『日本書紀』神功皇后摂政46年(書紀の紀年では西暦246年に対応)、百済王の使者が卓淳国(現在の韓国慶尚北道大邱市近辺か)に至り、「日本貴国」への道を尋ねた、との記事がある。
神功紀に採られた「百済記」の記事
<(366年)春三月…、斯摩宿禰(しまのすくね)を卓淳トクジュン国(いま慶尚北道大邱テグに比定)へ遣わす。(本注:志摩宿禰はいずれの姓の人ということを知らず)。ここに卓淳の王末錦マキム旱岐カンキ、志摩宿禰に告げて曰く、「甲子の年(364年)の七月に、百済人久氐クテイ・彌州流ミツル・莫古マクコの三人、わが国に到りて曰く、『百済の王、東の方に日本の貴国あることを聞きて、臣らを遣わして、その貴国に朝(もう)でしむ。故道路を求めて、この国に至りぬ。もしよく臣らに教えて道路を通わしめば、わが王必ず深く君王を徳(おむかしみ)せむ』という。時に久氐らに語りて曰く、『もとより東に貴国あることを聞けり。然れども未だ通うことあらざれば、その道を知らず。ただ海遠く波険し。すなわち大船に乗りて、わずかに通うこと得べし。もし路津(わたり、海路上の港)ありといえども、(大船なくば)何を以ってか達(いた)ること得む』という。ここに久氐らが曰く、『然らばすなわち、ただいまは通うこと得まじ。しかじ、さらに還りて船舶を備(よそ)いて、後に通わむにや』という。またしきりていいしく、『もし貴国の使人来ることあらば、必ずわが国に告げたまえ』といいき。かくいいて、すなわち還りぬ」という。ここに斯摩宿禰、すなわち従人爾波移(にはや)と卓淳人過古ワコと二人を以って、百済国へ遣わして、その王を慰労(ねぎら)へしむ。時に百済の肖古ショウコ王(在位346−375年、東晋には余句と名乗る)、深く歓喜(よろこ)びて、厚く遇(あ)いたまう。よりて五色の綵絹(彩った絹)各一匹、および角弓葥(角の弓矢)、併せて鉄鋌(鉄材)四十枚を以って爾波移に与う。…「わが国に多くこの珍宝あり。貴国に奉らんと欲するとも、道路を知らず。志ありて叶うことなし。然れども…」ともうす。ここに爾波移、事を奉(う)けて還りて、斯摩宿禰に告ぐ。すなわち卓淳より還れり。>(神功紀四十六年条)。
神功紀の「日本貴国」については、単に日本に対する美称とみなすのが通説である。神功紀には『百済記』という書物からの引用として、しばしば「貴国」という国と、百済・新羅・任那諸国などとの国交のことが語られている。
古田武彦氏は史書の国交記事において、第三者たる国のことが「貴国」と呼ばれるはずはない、として、「貴国」はあくまで固有名詞であるとみなし、「貴国」の名称を現在の福岡県・佐賀県の境にある基山、基肄城(古代城址)などと関連づけた。また、内倉武久氏は古代外交において紀氏が果たした役割を重視し、「貴国」を現在の和歌山県の紀州(紀国)と結び付けている。
しかし、「貴国」を固有名詞と解釈するのは、古田氏らが主張するほど確実なものではない。たとえば、坂本太郎は『百済記』は百済滅亡後、日本に亡命した百済人が日本の朝廷に提出するために編纂したものとみなしている。最初から提出先が決まっている文献なら、その提出先の国を「貴国」と呼ぶことは不自然ではない。
- 四十九年の春三月,荒田別と鹿我別を将軍に任じ,百済人の久氏等を交えて,軍備を整え海を渡り卓淳まで行き,新羅を攻撃する寸前になつて,或る人が「兵数が少なくては新羅を破る事は出来ない,沙白と蓋盧を百済の都に登らせ応援を乞えば」と云った。すると百済王は直ちに木羅斤資と沙沙奴跨に命じて精兵を率いて卓淳に集結をさせ,強力な新羅軍を撃破した。
- これによって,比自保,・南加羅・ 国・安羅・多羅・卓淳・加羅・の七国を平定した。その後,西に転戦して古渓津と,南の忱彌多礼(済州島)も屠り百済に割譲した。その他,比利・癖中・布彌支・半古,の四村が戦わずに降伏した。これにより百済王とその息子,荒田別,木羅斤資,等が,意流村で会見をして喜び合った。 帰途,百済王と千熊長彦は辟支山に登り盟約をした,肖古王は古沙山の大岩に坐り,「我国は,常に自国を西蕃と卑称して貴国に必ず春秋には朝貢をします」と誓い,千熊長彦を都に伴い礼遇をして日本に送った。
- その後,多沙城を往還の駅として給したりして友好は続き,朝貢も続いた。52年の秋九月,一日が丁卯の月の丙子の日(10日)久氏等が千熊長彦に従って参朝し,七枝の刀一口,七子の鏡一面,その他,種〃の宝物を献じて報告した。「私共の国の西に川があります。源は谷那の鉄山から出ています。その遠い事は七日間かかっても到着しない程ですが,この山鉄を取って永遠に奉ります」と言い,孫の枕流王には「この国が海の西の国を割譲してくれたので我国は成り立っているのだから大切にする様に~」と言って神武天皇55年に崩御された。
扶桑国
「扶桑」とは『山海経』や『淮南子』などの古代中国神話に現れる、東方の日出ずる処に生えているという神木(「扶木」ともいう)、もしくはその神木が生えている場所のことです。
山海経よると、東方の海中に黒歯国があり、その北に扶桑という木が立っており、そこから太陽が昇るという。
黒歯国の位置については『山海経』には「青丘国」の北というのみだが、『梁書』に
其南有侏儒國 人長三四尺 又南黑齒國 裸國 去倭四千餘里 船行可一年至
(南に身長3~4尺(70~90cm、1尺≒23cm)の民の国があって、その南に黒歯国がある。倭から4000余里。船で1年で着く)— 『梁書』卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳東夷条 倭
日本から南に4000余里(1700km余)ということになる。が、魏志倭人伝をみると
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種 又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里 又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至
(女王・卑弥呼国から4000余里に侏儒国がある。また裸国と黒歯国があり、東南に船で一年で着く)— 『三国志』魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)
南朝・梁の普通年間(520~527)、その「扶桑」を国号とする国からやってきたと称する僧侶の名を慧深といいます。慧深は南朝・斉(南斉)の永元元年(499)には、荊州(湖北省襄樊市一帯)にいて、扶桑国のことを語っていたと正史『梁書』東夷伝にあり、また正史『南斉書』の東南夷伝にも「扶桑」に言及する箇所があります。
慧深の証言によると、扶桑国には南朝・宋の大明2年(458)に罽賓国(カシミール)の僧5人が渡来してきて仏教を伝えたということです。また、扶桑国の所在は中国の東、大漢国の東方2万余里のところにあるということです。
『梁書』東夷伝によると、倭国の東北7千余里に文身国という人みな入れ墨をした国があり、さらにその文身国の東5千余里に大漢国があるとされ、それらの説明の後に慧深の証言が続きます。そこで、慧深の証言の「大漢国」と、文身国の東にあるという「大漢国」を同じとみなせば、扶桑国は倭国から3万里以上もの彼方にあるということになるのです。この倭国をどこに求めるか、また一里をどのくらいの長さとみなすか、そしてそもそも2箇所に出てくる「大漢国」を同一とみなすかどうかで、扶桑国の位置は変わってくるのです。
扶桑国=日本貴国説を成り立たしめるには、まず、その前提として、「貴国」が特定地域の固有名詞であることを証明しなければならないのである。
中国の神話学者・何新氏は1986年初版の著書で、『山海経』の黒歯国を山東半島に求め、扶桑とは日の出の際に東海に立ち上る雲を巨木に見立てたもの、『南史』にいう扶桑国は朝鮮半島の高麗の別称であると説いた。しかし、1989年、何氏は先の見解を訂正する内容の論文(「扶桑神話と日本民族」)を発表し、黒歯国は日本の本州東南、扶桑とは富士山のことだと説くに至った。