国分神社がある丘陵上には、10基ほどの小さな円墳や方墳があったが、その中で一番高所に築かれていたのが前方後円墳の松岳山古墳。
古墳は前方部を南西にむけて築かれていて、全長は130m、後円部は直径72m、高さ16m、前方部は幅32m、高さ6.5mとのことだ。
墳丘は後円部が3段、前方部が2段で築成され、墳丘の裾の部分に扁平な板石を葺いた15~20度の傾斜を持つ外周施設の帯が巡らされている。この外周施設帯までを墳丘と見なした場合、全長155m、後円部4段、前方部3段築成となる。
石棺の蓋石と底石は花崗岩を使っているが、側石は凝灰岩で香川県の鷲の山石を使っているという。明治10年(1877)に発掘され鏡や玉類が出土したと伝えられているが、詳細は明らかでない。昭和32年(1957)年に行われた発掘調査では、刀、剣、斧、鋤、鎌、碧玉製品などの副葬品が出土した。これらの出土品から4世紀後半ごろに造られたと考えられている。
国宝の船王後墓誌
墓誌には次のように書かれていた。「船氏の故王後首(おうごのおびと)は、船氏の中祖、王智仁首の子、那沛故首の子である。他田宮(おさだのみや)に治天下天皇(敏達天皇)の世に生れ、豊浦宮に治天下天皇(推古天皇)の朝に仕え奉り、飛鳥宮に治天下天皇(舒明天皇)の朝に至る。……大仁の官位を賜い、第三品と為す。舒明天皇の末年(641)に逝去した。戊辰年(668)十二月、その夫人の安理故能刀自(ありこのとじ)と同墓にして松岡山の上に改葬し、大兄の刀羅古首の墓に並べて作った。即ち、安保万代の霊基、牢固永劫の宝地と為すものである。」
船氏は朝鮮半島からの渡来氏族で、その祖先は王辰爾(おうしんに)とされている。
敏達天皇元年(572)五月のことである。高句麗からの使節が烏の羽根に書かれた国書を朝廷に提出した。しかし書記を務める渡来系の官人は誰一人解読することが出来なかった。そんな中にあって、王辰爾は羽根を炊飯の湯気で蒸した後、柔らかい上等な絹布に羽根を押しつけて文字を写し取り、これを読み解いた。そのため、天皇の激賞を受けたという。
一方、『日本書紀』は欽明14年(553)10月の条に、蘇我稲目(そがのいなめ)の命によって、王辰爾が淀川を往来する船舶から通行税を徴収し、それを記録することに功績があったので、船史(ふねのふひと)の姓を与えられたと記している。「烏羽の表」の故事とは20年近い差があるが、いずれにせよ王辰爾は蘇我氏に重用され、その一族・子孫らは、船(ふね)、津(つ)、葛井(ふじい)、白猪(しらい)、菅野などの姓を得て発展していく。
船氏は羽曳野市に西部を本拠地を置いたとされ、野中寺は船氏の氏寺ではないかといわれている。船王後は王辰爾の孫とされ、7世紀前半の推古朝から舒明朝にかけて飛鳥の王権に仕え、聖徳太子が制定した冠位十二階の第三等にあたる大仁位に叙せられた官人である。
船王後は舒明天皇13年(641)に没した。天智天皇7年(668)に夫人の安里故能刀自とともに河内国の松岳山に改葬されたと伝えられている。この改葬の伝承が事実ならば、松岳山古墳ではなく、松岳山の中のある墓に夫婦で合葬されたことになり、その墓から墓誌が出土したと考えられる。
当社は明治5年に村社に列し、明治40年には字水谷の無格社・杜本神社を合祀して、現在に至っている。松岳山古墳の西の字向井山(むかいやま)にあるpから寛永6年(1629)に出土したと伝承されている三角縁盤竜鏡1面と三角縁神獣教2面を宝物として所蔵しているという。いずれも国の重要文化財に指定されている。