椿井大塚山、神獣鏡、

椿井大塚山古墳

30数面の三角縁神獣鏡のほかに、後漢鏡や画文帯神獣鏡など4面の中国鏡 が出土し、素環頭大刀や甲冑など鉄製品も出土している。

後漢鏡と画文帯神獣鏡
後漢時代前期に作られた内行花文鏡の2面と方格規矩四神鏡とは、弥生時代のうちにもたらされ、宝器として長く伝世したものである。これに対し て画文帯神獣鏡は3世紀始めに中国の華南地方で作られ、三角縁神獣鏡の直前に輸入されたものである。椿井大塚山古墳の鏡は対置式神獣鏡に分類さ れるが、画文帯神獣鏡にはこのほかに環状乳神獣鏡、同向式神獣鏡などがあり、いずれも三角縁神獣鏡に先行する年代が与えられる。これらの鏡は、 楽浪・帯方郡の所在した朝鮮半島の西北部にも出土し、画文帯神獣鏡の輸入にあたってその地を支配した公孫氏が関与した可能性がある

前期古墳から出土した50面近い画文帯神獣鏡をみると、瀬戸内東部から畿内に分布が集中しているのがわかる。これに先行する後漢鏡が九州以東に均等に分布している状況とは対照的で あり、畿内に中枢を置いた配布か?。

諸説あるよう

三角縁神獣鏡の配布について小林行雄は、椿井大塚山古墳を中心とした同笵鏡の分有関係から、その保管と配布において椿井大塚山古墳の首長が直 接的な役割をはたしたと考えた(小林1961)。木津川から淀川に通じる水路を利用して大和から瀬戸内にでる交通の要衝にこの古墳が位置していること も、そこで重視されている。32面以上という突出した出土量から、椿井大塚山古墳が同笵鏡分有関係の中心に位置するのは当然であるが、しかしその 後に同笵鏡の資料が倍増したことによって、新しい波文帯三神三獣鏡は別にしても、椿井大塚山古墳と分有関係をもたない古墳は少なくなく、椿井大 塚山古墳の首長が配布に直接かかわったことを証明することは難しい。

邪馬台国と魏との間には、景初3年以後も正始4年(243)、正始6年、正始8年と頻繁な交渉が続き、20年近くの空白をおいて泰始2年(266)、卑弥 呼をついで邪馬台国の女王となった台与が西晋に遣使したことを史書は記している。

景初3年の卑弥呼への下賜品には、銅鏡百枚のほかに五尺刀2口が含まれている。五尺刀は当 時の尺度で1mあまりの大刀であったと推測される

鉄器生産の発展

椿井大塚山古墳の出土品をみると、中国からの輸入品は別にして、銅鏃、鉄鏃、刀剣などの武器には弥生時代の型式と比べて著しい発達がみられる。
刀剣20点以上、鉄鏃200本以上のほか、農工具・漁具のセットが大量に納められたことは、鉄器の生産 力が飛躍的に上昇したことを物語っている。
九州、 瀬戸内を経由しての鉄資源の安定的な供給が政権によって保証されたことがうかがわれよう。
墳丘の企画と規模 椿井大塚山古墳の墳丘は、自然丘陵を削りだして墳 丘を築造するに際し、奈良県の三輪山麓にある箸墓古墳と相似形になり、その3分の2規模になるよう企画されていた可能性を指摘されている。

箸墓古墳の 相似墳にはほかに
京都府五塚原古墳、同元稲荷古墳、
岡山県湯迫車塚古墳、同浦間茶臼山古墳
などがあげられ、それぞれ箸墓古墳の3分の1、3分の 1、6分の1、2分の1の規模になるという(和田1981、北條1986)。

基準となる箸墓古墳をはじめ、発掘によって墳丘が確認されている古墳が少なく、 不確定な要素があるけれども、前方後円墳の出現当初からすでに一定の築造企画が存在し、その一群の古墳は埴輪や土器、長大な竪穴式石室、副葬品 など部分的に判明している要素から椿井大塚山古墳と同時期の古墳時代初頭に位置づけられることは認めたい。

墳丘規模は、奈良県の箸墓古墳や西殿塚古墳といった三輪山麓に位置する古墳の突出が目をひく。

同範鏡をもつ古墳

三角縁神獣鏡の出土は、32面以上の椿井大塚山古墳を筆頭に、岡山県湯迫車塚古墳11面、福岡県石塚山古墳7面以上、大分県赤塚古墳5面、兵庫県吉島古墳4面、山口県竹島古墳2面、福岡県那珂八幡古墳1面の順になり、すべて椿井大塚山古墳と同笵鏡を分有している点も見 逃せない。

出典:京都大学考古学研究室編 『椿井大塚山古墳と三角縁神獣鏡』 『京都大学文学部博物館図録』 京都大学文学部 1989

備前車塚古墳からでてきた三角縁神獣鏡のうち、四枚は、京都府の椿井大塚山古墳から出土した鏡と、同笵(型)関係にある。そして、椿井大塚山古墳が、崇神天皇のときに反乱をおこした武埴安彦と無関係でないであろうことは、まえに論じた。『古事記』『日本書紀』その他の文献の伝えるところによれば、吉備の武彦も、武埴安彦も、ともに、第七代孝霊天皇の孫にあたり、ほぼ同時代の人である。
備前車塚古墳は岡山県の湯迫(ゆば)にある。これは吉備津彦神社などに近い。 吉備武彦の陵墓説があるようです。

その根拠は

まず、備前車塚古墳から出土した三角縁神獣鏡の同型鏡が、静岡県小笠郡小笠町の上平川(かみひらかわ)大塚古墳から出土している。
日本武の尊は、『日本書紀』によれば、吉備の武彦とともに、駿河の国に至っている。上平川大塚古墳の、すぐそばの地を通ったはずである。上平川大塚古墳のある小笠町は、むかしは、遠江の国の城飼(きこう)郡に属していた。
また、『新撰姓氏録』の「廬原(いほりはら)の公」の条に、つぎのような記事がある。
「吉備の建彦の命は、景行天皇の御世に、東方につかわされて、毛人(えみし)また荒ぶる神たちを平定し、阿倍の廬原の国にいたり、復命をしたとき、廬原の国を与えられた。」
そして、『先代旧事本紀』によれば、日本武の尊の弟の成務天皇の時代に、吉備の武彦の子の思加部彦(しかへひこ)の命を、廬原の国造に任じたという。
廬原の国は、駿河の国の廬原郡の地である。

三角縁神獣鏡の同笵鏡はまた、神奈川県平塚市大野町真土(しんど)の大塚山古墳からも出土している。『古事記』によれば、日本武の尊は、相模(さがみ)の国(現在の神奈川県の大部分)で、その地の国造(くにのみやつこ)を攻め滅ぼしたという。また、『古事記』『日本書紀』によれば、相模の国から東京湾口の浦賀水道をわたって、上総(かみつふさ)(千葉県の房総半島)に船でわたろうとしたという。
駿河(するが)(静岡県)から、浦賀水道へ出ようとするばあい、大塚山古墳のある平塚市のあたりは、とうぜん経路となる。

三角縁神獣鏡の同型鏡は、山梨県東八代郡中道(なかみち)町の甲斐銚子塚古墳からも出土している。日本武の尊は、甲斐では、酒折(さかおり)の宮にいたという。酒折の宮は、甲府市の洒折の地といわれ、甲斐銚子塚古墳の地にかなり近い。

三角縁神獣鏡の同型鏡は、また、群馬県富岡市の北山茶臼山古墳や、同じく富岡市の三本木古墳からも出土している。
『日本書紀』によれば、日本武の尊は、碓日(うすひ)の坂にのぼっている。
吉備の武彦は、碓日の坂で日本武の尊とわかれて越(こし)の国におもむき、美濃の国で、日本武の尊と再会し、そのあと、日本武の尊の病気を、景行天皇に奏上したという。碓日の坂は、現在の群馬県碓氷郡や安中市の地で、富岡市のすぐとなりの地である。
以上のように、備前車塚古墳から出土した三角縁神獣鏡と同笵の鏡が出土する中部・関東の五つの古墳は、いずれも、日本武の尊にしたがった吉備の武彦が歩いたとみられる経路の近くに存在している。
そして、それらの古墳の地を領していたとみられる国造などはいずれも、日本武の尊のほぼすぐあとの時代に、任命されたことになっている。

備前車塚古墳の被葬者を、吉備の武彦とすれば系譜上の年代からいって、ほぼ同時期の被葬者をもつとみられる備前車塚古墳と椿井大塚山古墳とから、三角縁神獣鏡の同型鏡が出土することになる。
また、備前車塚古墳から出土する三角縁神獣鏡の同型鏡が、吉備の武彦が足跡をのこした関東の地から見いだされる理由が納得できる。