檀石槐、後漢、

檀石槐(呉音:だんじゃくえ、漢音:たんせきかい、拼音:Tánshíhuái、生没年不詳)は、後漢末期の鮮卑族の大人(部族長)。投鹿侯の子。和連の父。魁頭,扶羅韓,歩度根,騫曼らの祖父、泄帰泥の曾祖父。

倭人とは何か
中国、春秋時代の後半、長江河口部には「呉」という国が栄え、南方の「越」や西方の「楚」、北方の「斉」と激しく対立していました。  淮南子原道訓では、干(カン)は呉の別表現とされ、呉越は干越と表記されています。また、春秋左氏伝、哀公九年にも、呉王夫差が邗に城を築き、長江と淮水を結ぶ邗溝という大運河を掘ったことが記され、「今、広陵の韓江がこれである。」と注されています。どうも長江河口部北方、呉の領域に干という地名が存在したようです。

三国史記、高句麗本紀には、高句麗王の弟が、倭山で二度狩猟した旨の記述があり(132、146)、倭山という地名が高句麗内に存在したことを教えてくれます。

山海経、海内北経は「葢国は鉅燕の南、倭の北に在り。倭は燕に属す。」と記しています。葢国とは、朝鮮半島東北部の葢馬大山付近に存在した国を指すようで、これは濊(カイ)と考えられますが、倭という民族は、北は高句麗領域から、南は日本列島に至るまで大きく広がっていたのです。そして、そのうちの楽浪海中の倭人が、時折、楽浪郡か燕を訪れて挨拶していたことになります(漢書地理志、燕地)。

魏志鮮卑伝
「鮮卑王、檀石槐が烏侯秦水までやって来たが、川に魚が見えるのに捕えることができない。汗人が魚を捕えるのに巧みであると聞き、東方に軍を出して汗国を討ち、千余家を捕えて烏侯秦水のほとりに移住させ、魚を捕えて食料不足をしのいだ。今に至るまで、烏侯秦水の付近には汗人数百戸が住んでいる。」という裴松之の注が見られます。烏侯秦水が何れの川を指すのかはっきりしませんが、鮮卑は中国に北接する国で、東は遼東に至り、夫余、貊(高句麗か?)に接すとあります。檀石槐が軍を東に出して汗人をさらったというこの記述に従えば、朝鮮半島北部に汗人が展開していたことになります。魚を取るのに巧みだというのが略取の理由なので、この汗人を干人(呉人)と扱っても不都合はありません。時代は後漢の霊帝、つまり、倭国大乱の頃で、後漢書では、この汗人が倭人に置き換えられているという。

出典
『後漢書』卷九十 烏桓鮮卑列傳第八十
「光和元年冬 又寇酒泉 縁邊莫不被毒 種衆日多 田畜射獵不足給食 檀石槐乃自徇行 見烏侯秦水廣從數百里 水停不流 其中有魚 不能得之 聞倭人善網捕 於是東擊倭人國 得千餘家 徙置秦水上 令捕魚以助糧食」


『三国志』「魏書」「烏桓鮮卑東夷伝」の鮮卑にある檀石槐
「後檀石槐乃案行烏侯秦水 廣袤數百里 停不流 中有魚而不能得 聞汙人善捕魚 於是檀石槐東撃汗國 得千餘家 徙置烏侯秦水上 使捕魚以助糧 至于今 烏侯秦水上有汙人數百戸」

とあり裴松之の注釈で汙人が倭人とされているようです。


桓帝(在位:146年 – 167年)の時代

父の投鹿侯が南匈奴に三年間従軍している間に、彼の妻は男子を産んだ。従軍から帰ってきた投鹿侯は自分が留守の間に妻が別の男と交わって産んだ子ではないかと疑い、その子を殺そうとした。そこで妻が「ある時の日中、外を歩いていると雷鳴が聞こえ、天を見上げると、雹が私の口に入ったので、飲み込んだところ、身重になり、10か月で子供が産まれました。この子はきっと非凡な力をもつにちがいありません」と助命をしたが、彼はそれを信じず、妻と離別した。妻はその男子を実家の部族で養育することにした。

青年時代
この男子は“檀石槐”と名付けられ、その勇敢さと統率力を発揮したという。

檀石槐が14~15歳くらいになった頃、別部族の大人である卜賁邑(ぼくほんゆう)が檀石槐の生母の部族を夜襲し、その牛や羊を略奪した。母の部族が襲撃されたと聞いた檀石槐は激怒し、単騎で卜賁邑を追撃し、母の部族の牛や羊を取り返した。それ以来、檀石槐の名は諸部族に轟いたという。

檀石槐の出す命令や禁令、裁きが公平だったため、やがて彼は大人(たいじん:部族長)に推戴され、大人庭(てい:本拠)を高柳の北300余里の弾汗山,歠仇(啜仇)水のほとりに建て、東西の部族大人たちが彼のもとに帰順してきた。その兵馬は強盛で、南は漢の国境地帯で略奪をはたらき、北は丁零の南下を阻み、東は夫余を撃退し、西は烏孫に攻撃をかけた。その領域はかつての匈奴の版図に匹敵し、東西14000余里、南北7000余里にわたって山,川水沢,鹽池などを手中に収めた。

永寿2年(156年)秋、檀石槐は3~4千騎を率いて雲中を寇掠した。

延熹元年(158年)、鮮卑は漢の北辺を寇掠した。冬、使匈奴中郎将の張奐は南匈奴の伊陵尸逐就単于を率いて塞を出てこれを撃ち、200級を斬首した。

延熹2年(159年)、ふたたび鴈門に侵入し、数百人を殺し、大抄掠して去った。

延熹6年(163年)夏、千余騎で遼東属国を寇掠した。

延熹9年(166年)夏、鮮卑は、南匈奴,烏桓と連合し、数万騎を分けて縁辺九郡に侵入させ、吏人を殺掠した。これに対し、朝廷はふたたび張奐を派遣してこれを撃ち、鮮卑は塞を出て去った。朝廷はこれらを制止できないことを患い、遣使に印綬を持たせ、檀石槐を王に封じ、鮮卑と和親をはかろうとした。しかし檀石槐はこれを拒否し、侵入略奪はますます激しくなった。

檀石槐は自らの領有する土地を東・中・西の三部に分けた。右北平から東方は遼東の夫余や濊貊(わいはく)と接するあたりまでの20余邑を東部、右北平から西の上谷に至るまでの10余邑を中部、上谷から西方の敦煌,烏孫に至るまでの20余邑を西部とし、各大人を置いて統領させた。

霊帝(在位:167年 – 189年)の時代になると、鮮卑は幽州,幷州,涼州の3州で盛んに略奪をおこない、国境地帯の諸郡は、鮮卑からひどい損害を受けない年はなかった。

熹平3年(174年)冬、鮮卑は北地郡に侵入し、太守の夏育は休著屠各を率いてこれを撃破した。この功により夏育は護烏桓校尉となる。

熹平5年(176年)、鮮卑は幽州を寇掠した。

熹平6年(177年)夏、鮮卑は三辺を寇掠した。そこで朝廷は護烏丸校尉の夏育、破鮮卑中郎将の田晏、使匈奴中郎将の臧旻を派遣し、南匈奴の屠特若尸逐就単于の軍とともに雁門塞から長城の外に出ると、三つに分かれて進み、2千余里を突っ切って遠征を行った。檀石槐は配下の部族を指揮して、これを迎え撃った。臧旻らは敗走して、無事に帰還できた兵馬は10分の1にすぎなかった。その冬、鮮卑は遼西を寇掠した。

光和元年(178年)冬、鮮卑は酒泉を寇掠した。このころ、鮮卑の人口が急激に増え、農耕・牧畜・狩猟だけでは、食糧を十分に供給することができなくなったので、檀石槐は烏侯秦水にまでやって来て川魚を獲って食料にしようとしたが、まったく獲れなかった。そこで、汙人(倭人)たちが魚獲りに巧みだと聞いたので、汙国を撃って烏侯秦水のほとりに移住させて魚獲りに従事させ、食料難を解決したという。

光和年間(178年 – 184年)、檀石槐が45歳で死ぬと、息子の和連が代わって立った。檀石槐の死後、それまで選挙制だった鮮卑が世襲制となる