景行天皇と日向
(日高正晴 著 西都原古代文化を探る 東アジアの視点から みやざき文庫22 鉱脈社 2003年より) 「書紀」の景行天皇13年の条
「悉に襲国を平けつ。因りて高屋宮に居しますこと、すでに六年なり。是に、其の国に佳人有り。御刀媛(みはかしひめ)と曰ふ。則ち召して妃としたまふ。豊国別皇子を生めり。是、日向国造の始祖なり。」
・ 景行天皇(オシロワケ)の時代は、ほぼ4世紀後半代のころに想定できる。豊国別王が児湯郡に出現した時代は4世紀末頃と推測できる。
・ 『日向国風土記』逸文、韓槵生村の項: 「昔、カサムワケといいける人、韓国に渡りて、この栗をとりて帰りて、植えたり。この故に槵生の村とは云うなり」とある。もしこの人物が実在の人物であれば、「ワケ」の称号を有していることから、豊国別王の時期と同じころとなる。もしかしたら、この「カサムワケ」という人物は、豊国別王の在来的な元の名称かも知れない。
●景行天皇 熊襲征討路
(日高正晴 著 西都原古代文化を探る 東アジアの視点から みやざき文庫22 鉱脈社 2003年より)
天皇が日向入りした時、海路によらず、直入県から真直ぐ日向の児湯県地域と推定される高屋宮に到着している。古来、この高千穂-諸塚-東米良-西都の「日向山地古道」は、中世・近世においても、肥後、豊後に通じる山地における唯一の交通路であった。「景行天皇紀」十八年の巡幸の時も、八女、阿蘇から日向の高千穂、米良山地を通過し、児湯県地域に来られている。
応神王朝の系譜
(日高正晴 著 西都原古代文化を探る 東アジアの視点から みやざき文庫22 鉱脈社 2003年より)
井上光貞氏は前掲の『日本国家の起源』の中で、ソツ彦について、次のように解訳をしています。「襲津彦とは、襲の男の意味ではなかろうか。襲とは、熊襲の襲の意味に考えられるから、文字通り解すれば、葛城のソツ彦は、熊襲(襲)の出身者で葛城に土着したものか、大和の葛城の出身で熊襲の征定にも武勲を輝かしたものかであろう」。
この葛城ソツ彦は地方豪族という見解に対して、上田正昭氏は『大和朝廷』(一九六七年)の中で、また、井上辰雄氏は『隼人と大和政権』(一九七四年)において、それぞれ、ソツ彦を大和の葛城出身者とみなしています。はたしてそうでしょうか。
「ソツ彦」とは「ソの首長」という意味であり、日向中央山地を中心にして勢力圏を形成したと推測される「ソのクニ」と、極めて密接な関係にある人物と推定されます。
髪長媛
(日高正晴 著 西都原古代文化を探る 東アジアの視点から みやざき文庫22 鉱脈社 2003年より)
「日向の諸縣君牛、朝庭に仕へて、年既に老いて仕ふること能はず。依りて致仕りて本土に退る。則ち己が女髪長媛を貢上る。始めて播磨に至る。時に天皇淡路嶋に幸して、遊猟したまふ。是に、天皇、西を望すに、数十の麋鹿、海に浮きて来れり。便ち播磨の鹿子水門に入りぬ。天皇、左右に謂りて日はく、『其、何なる麋鹿ぞ。巨海に浮びて多に来る』とのたまふ。ここに左右共に視て奇びて、則ち使を遺して察しむ。使者至りて見るに、皆人なり。唯角著ける鹿の皮を以て、衣服とせらくのみ。問ひて曰はく、『誰人ぞ』といふ。応えて曰さく、『諸縣君牛、是年老いて、致仕ると雖も、朝を忘るること得ず。故に、己が女髪長媛を以て貢上る』とまうす。天皇、悦びて、即ち喚して御船に従へまつらしむ。是を以て、時人、其の岸に著きし処をなづけて、鹿子水門と日ふ。凡そ水手を鹿子と日ふこと、蓋し始めて是の時に起れりといふ」
この 「応神紀」 にみられる髪長媛入内の播磨灘説話は、その冒頭に「一に云はく」と記されているように、全く別な氏族伝承によったものと考えられますが、その記事の中にみえる人名が、先に述べた「記・紀」 の所伝の人名と同一名称であることは極めて興味深いものがあります。この播磨灘伝承は多くのことをわれわれに伝えてくれます。
まず、この播磨灘伝承の記事を見て、想定されることば、播磨地方の古代文化に関わりの深い加古川河口に、日向諸県君、牛族の根拠地としての 「船泊」が存在していたのではないかということ、すなわち、この一帯は、海洋性の強い日向の海人族集団の 「船泊」になっていたものと思われるということです。
内陸的な大和王権勢力が朝鮮半島方面に進出してゆくには、どうしても、この日向海人族集団の協力が、必要であったのだろうと思われます。
日向系皇統と日下部氏の登場
(日高正晴 著 西都原古代文化を探る 東アジアの視点から みやざき文庫22 鉱脈社 2003年より)
遥か西辺の地、日向国から仁徳天皇の后妃として入内(じゅだい)した髪長媛(かみながひめ)は、『古事記』 の所伝では、波多毘能大郎子(はたぴのおおいらつこ)またの名を大日下王(おおくさかのみこと)、波多昆能若郎女(はたぴのわかいらつめ)またの名を若日下部命(わかくさかへのみこと)の二人を生んだと記され、また、『日本書紀』においても、大草香皇子(おおくさかのみこ)と幡梭皇女(はたぴのひめみこ)を生んだとあります。そしてこの大日下王および若日下部命の名代部(なしろへ)として「日下部氏:くさかへ」が登場してきます。この部族は西日本全般に、古文献の上で散見されますが、髪長媛の出自国である日向は、その源流の地であったのかもしれないと思われます。なお、この日下部氏は日向にたいへん関係が深い氏族です。
また、大日下王(「紀」では、大草香皇子)と嫡妻・長田大郎女(ながたのおおいらつめ)(「紀」には、中帯姫(なかしのひめ))との間に目弱王(まよわのみこ))(「紀」では、眉輪王)が生まれました。
『日本書紀』によると、応神天皇は、筑紫の蚊田に生まれたとあります。この記載からも天皇が九州にゆかりの深い天皇であることがうかがわれます。さらに天皇は、日向泉長媛(ひむかのいずみのながひめ)を皇妃とし、大葉枝皇子(おおばえのみこ)、小葉枝皇子(おばえのみこ)が生まれています。『古事記』にも、日向の泉長比責を召して生みませる御子大羽江王、次に小羽江王と記され、「記・紀」ともに同一の記事がみえるのです。后妃の髪長媛にしても最初に召されたのは応神天皇であったことも、日向地方と深い縁が結ばれていたことが察知できます。特に、われわれが興味深く思うのは、応神天皇陵の前にある陪塚の丸山古墳から出土した国宝の「金銅透彫鞍金具」と、西都原古墳群の一角、百塚原から発見された同じく国宝の金銅製馬具類の中の金銅鞍金具が、ともに極めて類似していることです。この両金銅馬具類は、日本の古墳出土品の双璧と謂われていますが、五世紀代の出土遺物と推定されており、それは朝鮮半島からの伝来品であるともいわれていることは、大陸-日向-大和の線上でも注目されるところです。
都萬神社縁起 (日高正晴 著 西都原古代文化を探る 東アジアの視点から みやざき文庫22 鉱脈社 2003年より)
「…・‥土を掘り男一人、女一人出たり、即ち各々衣服無き故に、萱を苅り壁を拵えて居住す。仇って、日下部立次と号し、(妻寓)大明神君に仕え奉ること二百四十年云々」、この記録にみえるように、日下部氏の祖先は、土中から男女一人ずつ生まれ出たのが始まりで、その初代が日下部立次と称しました。この系図に記されている日下部氏の出生伝承は、日本の古代氏族伝承の中でも極めて特異なものです。この土中出生伝承は、妻萬大明神により土中から掘り出された男女が日下部氏の始祖となるわけで、その氏族の神観念、神出現の信仰形態としては、岡正雄氏の説かれている「水平的神観念」 の宗教儀礼に該当すると考えられます。すなわち、天に昇降する神の信仰ではなく、水平的に横の方へ往来する神観念として、海の彼方から神が寄って釆て、海の方へかえる、また、川面に送るお盆の精霊流しなどのような民俗儀礼にもみられるものと同様の神観念です。なお、この神観念は、日本神話の中の「根の国」信仰にも通じるものであり、地下に神の世界が存在するという信仰でもあります。古く都萬神社の領有地であった妻の地域(旧市街地) には、なるべく井戸は掘らないようにして、限られた井戸から周辺の人々は水を汲んでいたようです。これは妻神に古くから奉祀してきた日下部氏が土中から生まれ出たという土中信仰と関連があるのかもしれません。都萬神社の社家に伝わった伝承として、地中は神出現の本源地とみなされていたのでしょう。
「……また吾れ妻萬大明神君は、此の河(妻萬河)より竜宮に通い住む可き給う故に、他方より、上を塞ぐ可からず云々」都萬神社の祭神である妻萬大明神は、都萬川から竜宮に往来していたので、その川の上を塞いではならないと書き記してあります。日下部氏の祖先神とみなされる都萬大明神(妻神)が竜宮に通い住むという伝承が記録にみえることは極めて興味深く、その意味では日向神話にみえる海幸、山幸の説話も、この日下部氏伝承と関連があるのかもしれません。 これまで述べてきたように、都萬神社に奉仕してきた日下部氏伝承は、海の彼方に去来する神を信じ、そのことは地中に神の本源地をもとめる信仰にも通じていましたが、このような神観念をもつ日下部氏は、いうまでもなく、典型的な海人族系の氏族とみなすことができます。しかし、同じ海人族にしても日下部氏は、地下信仰をもつ特異な氏族として、古代日本でも極めてユニークな存在であったということができます。
古代日向伝承の継承者: 以上述べた『日本書紀』の中で、日下部氏と関連深い記事が所載されている年代は、「応神紀」以降の時期です。元来、日下部氏は、仁徳天皇と髪長媛との間に生まれた大日下王(大草香皇子)と若日下部命(幡俊皇女)の御名代として設定されたものです。この御名代として日下部氏と称されるようになった在地系の氏族は、髪長媛が日向を出発するにあたり、おそらく、媛の入内に随伴して行った海人族集団であったと思われます。その一行は、海上交通路によって、畿内地方へ行ったものと推測されます。その髪長媛の近習としての海人族集団の人びとは、その後、日下部氏を称するようになったと考えられます。
日下部系氏族は「書紀」編纂の史局員となりました。かつて藤間生大氏はその論考の中で、『日本書紀』の天武天皇十年の条にみえる「帝紀及び上古の諸事を記し定めしめたまふ」という、いわゆる『日本書紀』編纂の発足に際して、史局員に任ぜられた難波連大形(元草香部吉士大形)が果たした役割について論及されました。さらに、中村恵司氏も、藤間氏の論拠に立って、その論証を広げられました。
「雄略紀」二十二年にみえる浦島子説話が日下部氏の伝承に基づくものであることを論述し、しかもその氏族のもつ海洋性がこの説話を生んだものとされましたが、さらに、「応神紀」十三年の日向諸県君牛諸井の播磨灘説話も日下部氏に関連する伝承であり、ともに『日本書紀』の編纂員であった日下部氏系の難波連大形の努力によって、『日本書紀』の中に盛り込まれたものと思われると説かれています。また藤間生大氏も、前にふれた論考の中で、「安康天皇紀」元年の難波吉師日香蚊父子が日向出自の髪長媛の御子である大草香皇子の最後の時に、父子とも殉死したこと、それに、「顕宗天皇紀」にみえる日下部使主父子の忠勤ぶりなどは、やはり、日下部氏系で、「書紀」の編纂にあたった草壁連大形の収り組みであったとされています。