扶余伝

秦の始皇帝の大帝国が出現した紀元前3世紀、中国遼寧省から朝鮮半島の北部に扶余(フヨ)・高句麗・獩貊(ワイハク)・沃沮(ヨクソ)が登場するが、それらは扶余族を宗族とする同族系国家連合、いわば扶余系部族連合である。

扶余系部族連合は、粛慎国に帰属する穢(ワイ)族系部族の連合体で、獩族(ワイ)・貊族(ハク)・狛族(コマ)などが包含されていたものと想像するが、その連合体の王を出す主要部族が扶余族。

扶余国は、燕国(前燕)の慕容(ボヨウ)氏から二度の壊滅的被害を受けている。

285年には武宣帝・慕容廆(カイ)346年には文明帝・慕容皝(コウ)によって、国を破られ、その後は高句麗の従属国として命運をつないだが、410年に高句麗に併呑され、歴史から姿を消している。

従って、285年前後か遅くとも346年までに、その遺民が倭国に渡来したものと思われる。


三国志魏書

扶余は長城の北に在り、玄菟郡からは千里、南に高句麗、東に挹婁、西に鮮卑族と接し、北には弱水(アムール河)があり、方形は二千里。土着民の戸数八万、宮室、倉庫、牢獄などがある。丘陵や大河が多く、東夷の領域では最も平坦である。土地は五穀の栽培に適しているが、果実はできない。体形は大柄で勇猛だが、謹厳実直で略奪をしない。

 国には君王がいる。いずれも六畜(ろくちく)の名を官名にしており、馬加、牛加、豬加、狗加、大使、大使者、使者などがいる。邑落には豪民がおり、下戸という奴僕がいる。諸加(馬加など)は主要四道(一種の道州制)に別け、道における大邑落の首長は数千家、下位の小邑落の首長は数百家を支配する

飲食には俎豆(お膳)を用い、一同に会して拜爵(献杯)、洗爵(返杯)をし、その立居振舞(たちいふるまい)は礼に適う。

殷暦の正月には天を祭り、国中が大いに会し、連日、飲食と歌舞に興じる。名を迎鼓といい、この時は法の執行を断ち、囚徒を解く。国に在っては、衣は白を好み、白布の大袂(広袖)の袍(外套)・袴(はかま)、革鞜を履く。国を出るときは、飾りを縫った絹布の錦(にしき)や毛織物を好んで着る。大人は狐狸、狖白(尾長猿?)、黒貂(テン)の皮衣を加え、金銀で帽子を飾る

訳人(通訳)が辞を伝えるときは、皆が跪(ひざまづ)き、手を地に着け、小声で応答する。刑は厳しく即断され、殺人は死、その家人を没収して奴婢にする。盗んだ金品の十二倍を賠償する。

男女の淫行、婦人の嫉妬は、皆これを殺す。最も憎むべき嫉妬の罰は、すでに殺した屍を、国の南の山上に放棄して腐乱に至らしめる。女の実家が遺体を回収したければ、牛馬を献納すれば、遺骸を引き取れる。兄が死ねば、その弟が嫂を妻とするのは、匈奴と同じ風俗である 

その国は家畜を上手に飼育し、名馬、赤い宝玉、テンや猿の毛皮、美しい真珠を産出する。真珠の大きいのは棗(なつめ)ほどもある。弓矢刀矛を武器とし、家々に鎧と武具を備えている。国の古老は昔の亡命者だと自称する。城柵で周りを囲った牢獄のようなものがある。歩行するときは昼夜の別なく老人子供が皆、歌を歌うので一日中、声が絶えない。

軍事や祭祀の際には、牛を殺して蹄(ひづめ)を観て、吉凶を占い、蹄が割れていれば凶、合わさっていれば吉とする。敵が現れれば、諸加は自ら戦い、下戸は兵糧や食事を提供する。諸加が死ねば、夏季は皆、氷で腐敗を防ぎ、人を殺して殉葬する。多いときには百を数える。手厚く葬り、墳墓には槨(かく=木組みの墓室)はあるが棺(かんおけ=石棺)はない

 魏略には、そこの風俗は、服喪の停止は五カ月とし、その期間が永いほど栄誉とする。そこの葬祭は老若を問わない。喪主は速い葬儀を望まず、他人にこれを強い、常に諌められて終えることを節度とする。その喪に居合わせる男女は皆、純白、婦人は顔を覆う布のベールを着て、ベルト状の宝石飾りを外す。大体中国に相通じるものがある 

扶余は昔、玄菟郡に帰属していた。漢末、公孫度が海東に勇を馳せて、外夷を威服させたとき、扶余王の尉仇台は遼東郡に帰属した。高句麗と鮮卑族が強大となった時、公孫度は扶余が二族の間で苦慮させられたので公孫氏の娘を妻とさせた。

 尉仇台が死に簡位居が立った。彼には適子がなく、庶子の麻余がいた。位居が死に、諸加(重臣たち)は麻余を共立した。牛加の兄子で位居という者が大使となし、財政を改善し善政をしたので、国人はこれを副官とし、毎年、遣使として京都(洛陽)に貢献させた。

 正始年間(240-249年)、幽州刺史の母丘儉が高句麗を討つため、玄菟太守の王頎を扶余に派遣。位居は大加を郊外に派遣して、軍糧を提供して王頎を歓迎した。牛加の季父に二心あり、位居は季父父子を誅殺して財物を没収し、徴収簿を官に送った。

 古い扶余の風俗では水害旱魃や不作は祭祀を司る国王の責任に帰すとされ、易が当たるか、あるいは殺(死罪)に当たるかと言われる。

麻余が死に、その子の依慮(イロ)が六歳で王に立った。

漢代、扶余王は葬祭に用いる玉匣(箱)を常に玄菟郡に預け、王の葬儀があれば取りに来た。公孫淵が誅伐されたとき、玄菟郡治の庫には、なお玉匣一具が保管されていた。今の扶余の庫には玉璧・珪・瓚など先祖伝来の遺物があり、伝家の家宝である。古老は、先祖が下賜された印璽には「濊王之印」と彫られているという。国内に故城あり、名を濊城という。濊貊の故地で、扶余王は濊城にいると、まるで亡命者のようだと言った。そもそも有りえる話である 

 ① 魏略曰:其國殷富、自先世以來、未嘗破壞。

 ② 魏略曰:舊志又言、昔北方有高離之國者、其王者侍婢有身、王欲殺之、婢云「有氣如雞子來下、我故有身。」後生子、王捐之於溷中、豬以喙嘘之、徙至馬閑、馬以氣嘘之、不死。王疑以為天子也、乃令其母收畜之、名曰東明、常令牧馬。東明善射、王恐奪其國也、欲殺之。東明走、南至施掩水、以弓撃水、魚鱉浮為橋、東明得度、魚鱉乃解散、追兵不得渡。東明因都王夫餘之地。(訳文は、三国神話の扶余) 

 
後漢書

建武年間(25年-57年)、東夷諸国は皆、来朝し貢献した。

 建武二十五年(49年)、扶余王が遣使をたてて朝貢してきたので、光武帝は、これに手厚く応えて報い、ここに毎年の通貢を命じた。

 安帝の永初五年(111年)、扶余王が初めて歩兵と騎兵七、八千人で楽浪郡に侵攻し、官吏や民を殺傷した。後に再び漢に帰服した

 永寧元年(120年)、太子の尉仇台(いきゅうだい)を派遣して王宮に詣でて貢献する。天子は尉仇台に金印を賜る。

順帝の永和元年(136年)、その王が京師に来朝、帝は黄門に鼓吹で出迎えさせ、角抵戲(相撲)を催してこれを歓待した。

 桓帝の延熹四年(161年)、扶余王、遣使を以て貢献に来朝する、 

 永康元年(167年)、王の夫台が二万余の軍勢で玄菟を侵略。玄菟太守の公孫域は、これを撃破、斬首千余級を挙げた。

 霊帝の熹平三年(174年)、再び奉じて貢献をする。扶余は昔、玄菟郡に属していたが、献帝の時代、その王が遼東に属することを求めた、云々。


晋書

扶余国は玄菟の北に千余里、南に鮮卑に接し、北に弱水があり、地積二千里、戸数八万、城邑、宮室があり、土地は五穀の栽培に適している。

 その国人は強勇、一同に会するときの振舞いの礼儀は中国に似ている。外出するときは、飾りを縫った絹布の錦(にしき)や毛織物を用いて、金銀の飾りを腰に巻く。その法では、殺人は死罪、その家族を没収する。盜みは十二倍の弁償;男女の淫行、婦人の嫉妬は、皆、これを殺す。

 若し軍事があれば、牛を殺して天を祭り、その蹄(ひづめ)を観て、吉凶を占い、蹄が割れていれば凶、合わさっていれば吉とする。死者は生きた人を以て殉葬する。槨はあるが棺はない。その葬儀では、男女は皆、純白の衣をつけ、婦人は布で顔を覆う衣を着て、ベルト状の宝石飾りを外す。

 出善い馬を産出、貂豹(テン、ヒョウ)の毛皮、美しい真珠、真珠の大きいのは酸棗(なつめ)ほどもある。その国は豊かで、先祖以来、未まだかつて破られたことがない。その王印の文称は「穢王之印」。国の中に昔の穢城があり、元の穢貊の城である

武帝の時代、頻繁に朝貢に訪れたが、太康六年(285年)、慕容廆(ぼようかい)によって扶余は全軍が撃破され、王の依慮(イロ)は自殺し、子弟は逃れて沃沮に保護された。

 皇帝は詔を発して「扶余王は代々忠孝を守り、悪賊によって滅ぼされたことは甚だ遺憾に思う。もし、遺された類族をもって国を復興するなら、それに助力をしてやり、存立できるようにしてやれ」と命じたが、司奏護の東夷校尉「鮮于嬰」が扶余の救援に向かわず、機略の好機を失したので、詔を以て嬰を罷免し、何龕(かずい)に代えた。

 翌年、扶余王を継いだ依羅(イリ)は遣使を龕に派遣し、復興のために故国に戻る救援を嘆願した。龕は兵を召集し、督郵の賈沈以にこれを送らせた。慕容廆は賈沈以の皇軍と戦うも、大敗して軍勢を撤退したので、依羅は復興が叶った。以後も慕容廆は毎度のように扶余人を拉致しては中國で売った。帝はこれを哀れに思い、また、詔を発して官物で彼らを買い戻し、下司、冀の二州で扶余の生口(奴隷)の売買を禁じた。