朝鮮三国では、日本での譲位の場 合と同じく、前王の崩御の時点で、 次王の元年としている。同 じ年で前王の~年と、新王の元年が 重なるのである。
ただし例外として、前王の崩御が大晦日 かその前日という場合は、新王 の即位が翌年になり翌年が元年となっている。この点は中国式 の王暦の数え方と全く異なってい る。
新羅
法興王の時代 から断続的に元号が建てられてい る。しかし、真興王時代に改元があっ たように見えるが、次の真智王時代には見えなくなり、再び真平王の時 に一度だけ見える。そして、次の善 徳王の時代に「仁平」の独自元号を 建て、次の真徳王の時も「太和」の 元号を新たに作っている。これらは つながって使用されていたのか、そ の王の時に単独に近い形で元号が建 てられたのか全く分からない。
ただ、善徳王から真徳王の時は、 善徳王の亡くなった年が真徳王の「太和元年」となっており、他の王暦の 数え方と全く変わらない。その後、 新羅ではこの「太和二年」に唐の冊 封を正式に受け入れ、唐の元号を用 いることになったため、独自年号は 消滅した。
法興王
法興王(生年不詳 – 540年)は、新羅の第23代の王(在位:514年 – 540年) であり、姓は金、諱は原宗。 536年には新羅独自の年号をはじめて定めて建元 と称する
新羅の法興王が新羅年号を建てるが、その後唐から詰問されて、650年からは中国暦をしようするようになる。
経緯
真徳王の2年。648年の記述によると、唐に朝貢させた使者に皇帝の御史(秘書官)が尋ねる)
『新羅は大朝(唐)に臣として仕えているのに、どうして別の年号を称しているのか。』
(これに対して新羅からの使者が答え)
『いまだかつて、天朝(唐)は暦を〔新羅に〕わかち与えたことがありません。そのため先祖の法興王以来、勝手に年号を使っています。もし大朝から命令があるならば、わが国はどうしてあえてこれに反対しましょうか。』
真徳王4年。650年
『この歳、はじめて中国の年号である永徽の年号を用いた
百済
高句麗や百済では金石文に若干の元号が残されている。
高句麗のものでは、広開土王碑文 (391年)に「永楽」、銀装蓋付碗銘 文(5世紀か)に「延寿」、金銅如来像銘文(6世紀か)に「延嘉」がある。 また、百済では6世紀末の釈迦像光背銘に「建興」が見えている。こ れらは、『三国史記』には見えない ため、日本の「法興」と同様、逸年 号の可能性もある。
定居
元年 六一〇 「大内譜録長門記」 『琳聖太子(中略)本朝二渡ラセ玉フ比ハ推古天皇十九年辛本暦号定居元年トカヤ」
「干時推古天皇十九年幸未暦なり百済国の定居元年とかや」
『大内義隆記』…天文二十年(一五五一)。
誠ニ由来ヲ申セバ、百済国ノ王子琳聖太子ト申セシガ、日本周防国多々良ノ浜ヘ定居二年ニ来迎シ大内ニ住居シ玉ヒ、国ノ守護所ノ人ヲ縁トシテ民百姓ヲシタガヘ、武英ヲ以テ国ヲ切取ル事ツヽガナク、次第次第ニ繁昌シテ、義隆卿ニ至マデ廿六代、年ノ数ヲカゾフレバ、九百四十年トゾミエニケル。
高句麗