容貌も相当美しかっ たようです。 なぜなら、この姫を推薦した大久米命が、天皇に大和の高佐士野で遊ぶ七人の乙女(この中に伊須気余理比売も 混じらせておいて)を見せて、「あなたなら、どの姫を選びます?」 と試しているのです。 でも、天皇は一目でどれが自分が娶ろうとしている姫か見ぬき ます。
そこで生まれたのが、日子八井命・神八井耳命・神沼河耳命で す。 彼は、自分の腹違いの弟たちを殺そうとたくらみます。しかし、そのことを母の勘で気付いた伊須気余理比売は、御子達にそれを知らせます。 自分達を殺害する計画を庶兄・多芸志美美命が立てていることを知った、神沼河耳命は、神八井耳命に、「あなたが武器を持 って多芸志美美命を殺しなさい」と告げ、神八井耳命は、敵に相対するんですが、手足が震えて撃てないんですね。そこで、神沼河耳命が、「俺がやるよ」と、あっさりやっちゃうわけです。 神八井耳命は、神沼河耳命に、「私は仇を前にして何もできませんが、あなたはあますことなく 殺されました。私はあなたの補佐になりますから、あなたが天皇の座におつきあそばせ」と、身を引く。
この時代は末子相続だったから、ということも考えられます。