忍坂日子人大兄皇子、息長氏、播磨

景行天皇は、、若帶日子命と倭建命とまた五百木入日子命の三王を太子(ひつぎの みこ) とし、その餘(ほか)の七十七王は、ことごとく國國の國造、和氣、稻置、縣主に別けた。

孝霊天皇(妃の絙某弟)ー若建吉備津日子ー伊那毘能若郎女(夫の景行天皇)ー日子人大兄王

景行天皇と伊那毘能若郎女ー日子人大兄王ー大中姫命(仲哀天皇の妃)ー麛坂皇子(香坂皇子)と忍熊皇子

景行天皇と伊那毘能若郎女(いなびの わかいらつめ)との間の御子は
眞若王(まわかの みこ)、
日子人大兄王(ひこひとの おおえの みこ)。日子人大兄王は、異母妹の銀王(しろがねのみこ)を娶り大中姫(甥の仲哀天皇妃)等を儲けた。

また、訶具漏比賣(倭建命の曾孫)との間の御子は
大枝王(おおえの みこ)。何故、時代が合わないか?押熊王の反乱が原因であろう。

新撰姓氏録には、息長彦人大兄瑞城命の後裔が茨田勝とある。

茨田勝  山城国皇別       景行天皇皇子、息長彦人大兄瑞城命の後なり

この皇子の名前は、日本書紀には見えず、先代旧事本紀にはよく似た息前彦人大兄水城命(奄智白幣造の祖)の名が天皇本紀に見えている。また、書記の仲哀二年春正月条には、「気長足姫尊を立てて皇后とす。これより先に、叔父彦人大兄が女、大中姫を娶りて妃としたまう。香坂皇子、忍熊皇子を生む。」とある。

茨田勝とは、新撰姓氏禄(815)・河内国諸蕃の条に、

「茨田勝  仁徳天皇の御代、茨田邑の地を賜り、因って茨田勝と為す」

とある渡来系氏族だが、同じ姓氏禄の河内国皇別の条には、

「茨田宿禰 多朝臣同祖 彦八井耳命之後也 男野現宿禰仁徳天皇御世造茨田堤」

とあり、神武の第1皇子・彦八井耳命(ヒコヤイミミ)の後裔という(古事記にも同じ記述がある)。

彦八井耳の後裔は、成務天皇の時代から日向や日下部吉見神に関わり、九州南部に多い。一方、神八井耳の後裔は、阿蘇氏や火国の国造であり九州北部に多い。いずれも神武天皇の皇子ということでは同じである。

茨田勝と茨田宿禰の祖神は異なるが、渡来系氏族が神別・皇別を名乗る事例は多く、茨田氏もそのひとつで、後世、宿禰の姓を賜った時皇別を名乗ったのであろう。
日子人大兄皇子の系譜 : 古事記より

  

叔父の日子人大兄の系譜 : 日本書紀より

  

多坐弥志理都比古神社
おおにますやしりつひこじんじゃ
奈良県磯城郡田原本町大字多字宮ノ内569
多坐弥志理都比古神社二座
皇子神命神社
姫皇子神社
御祭神 神武天皇 神八井耳命 神沼河耳命
姫御神 太安万侶
境外摂社
小社神命神社 太朝臣安萬呂
皇子神命神社 皇子神命
姫皇子命神社 姫皇子命
子部神社二座 並大 月次新嘗
子部神社 小子部命
屋就神命神社 屋就神
本殿後方に神武塚という小丘があり、祭祀遺跡だと考えられている。俗に、多神社と呼ばれる神社。古書には、大社・太社・意富社とも書かれている。祭神・神八井耳命は、多氏の祖。古事記の編者・太安万侶も、多氏の一族だと言われている。
本殿は四棟で、現在、第一社に神武天皇、第二社に神八井耳命、第三社に神沼河耳命、第四社に姫御神を祀っている。
ただし、明治の神社明細帳によれば、第一社・第四社は境内社扱いとなっており、主神は、神八井耳命と神沼河耳命の二座。また、別の説では、神八井耳命と神武天皇、神八井耳命と姫神など、いろいろ。
延喜式における、「弥志理都比古」が本来の祭神で、これが神八井耳命。神武天皇の長子・神八井耳命は、弟である神沼河耳命(綏靖天皇)に皇位を譲ったので身を退かれたという意味で、「ミツシリツヒコ」という。あるいは、神八井耳命に「八井」から多くの井を司ると考え、水神的性格を強調して「ミツシリツヒコ」という。皇子神命神社と姫皇子神社については、境外摂社とする説、本殿四棟の右殿とする説がある。

由緒  社伝によると、神武天皇の皇子神 八井耳命がこの里に来られ、…我、 天神地祇を祀る…という由緒をもつ。 平安時代の『延喜式』にも名がみえ る大和でも屈指の大社である。神八 井耳命を始祖とする多氏によって祀 られ、中世には十市氏に よって支えられた。
-境内案内より-

小社神命神社とある式内社

境外摂社で、社名・小社は“コモリ”と訓む。多神社の南約100m。多神社の正面入口から、細道路を渡って南側の小道を南へ入った左側(東側)の林の中に鎮座する。多神社に残る多神宮注進状(1149・平安末期)では“樹森神社”(コモリ)と呼ばれ、江戸時代には地名をとって“木ノ下神社”(コノシタ)とも呼ばれたという(大和志・1734)。今、多神社では“コモリ神社”と呼び、皇子神を祀る“若宮四社の一”としている。

平安末期の多神宮注進状には『瓊玉戈神命』とある。

社司多神名秘伝には「春日郡坐大社(オオモリ)神社同体異名也。天照大日孁神の皇子神と言うべきか」とある(式内社調査報告・1982)。

秘伝にいう春日郡坐大社神社とは、河内国讃良郡高宮郷にある式内・高宮大社御祖神社(タカミヤオオモリミオヤ、現寝屋川市高宮)のこととされる。この神社は、同郡にある高宮大社神社の奥宮で、祭神は大社神社が天剛川命(アメノコカワ)、御祖神社はその父神・天萬魂命(アメノヨロズムスヒ)で、高宮神主の祖神という(先代旧事本紀)。高宮神主は高宮村主(スグリ)とも呼ばれる氏族で、大和国葛上郡高宮郷附近に居住した秦氏系の渡来氏族といわれ、河内国讃良郡には居住の痕跡がない

日向神社--高宮亦上宮(いずれもコウノミヤ)と曰ふ。三輪山峯青垣山に在り。神殿無く神杉有り、奥杉と称するは是也。

神名帳に云ふ大神坐日向神社一座、一所日本大国主命(ヒノモトノオオクニヌシ)也。

大神分身類社鈔(1265・足利時代)

三輪上神社一座--神名帳に云ふ神坐日向神社一座、日本大国主命 神体杉木

などの古史料があり、他の中世から江戸時代にかけての史料・絵図にも、三輪山山頂に鎮座するのは日向神社で、高宮・上宮ともいった、とするものが多い

また、大神崇秘書は、

「(日向神社は)孝昭天皇(第5代天皇)御宇の御鎮座也。天皇元年4月上卯日前夜半、峯の古大杉の上に日輪の如き火気があり、光を放って山を照らす。その暁に神が天降り官女に託宣して、『我は日本大国主命也、今此の国に還り来たれり也。山田吉川比古をして我が広前を崇秘奉れ』と謂った。天皇、この御託宣により、吉川比古命(クエヒコ命8世の後、川辺足尼の子也)に勅して高宮神主と定めた」(大意)

との鎮座伝承を伝えている。この伝承は、鎮座時期を、実在が疑問視されている孝昭天皇の御宇とすること、祭祀氏族・高宮神主をクエヒコの後裔とするなど、今の定説とは異なる記述が見える(高宮神主家は大神氏の後裔という)ことから、後世の創作であろうが、その内容は、日向神社の祭神が日神的神格をもった神(=日向御子神)であることを示唆している。

高宮神社・大杜御祖神社 寝屋川市高宮

高宮神社は式内大社、大杜御祖神社も式内社。 
天剛風命はアメノコカゼ、天萬魂命はその父神でアメノヨロズタマ。高宮氏の祖神を祀る。 『日本書紀』神功皇后五年に葛城襲津彦が新羅から連れてきた浮人(トリコ)が桑原、左ビ、高宮、忍海凡そ四邑の漢人等の祖とある。 秦氏などと共に応神王権を支えた二番手の渡来人だったのかも。 大杜御祖神社の境内に高宮寺があった。東西の二塔、講堂と中門が回廊で結ばれ、薬師寺的伽藍だったと云う。

祭神は『先代旧事本紀』(平安時代)に高宮神主たちの祖先と記載されている天剛風命(あめのこかぜのみこと)で、大杜御祖神社の祭神、天萬魂命(あめのよろずたまのみこと)の子神にあたります。

江戸時代には、旧讃良郡内の一番の大宮として「一の宮」ともよばれていました。

迦具漏比売 かぐろひめ
「古事記」にみえる応神天皇の妃。
応神天皇の寵愛をうけて川原田郎女,玉郎女,忍坂大中比売,登富志郎女(とおしのいらつめ),迦多遅王(かたじ)を生んだという。

二人のかぐろ姫
応神記が正しいと思うが、

景行天皇がこの迦具漏比売命を娶って生んだ子供が、大江王です。

このオオエ王が腹違の妹mである銀王を娶って生んだ子供が大名方王、大中比売命です。
大中比売命は香坂王・忍熊王の母です。

オオエ王は異母妹のシロガネ王を娶ります。異母ということはどちらも父親は景行天皇です。しかしシロガネ王の母親は不明。

押坂日子人大兄皇子 6世紀末

敏達天皇の第一皇子として誕生。母は息長真手王の娘・広姫。

系譜
妃:糠手姫皇女(ぬかでひめのみこ、宝王・田村皇女。敏達天皇の皇女)

田村王(たむらのみこ、舒明天皇) 中津王(なかつみこ) 多良王(たらのみこ)

妃:大俣王(おおまたのみこ。漢王の妹)

茅渟王(ちぬのみこ、智奴王) …,吉備姫王(吉備島皇祖母命)を妃とし、宝女王(皇極天皇・斉明天皇)と軽王(孝徳天皇)を儲けた。茅渟皇子、智奴王ともいわれる。

桑田王(くわたのみこ、女性)

妃:桜井弓張皇女(さくらいのゆみはりのひめみこ、桜井玄王。敏達天皇の皇女)

山代王(やましろのみこ) 笠縫王(かさぬいのみこ)

妃:小墾田皇女(おはりたのひめみこ。敏達天皇の皇女)

なお、『新撰姓氏録』左京皇別に敏達天皇の孫として見える「百済王(くたらのみこ)」も彦人大兄皇子の子であることは確実だが、『古事記』に掲げられた系譜には見えないため、多良王(久多良王の久が脱落)や茅渟王と同一人に考える説がある。
蘇我氏の血を引かない敏達王統の最有力者であって、忍坂部(刑部氏)・丸子部などの独立した財政基盤を有し、王都を離れて水派宮(みまたのみや、奈良県河合町か)を営んでいた。用明天皇の崩御(587年)後に王位継承者として候補に挙がったとされるが、対立する蘇我系王族が台頭したため、以後の史料には活動が一切見えず、蘇我氏によって暗殺されたとの憶測もある。ただし、『一代要記』や『紹運録』を基に逆算される舒明の生年(593年)とその弟の存在を考えると、592年の推古天皇即位後も暫く生存していたはずで、非蘇我系の王位継承候補者として、蘇我系の竹田皇子や厩戸皇子と比肩し得る地位を保っていたと思われる。

607年に王位継承者(厩戸)を資養する壬生部(みぶべ)が設置されているので、これ以前には亡くなっていたらしい。『延喜式』諸陵寮によれば、成相墓(ならいのはか、奈良県広陵町の牧野古墳か)に葬られた。

忍坂部や丸子部といった押坂彦人大兄皇子伝来の私領は「皇祖大兄御名入部」と呼ばれ、以後も息子である舒明から孫の中大兄皇子(後の天智天皇)らへと引き継がれて、大化の改新後に国家に返納された(『日本書紀』大化2年3月壬午条)と考えられており、彦人大兄の死後においても、皇子の系統が蘇我氏や上宮王家に対抗して舒明即位から大化の改新の実現を可能にしたのは、こうした財政的裏付けの存在があったからだと言われている。