播磨国の因達の里に祀られたイダテの神を奉じた人々は、伊豆を経て遠く陸奥に移っているが、この伊楯氏は物部氏の一員として久しく宮廷十二門の内の伊楯門(後の上西門)を守護した。この伊楯氏は衛門府に吸収せられて平安期に入ると急に影を消したが、地方に移ったものは伊達氏として栄えた。この事は延喜式神名帳を見るとよくわかる。即ちこの氏が播磨から伊豆を経ている点から見て、この一団が海人部であったと見て誤りはない。延喜式には、「伊豆国加茂郡、伊達神社」「陸奥国色麻郡、伊達神社」がある。
播磨風土記の射立兵主神社
「安師里、土中中、右、安師と称くるは、大和のアナシの神、神部につきて仕へまつらしめき。故、穴師と名づく」。所が、この両神は延喜式神名帳には射立兵主神社二座」とあるから、播磨国風土記に記された後、延喜式成立までの間に一社に合祀せられている。
韓国伊太氏
出雲には杵築大社など五社に、韓国伊太氏神社という社が摂社として祀られている。(出雲国風土記、延喜式)
外征に偉功があった伊太氏の神を「韓国平けし伊太氏の神」略して「韓国の伊太氏神」として、出雲大社などの有力な神社に摂社として祀ったものと考えられる。
伊太代神が射楯兵主神社の射楯神である。
因達里の条の伊太代神、すなわち射楯神は、朝鮮半島へ向かう神功皇后の軍船を誘導する航海神としての性格をみせているが、単なる航海神というのではなくて軍船を守護する武神・軍神としての性格もあり、むしろこちらの方が濃厚と考えられる。『播磨国風土記』にみられる伊太代神は音を漢字に移したものであるが、射楯神という表記からはこの武神・軍神としての要素がよく読みとれるであろう。射楯神の「楯」はいうまでもなく敵が射った矢を防ぐための兵器であり、敵から自らを守るためのものである。したがって、射楯神の表記である「射楯」からは、敵から自らを守護するという意味を読みとることができ、『播磨国風土記』の因達里の条にみられる伊太代神の伝承を象徴しているといえる。
播磨国風土記の因達里の条
ここにみられる伊太代神(射楯神)が、通説として説かれている五十猛神との関係についてまったくふれていないということである。